わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

平和行進について

2011-01-07 10:49:36 | 癒し
 (問)平和行進についてお伺い致します。最近、全国的にみて、

若干低調になっているように思われます。一時会員参加者による

発声は止められ、五井先生のテープによる先導ということで、

心の中で祈り言を唱えておりましたが、最近は再び五井先生の

お声の後に唱和するようになりました。

 私達は、世界人類が平和でありますようにとの街頭唱和でもって、

あたりを光で浄め、祈りをしらない一般の方々への啓蒙活動になる

ことを信じて実施しておりますが、最近、少し軽視されているように

感じるのですが、現在では、その時代ではないのでしょうか。



 (答)自分の信じている宗教、南無阿弥陀仏でもアーメンでも、

一緒に唱えるということは、気持ちがすがすがしくなるんですよね。
 
 キリスト教であれば、アーメンと言った時に、五井先生であれば、

世界人類が平和でありますようにと皆で唱える、守護霊様守護神様

ありがとうございますと言うと、そこでピタッとこの生命が一緒に

なるという気持ちを言って下さっているんだと思うんですよね。

 必要が無くなった、段々回数が少なくなってきているというのは、

二つばかり理由がありまして、一つにはステッカーが貼られ、

ピースポールが世界中に建立され、書物などが広まったということ。

 結局、平和行進は何が目的だったかというと、勿論、自分でこの

祈りが世界中で一番素晴らしいと思って、祈りを知らせて下さる、

今言われた啓蒙ですよね。それと全然これを知らない人でも、あの

言葉を聞くと本当に心が和むという以上に、平和に満ちてきて、

別に白光を知らなくても五井昌久を知らなくても、その言葉だけが

胸に残って、いつの間にか自分の生活の中にその言葉が入るという

ことだけでも、すごいことなんですよね。ところがさっきも

言いましたように、色んなステッカー等が貼られて、浄めの場所が

広くなってきた。ということは、平和行進の一つの奥の目的は、

光をふりまいて行くということなんです。浄めをしてゆくということ

なんですよね。どんな所にでも歩いて行って踏み分けて行って、昔

役の小角が山野を跋渉してということがありますけれど、本当

そうなんです。

 役の行者だった時に、何故山野を跋渉したかというと、それこそ

怪ね、生き霊、悪霊というものを全部光に変えていくということが

必要だったんですね。本当に、まだそういうものが幽界という

閉じ込められた世界ではなくて、地上の中に堂々と姿を現わしていた

ような世界でしたからね。それをどんどん光に変えてゆくという

意味があって、肉体を滅する位までの行をしながらやっていかなきゃ

いけなかったの。で、その古い弟子が○○君であり○○君であって、

皆そうなんですよね。皆飛び歩いた仲間なんですよ。

 だけれども、そうやって飛び歩いて、自分の生命を差し上げます

という位にやっていたそういう人が、段々文明が進んで行って、

生活が便利になって、世界が狭くなってくると、皆それぞれ生活

というものがあります、暮しというものがあります、経済もあります。

 そうなってくると、そういう生命がけのことがどこまで可能か

といったら、なかなか出来ないんですよ。ですから、世界人類が平和で

ありますようにというあの言葉に全部集約して、このことを唱えると、

愛の神様の愛念が、愛の気が流れてきてね、そんじょそこらの低級霊

なんかは全部浄化されて、あの言葉を聞くだけで唱えるだけで、光に

変わってゆくというそういう祈り言でしょう。それを唱え伝える

ということは、それだけでもすごいことなんですよね。

 もう一つには、皆がみんな生命を捧げたら人間生きて

いけませんからね。やっぱり生きて行って、その生き通しの生命を

次の世界へ持って行って、宇宙の平和の中に入り込んでゆくと

いうのが人間の真性ですから、そこで今の現在の状況に

合わせていって、世界人類が平和でありますようにという祈り言が

出て来た。で、この祈り言も昔は○○さんが言ったように、自分の

自己啓発もある、啓蒙もある、そういう意味で、色んな所を

言って歩いた。確かにそうなんです、自分たちが最初言っていくことは

恥ずかしいですよね。ステッカーを貼ること自体恥ずかしいですし、

五井先生の著書を上げることでも、つっ返されたらどうしよう

という想いが皆あって、そこを乗り越えて皆渡したりするんですよね、

リーフレットを渡したりね。皆それで、それぞれ強くなって

ゆくんですよね。

 それが今は、ピースポール等が出来てきた為に、皆がみんな世界に

行かなくても、今度は世界中にある程度ばらまかれたから、そこの

国の人がそこの国の言葉で感じて祈ってる。世界人類が平和で

ありますようにという言葉は、世界語になってきてる訳ですね。世界語

になって宇宙語になっている訳です。元々宇宙人の全部の人の

言葉なんです。もっと言うと、宇宙人類が平和でありますようにと

言ってもいいんです。そういう言葉なんです。世界というのは地球世界

だけではないんですね。宇宙全体の何億とある宇宙の全部の生命が、

全体で体中で祈っているのが、世界人類が平和でありますように

という言葉なんですよ。この今の地球のここに話を戻すと、皆歩いて

ゆかなくても、あちこちにピースポールが立った。

 そこでもし弊害が出てくるとすれば、ピースポールやステッカーに

頼っちゃって、唱える力とか、唱えて感激するとか、あるいは、大きな

声で祈ることによる感動・感激とかを通して、ああ神様というのは

本当にいるんだなというようなことが、段々回数が少なくなってくると

それは言わない訳ですから、そこで祈りというものはいいもんだなあ

という、元初の感動というものがなくなってくるんですよ。頼っちゃう

から。だから、皆がねみそぎなどに何故あんなに集まるかというと、

自分の言葉で自分の本心に降りていって、五井先生に神様に大神様に

挨拶したい、あるいは、私はこういう風に思っているんですが

どうなんでしょうかという想いを、そのまま預けるというね。みそぎに

あれだけ来るというのは、皆本当に本心開発をやってゆきたい、

霊性開発をやってゆきたいんです。とそういうことなんです。

 ですから、平和行進というものは、一つには、祈り言葉が拡がって

いるから、そういう所でもうしなくてもいいよという風に、とれば

とれるんです。ですけど、○○さんが言ったみたいに、自分の中の

内奥の声というものを本当にみつめて、そこから自分の内を努めて

ゆく。努めていって自分の人間の真性というものを磨いてゆくという

点から言えば、今これ程必要なものはないんですよ。平和行進位。

 それは自分の為にもなる人の為にもなる。それは歩いているだけで、

人間は光なんですから浄まっている訳ですからね。だから、一石三鳥も

四鳥もなんですよ。そこにそれぞれの守護の神霊の加護がある訳

ですからね。

 ですから本当に、祈りとは何ぞや、唱えるとは何か。唱名念仏

ということね、言いましたでしょう。あの親鸞も法然もね。唱名する

ということは何かといったら、唱名している内に無になり空になって、

永遠の生命の中に溶け込んでゆくということなんですよ。自分もなく

我もなく人もなく、永遠の生命の中に溶け込んでいって、自分が本当に

朗らかな生命の光の一筋のその一部なんだというところで、三昧に

なるんです。三昧というのは、原稿にも書きましたけど、単なる

法悦境ではないんですよね。自分だけの世界に浸るということでは

ないんですよ。ですから、平和行進が単なる自己満足ですとか、良い

言葉だなあと酔いしれるというのですかね、その程度で満足するの

でしたらやらない方がましなんですよ。

 一時、平和行進の唱和を止めたというのは、自己満足で自己顕示で

酔いしれる人がいますでしょう。これだけ大きな声で読んでます、

五井先生聞いて下さいと。しかし、本当の霊性というのはそういう

ものじゃないよということを、やっぱり磨かせる為に止めたんです。

 どんないい習慣でも、どんなに良い言葉でも、それに人間が慣れて

くると、その中にある光がどんなに大きいか深いか広いかということに

気がつかないんですね。気がつき難くなるんです。で、一回それを

ポンと突き放されて、例えば、平和行進でも何でもね、はいじゃあ

止めましょうという形で止められてしまうと、その一人一人にとって、

どれ程大事でどれ程自分の中にくい込んでいたかいないかということが

分かる訳なんですよね。あるいは、自分自身の意識の上では、

平和行進はそんなに必要ないと思っていても、思いがけない人から、

なぜ平和行進しないんですかと、そんなことを他人から言われたりして、

他の人の中にそれ程くい込んでいたかというようなことで知らされる。

 それがその人の魂の開発になるというようなことがあるんですよ。

 ですから、自己満足や自己顕示欲に終わるその人達の魂の開発が、

そろそろきちっとなってゆけばですね、魂が澄み清まって純度が高く

なれば、自ずから平和行進しましょうという風な、つまり、集会の

案内をもう一度出しましょうと同じことなんです。

 やっぱりやらなきゃ駄目ですね、というように実践の方へなって

ゆく筈なんですよね。だから、平和行進をやって下さいという声を

本当に高めて下すって、やっぱりやって下さるということが一番

なんです。で、平和の祈りというものは、本当は自分もない人もない、

ただ神様の生命の中に入り込むという大調和の祈りですから、我

というものを無くさせる祈りですから、自分が自分がという

我をとって、大我の中に入れる祈りですから、やっていく内に、

自分の意識はとも角も、その奥の体の中には徳がずっと積もって

ゆく訳ですよね。ですから大いにやっていただいていいんです。本部が

中心になるんじゃないんですよ。人間が中心なんですよね。

祈りは愛

2011-01-07 10:26:30 | 癒し
黙って
人の話をきいてゆくと
おのずから
心がしずかに
なるものだ

人は
そのとき
自分でも気づかないうちに
光に
なって
いる


あたたかい人
それは
愛の世界の住者


祈りは
愛の
最高に
位置している