わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

偶々成詩献友

2011-01-08 10:26:32 | 癒し
日月天在人照心
人者光為互観自
眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳
   

   
  今日は私のつくりました詩をもとにして祈り

ということを考えてみたいと思います。


日月天在人照心
人者光為互観自


(じつげつはてんにありてひとのこころをてらし、

ひとはひかりとなりてかたみに、みずからをかんず)


 日月、太陽も月もですね、それは空にあって、それぞれが

光を万物に届かせているわけですけれども、人間のどこを

一番照らしているかというと、それは、心、本心、いのちの

みなもとを照らしている、というんです。勿論、からだも照らし

ますよ、けれど、からだを照らしながら、その実は、人間の心、

おおもとをてらして、神様の愛を伝えているとこういう

わけです。これは真実なんですよ。事実そのまんまです。

  で、その光を受けた人間、神様の愛を日月の光から

感じとった人間はどうかというと、ほん然と、本来の自分の姿、

光そのものの自分であることをさとってですね、光明となって、

お互いに、その光体光身を、しみじみと永遠者の前に

さながらにみつめるわけです。

 自分の本来をつくづくとながめるわけですよね、

ようございますか?


眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神


(めをはなてばみずはそのながれをたのしみ、

くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)


 第一句が日月は天にありてで、うーんと高い感じでしょ、

それで、おんなじことを、今度は、我々の生きてるこの地上に

みてみよう、と、こういうわけですよね。

 眼を地上に移してみると、せせらぎにしても大河に

してもですね、水というものは、自分がどんな風に

流れようとか、流れたいとか一切考えない。ねっ。

 それでいて、おのずからなるそのながれを、ながれのまんま

楽しんでいる。任せ切った姿ですね。それでもって悠々と

してる。朗らかでさえある。

 実は、我々を生かしめておりますいのちというものも、

このとおりなのでありまして、その相(すがた)は、悠々とした

ものなのであります。

 真理の相(すがた)の無邪気さ、朗らかさを、わたくしは

ここでうたったつもりです。

 さて、そこで、水の流れの自在なすがたを受けて、今度は、

自然に眼を向けてみました。


草木之戦覚神恵

(くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)


 くさきは、そのそよぎにすらかみのめぐみをさとる。

 そよぎですから、それ程の風じゃありません。ありませんけども、

自分自身をゆらゆらさせる、フラフラさせるものには

ちがいないんです。

 これを、人間世界におきかえると、火事になるってことかも

知れないし、病気になる、貧乏になるってことかも

知れませんよね。

 とにかく、いいことじゃない。この世で、不幸とよばれて

いるもののいくつかに襲われる、そういうことです。

 けれど、地の上の草木は、突然風が吹いてきて、

踏んばるのがやっとなんていう時にもね、ああ、これは神様が

私に働いていて下さるからだ、神様ありがとうございますって、

イヤホントですよ。

 私なんぞ、花の精や木の精としょっちゅうそういうことを

話してるんですもの、でそういう風に、感謝してしまう。ありがとう

ございますといってね、神様と一体になる。

 いつも、私のいってる消えてゆく姿で世界平和の祈り

そのものですよね。

 神様の愛を受けて、万物は生い育っているんです。 勿論、

その筆頭に人間がくる。そうすると、本当に、素直な、さながらの

すがたになるとですね、あらゆることに、いいことに出合っても、

また悪いことに出合っても、神様ありがとうございますって

いえるようになるんです。それが自然なんです。

 次にいきましょうか?


天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相


(てんちをすべるは、たそというこえをきけば、ほしは

ほほえみてあいをちになげ、ひとのこころのすがたを

かたりてやまず)


 この天地、あめつちのすべて、すべてを統(お)さめて

いらっしゃるのはどなたでしょうと、問いかけ、これは、人間からの

問いかけですよ。問いかけを耳にした星は、にっこりして、人の心の

真実の相(すがた)について語りはじめた、それは、うむことなく

語りつづけられた──という意味です。

 ここでは、人の心というものに主眼をおいています。

 この天地すべてを治めておられるのはどなたなんだろう、こういう

人間の呟(つぶや)きがきこえてきた時、星が、地上に投げたものは

愛だったというのです。

 神様という言葉を、ここでは使っておりませんけれど、愛を

投げた、しかも、にっこり笑って投げたということで、この愛が、

神様の愛だということをあらわしているわけです。

 いつも申しますように、神様という方を、別の言葉に

おきかえるとすれば、それは極みのない愛なのです。徹底した

愛なのです。

 その神の愛を地にふりそそいで、そうして、人の心、本心の

姿というものについて、うむことなく語りつづけたところですね。

 人の心が神の愛をあらわす主体であることをここでいいたい

のであります。心をさかのぼれば、本心、本体になってゆく

のであります。


即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己


(すなわちきかずや、そのじっそうはかみのあいじにして、

こうげんはうちゅうにきし、えいえんのいのちはおのれに

おうかんす)


 さあききなさい、と、こううながしているわけですよ。

 人間の心、本心というものの真実、それに人間と

いうものは、神様のいとし児なんだということね。

 人間っていうのは、神からきて、神に帰るいのちですからね。

 よく帰命(きみょう)帰命っていうけども、帰命ってのは、

これをあらわした言葉なんです。

 もっというと、神様から分かれてきた人間は、我々自身の

なかに神そのものの愛とゆるしと智恵を、持っているわけなんです。

 本当に神の子なんです。

 ですから、自分をみがいてみがいて、祈って祈って、心を澄ませて

ゆけばね。人智ではない神智がかがやきとともにあらわれ出るんですよ。

 その神様の光でもって、人間は、いのちを養ってるんです。その光は、

どこまでたずねることが出来るかっていえば、勿論神様ですけど、

それをここでは、愛の気、平和の気、世界人類が平和で

ありますようにっていう世界平和の祈りがなりひびいている宇宙の

大奥にまで、たずねることができる、源は宇宙から来てるって

いってるんです。

 そうして、その光の源、いいかえれば、永遠のいのち、生命はですね、

もうすでに、一人の人間のなかに自由に内包されて、ぐるぐると

まわって、幾万世代にもわたっていのちというものの場所になってる。

 それが、この器である人間の肉体であり、又、人間それ自身の

真性なんだ。自在ないのちのなかに、人間は遊んでるんだ。それが、

人間の本来の相であり、肉体人間を生かしている直霊、本心の真実の

相なんだとこういうことです。



己満愛世界知足
心天地朗高唱我


(すでにあいにみちたるせかいとしりてた(足)らい、こころこそ

てんちとわれはほがらかにうたわん)


 こうやって、人間、またこの世界というものの実相を内観して

きますと、もう愛で満ちている。あふれている。

 こういうことがわかってきますと、本当に満足するんです。嬉しさで

いっぱいになってくる。そうでしょう?

 そこで、自分自身を生かして下さっている心─本心ですよね、

本心こそ、自由の天地だと高らかに唱いましょう、というんです。

 さしずめここは、ベートーベンの歓喜。合唱にあたる部分ですね。


人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚


(じんかんのむをこえくうをはなれて、いのりをささげ、

おのずからひかりをはなつことをもわする。ぼうぼう

くうくうしかれどもきょ(虚)ならず)


 さあそうなってくると、人間というものはですね、もう本体だけ、

光だけになってるんですよ。無とか空を超えちゃって、はなれて本当に

自由になって、ただ、神様と一体になって、祈りをささげている。

 もう自分のからだから、すばらしい光が出てるということも

忘れている。忘れているというよりね、もうそれはどっちでもいいんだ

ということになる。そんなことどっちだっていいんです、全く我(が)

というものをはなれた、輝きにかがやいたそういう人間の本当の姿が

あるんです。

 それは、ひろびろとしてね、ひろやかになって、何にもとらわれる

ものがないというそういう状態なんで、決して、うつろな、むなしい

状態じゃないと、こういうことですね。

 祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる、それ程に、神様と一体に

なっているとそういうことです。


久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河


(くおんのながれにみをまかせて、たいがとなる。

たいがしょうがをいだきて、すなわちひとつ。いのちは

たいしょに、ひとをはこびゆけば、そのながれは

ゆうゆうとして、たいがのごとし)


 で、こういう私達、すみきわまった人間というものは、久遠の神様の

愛の流れへと身をまかせて、宇宙そのものになるというんです。宇宙

というものは、もう何物をも呑み込んでしまう。

 とらわれにみちた肉体我といったものも、全部抱きとって、宇宙

そのものとなった自分自身があるだけだ、つまりは、限りなく一つと

なるのだ、ということです。これは、神と一つということでも

ありますし、直霊と一つになるということもありますが、さらに、

宇宙神が、混沌のなかから、愛の気をみたして宇宙をつくられた、

そのおおもとである一に帰る、つまり、いのちに帰るのだということ

であります。

 いのちというもののはじまりに、祈りは、世界平和の祈りは、

こうして、私どもを運んでゆくのでありまして、この祈りによって、

いのちの流れのなかに溶け込みますとき、全くその流れが、

大河のようにゆったりとおおらかな朗らかなものであることを

私どもは知るのであります。


神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳


(しんりょはあいにしてじん、みらいざい。やむことなく

ひとをひかりのおくにいこわせん。じざいなるいのちよ。

かんきのこえをてんにいたらしめ、われひとともに、

とこしえなるじゆうしん、をうたわん)


 神様の心というものは、未来永劫、ずっと愛なんだという

ことですよね、そうして、つねに、一人びとりを、ひかりの家に

みちびいて休ませているということです。

 自在なるいのちよ、これは、自分への語りかけです。よろこびの声を

天に到らせて、私も、天地の霊人たちもともどもに、

この朗らかな自由身、自在身のよろこびをうたおうではないか──


 と、ざっといいますと、こういう詩なんです。これは、真実の

相(すがた)であって、しかも、我々は毎日の生活に疲れ果てている

けれども、ひとたび、世界平和の祈り言を唱えて祈ってゆけば、

こうした真実の本来の自分に出会えるんだということなんです。

 自分自身に出会うために祈りはあるんです。その自分というのは、

朗らかな神のいのち、大我、宇宙そのものであるということ

なのであります。

           昭和62年3月6日 夜

 「偶々成詩献友」の稿 終了 






祈りこそ人間のいのち

2011-01-08 10:10:29 | 癒し
からだじゅうで

祈っている

これが

人間の

本来の姿なのです

どんな時にも

祈っている

私は

その

すがたを知っています

なぜなら

祈りこそ

人間のいのちだから


空や海や

大自然への

あこがれを

私達は心に描き

口にします

画家は

キャンバスにむかって

自然のすがた



写しとり

音楽家は

彼にひびいてきた

大自然の

交響曲を

楽譜にする


みな

彼らの

心耳

心眼に

ひびいて

きたもの

うつし出されたものを

かきとっているのです

それは

我知らず

深い祈り心となった

彼らの

自由な眼が

こころが

神のひびきを

感じとったのです


彼らが

絵筆を走らせ

楽譜に向かう時

彼らは

祈っているのです

永遠者に向かって

語りかけているのです


彼らばかりではありません

我々が

日常のなかで

ひたすらに何かに打ち込む時

無になっている瞬間

我々自身も

深く祈っているのです


祈りは

神への道

真理へ到る道

真実の自由な自分自身との

出会い

そのものです


人は

祈らずにはいられないのです

丁度

息をしないでは

生きていられないように

祈らずには

この霊のからだが

うえかわくのです


自分でも

気付かないうちに

祈りを

ささげている

それが人間です

神様の

大愛を

よろこび

人を愛することを

よろこぶ

そのために

絶え間なく

祈っているのです


宇宙神からの

光を受けて

この肉体を

光のおもいで

いっぱいにし

世界人類が平和でありますように

と祈る時

あなたは

光となって

世界人類のなかに

とけ込み

愛を

植えて

ゆくのです


祈りを天に

到らせて

朗らかな

光となって

いきましょう