わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

(漢詩)無 題(三十)

2011-01-19 11:29:55 | 癒し
無為生命育源老子者是
真理之光照充之使者


 無為の生命をはぐくむ源。老子は
この真理の光を照らし充たしめる
これの使者。


 とらわれのない生命をはぐくむ宇宙の
大元の光。老子は、この神の愛と真理
の光を、我々の本心に照らしみたすために
つかわされた神よりの使者である。

ひかりにみちびく使者

2011-01-19 11:18:00 | 癒し
神の
光が
私に
ながれこみ
天地の
私が
合体して
個我の
五井昌久が
消えた瞬間
私は
光のいのち
ばかりになっている
自分自身と対面し
人のいのちが
みな
この
かがやきを
もって
いることを
神から
教えられて
随喜のなみだが
ほほをつたった

あるがままの
いのちを
いきる
このよろこび
ながれを
つらぬいて
生きる
いのちの
悠々とした大河
これらが
私の前にあり
世界平和の祈りが
やさしく
すべての人をてらしていた

個我の私は
語ることを
やめたが
光のいのち
となった
私は
神々の
場所として
神のいのちと
人のいのちを
つらね
つらぬく
役割を
与えられた

神に帰した
私のいのち
神から
いただきなおした
私のいのち
今もその時の
ふるえるような
よろこびを
私は
忘れはしない

神の
みひかりと
愛のもと
私は
すべての人のいのちを
ひかりに
みちびく
使者となったのだ

かえし受けるいのち

2011-01-19 11:02:32 | 癒し
 私どものいのちは、日々神様からの光をいただいて保たれて
いるのでありますが、自分自身を絶えずあたらしくするために
祈りがあり、一瞬一瞬に、古い自分を返しつづけているのだ
ということを、考えてみたいと思うのであります。

 一体自分とは何でありましょう。自分とは肉体だと思う人が
あるかも知れない。あるいは又、心だと思う人があるかも知れない。

 では、私は、何と思っているかをここで申します。
 自分とはいのちであります。いのちそのものであります。神の
光を受け、霊要素、霊気を呼吸して生きるのが自分自身、
人間そのものなのであります。

 人間というものは、こんなちっぽけな肉体の中に閉じこめられて
いるものではありません。 
 人間の真性は、天地宇宙をつらぬいて、神の愛と一体となって
いるものであります。
 神の光に抱かれ、宇宙神の愛とゆるしの大光明の一筋となって
永遠に生きゆく相(すがた)、それが、いのちというものの
真実の相なのであります。

 昔々、まだ、人間が、空気のように霊気を呼吸し、神の光を、
よろこんで身に浴びておりました頃、人間と神との交流、
人間と守護の神霊との交流というものは、誠に畏れを
持ちながら、和に満ちていたのであります。
 いのちというものの朗らかさ、永遠に活きづく本心
そのもののかがやきが、神や守護の神霊との交流のなかに、
自らを突き動かしていることを、人間達は知っていたのです。

 実に自然に、いのちというものが、つねにあたらしくされ、
日々瞬々いただきなおすものであることを、本心本体そして
心が知っていたのであります。

 祈りの言葉というものも、ひびきそのままの交流であり、
交歓でありましたが、つねに自らのいのちのかえるべきところが、
神であることをよろこびながらの祈りでありました。
 こうしたすがたは、人間本来のものであり、今、宇宙の星々に、
宇宙神の愛をうけて生きている私どものすぐれた先達、
宇宙人類達は、さながらこういう心なのであります。

 いのちの流れというものはとどまることを知りません。
 そしてそれは、肉体などという私ども肉体人間の眼を超えた、
霊妙なひびきを持つ光そのものの光体を貫き、遂に宇宙神の
みふところに流れ込んでいるものなのであります。

 つねに新しくされるということは、古い自分を脱ぎ捨てている
ということでありますけれども、これが、この現世における
「死」とおなじようにとらえられるならば、それは全く
ことなった死なのであります。

 本来、いのちというものは、ずっと、神の愛のもとに
みちびかれて絶えることのない流れでありますので、その
節目節目における「死」は、一つの仕事、修行をやりおえた
私どもが、さらに素直に神様の光のなかに生きるために、また、
より深くより広い人類の進化のために、一区切がついた、そして、
次はここだという本心本体への覚醒を指すのであります。

 私どもは、すきとおるような神の愛と神への愛を受け、又
ささげるためにこの地上に、また宇宙に連なる存在なので
ありますが、こうした光体から、遂に神の光の一筋となるために、
永遠のいのちを受けているのであり、祈り─世界平和の祈りは、
各自に分けられたこのいのちのかがやきを、いやが上にも
かがやかすのであります。

 こうした人間のいのち、自分自身はかがやく神の光であり、
いのちであると、祈りのうちに、この宣言を神への最上のそなえ物
とする時、辺りはよろこびの光にみちるのです。

 どうか、果てしなく円環しつづけるいのちをみつめるためにも、
一切を消えてゆく姿と観じ切る、とらわれを放つ神への信を
かためていただきたいものであります。

  昭和61年12月16日 夜

                  五井 昌久