わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

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支部集会の在り方について

2011-01-10 10:32:58 | 癒し
 (問)支部集会の在り方ですが、支部集会はどの様にあるべきか。

 最近はどちらかというと本部指向というか、そう感じられますが、

これからの在り方についてお聞きしたいんですが。


 (答)つまらない話だね。本部もつまらないし支部もつまらない、

そういう考えでゆくと集会もつまらなくなるでしょう。何か、やる方も

燃えないローソクを相手にしているみたいじゃないですか。せっかく

ローソクをつけるんだったら、燃えるマッチを置いとかないと駄目に

なっちゃうんじゃないですか。


 結局、支部とか集会とかいっても、どんな人間の集まりでも、人間が

生き生き生きるというか、人間がその瞬間を楽しく自分が生きていて

良かったなという、充実している想いに満ちてゆかないとね。それは

宗教だけの話じゃなくて、どんな団体集団でもそうなんです。で、

そういうものが無くなってしまったら、もうそこに属する気も

無くなるし退屈でね。こんな所に居たくないやということになる。

 やっぱり、自分がまず生き生きできるかできないかというところから、

支部とか集会をやってゆく人が入らないといけないですね。自己満足

ということではなくて、自分の心が生き生きしているかしていないか

ということは、例えば宗教であれば、生命の本源、本心が喜んでいるか

いないかというところに基準がある訳です。そこのところを聞いてみて、

そこが生き生きしていれば、皆も生き生きする訳なんですね。


 だから、支部集会の在り方というのは、逆に言えば、人間の

在り方生き方が素直であるか素直でないかにあるんですね。今の本部は

少し病気のところもある。別に誰が悪いという訳でもないし、白光が悪い

という訳でもない。あれはあれでああいう生き方を一回はさせられる

訳なんですけど、結局は、あそこでもって色々な人間の我と

いうんでしょうかね。神様の目から見ると違うこともあるけれど、とも角

人間の我でもってどこまで出来るかどうか、バベルの塔じゃないけれど、

一回積み上げないと人間というものは納得しないし、本当に

納得しないし、責任無責任になってしまう。つまり、何かこれが自分だ

というものが無くなってしまえば、人間というのは弱いもんでしょう。

 自分の存在をちゃんと証拠立ててくれるようなね、寄っかかる、

例えば、本部講師であるとか准講師、常任幹事であるとか、そういう

一つの肩書きなり。肩書きというものはどうでもいいんだけれども、

そういうものがないと人間は動きにくいんですよ。


 例えば、○○支部というものは本当は無くてもいいんです。無い方が

本当なんです。白光も無くていいんです。いいんですけれど、それを

しちゃうと、いつも言ってるように、お祈りでも何でも最初形から入る

ということが必要だというのは、まず皆で共通にできる形があって

はじめて人間というものは安心できて、それで神様に頼ってゆける

というところをもっていますので、一応そういう意味で形というものが

非常に大事だと。単に外形だけでなく、支部とか集会というものが

人間が集まって来る所ですからね。そこでは色々な人がいますよ色々な

タイプの人がね。10人居たら、10人そのまま放っておいたら喧嘩に

なるんですよ。お互いがお互いを主張して譲らなきゃ絶対喧嘩に

なるんですよね。どこかで譲らなきゃ絶対喧嘩になっている。それが、

あの先生はこう言っていた、本部はこう言っていた、○○はどうだ

○○がどうだ○○がどうだ、○○さんがどうのこうのというような

ことじゃまとまってゆかないんですよ。誰がどうだこうだということは

向こうから見れば判っていることなんですよ。判っていて

使うんですから、その辺は堪忍してあげないと、一段飛躍

できないんです。


 とに角皆で祈っている時は、どの人がどうだとか、この人がこうだ

とかいう想いは無くなっているんですよ。世界人類が平和であります

ように、世界人類の中に自分が入っちゃう訳でしょう。個人名は

無くなる訳なんですその時。自分がとか、相手が誰々さんがとかね、

○○さんが優柔不断で、あの人何を考えているのか判らないなんていう

想いは、無くなるんですよ。その時には。それが祈りなんです。そういう

ものを実は一番中心にもって来ないと、人間というものはまとまって

ゆかないんです。


 要するに、自分を大事にする、相手を大事にするということは、

色んな自分の気持ちとか、相手の都合とか自分の都合はさておいて、

元々の生命の本源のところで、そうですねと言えるものを核心に

もってこないと、人間というものは本来まとまらないものなんですよ。

 何故かというと、人間というものはそういう風にして神様から

分かれて来た生命だから、そうなんです。ですから、支部や集会の

在り方という前に、人間の在り方人間の生き方というものを自分の中に

どれだけ深く問うてゆくことが出来るかという、今どんな風に〇〇〇が

問うているのかどうなのか、そこのところで考えていかないと、

支部とか集会とか本部とかということになると、永遠に腹を

立てなくてはならない。


 私が居る時でもおかしかったですよ。色々な人がいて。だけど私は

絶対咎めなかったですよ。この人がこういう風にすると危ないなあとか、

色々思ったんですよ。この人が会社を経営すると絶対倒産すると。でも

倒産させたよね。それは、倒産ぎりぎりまで行って、パチンとその人が

ぶつかって、そこで初めて、ああ人間というものはどういうものなのか、

弱くなるということはどういうことなんだと、そこで悟る。一段階

飛躍する。そこのところを当て物屋みたいにして、あなた、こっちに

行ったら事故にあうからこっちに行きなさいよというのは、

私は出来ない。それは、その人の守護霊さん守護神さん、

もっと言えば、宇宙神が、その人の生命がどこでどういう風に

こう曲がって、どこでどういう風にぶつかって、それで最終的には

こういう光輝く白光に成るんですよという風に、計画書が皆

出てるんですからね。だから、先生お願いします、先生病気です

と言って来た時に、勿論、病気で可愛想だなと思いますよ。家庭の中で

争議があって喧嘩になっていれば、そういうものを治めてあげたいと

思うけれども、それよりは、その人の幽体を浄めている訳ですからね。

 肉体の想いと同時に幽体を浄めて、幽体というものを光輝くもの

にして、霊体神体というものが本当に光に満ちたものになるように。

 皆の話を聞いてなかったというんじゃなくて、聞きながらもっと

高い世界へ、世界人類が平和でありますようにという、消えてゆく姿

という祈りのエレベーターに乗せて、生命のただ中に行けるように

したのが私なんですね。その役目を仰せつかったのも私なんです。


 ですから、支部も大事です、集会も大事です。支部集会がなかったら

本部もないんです。もっと言えば、どんな大きな所でも、一人一人の

人間が集まってないと集会にはならないんです。社会にはなって

ゆかないんです。一人を忘れたところには崩壊が来るんです。確かに

そうなんです。ただ崩壊が来るけれども、崩壊というものが人間の我で

来させているのか、あるいは、守護霊さん守護神さんが計算づくで

させているのかという判断は非常に難しいんです。


 だから、どんな事態が起きてきても、とに角自分もなるたけ腹を

立てない修行をする。相手を責めない修行をする。それが一番近道

なんですよね。で、もし腹を立てたくなったらですね、五井先生に全部、

あの野郎がああなんですがって言っていらっしゃいね。その人に

当たると、その人の折角の修行の段階が曇ってくるんですよね。

 この野郎と想うとこの野郎が相手に行っちゃうんですよね。それが

いけないんですよね。この野郎と想ったらこの野郎を連れて五井先生の

所に来たら、この野郎を静めてあげますから。


 固定観念で人を見てはいけないというのは、ものすごく

難しいんですよ。この人はこういう人だと思い込むんですよ。この人は

最後まで話を聞かない人だなあとか色々思うんですよ。

 思うんですけれど、要するに、世界人類が平和でありますようにと

やっている時には、そんなことはちっとも思わないでしょう。祈って

いる時には楽しいでしょう。そういうつもりで人に対してゆく

ということを心がけて、言葉を胸におさめるというんですかね、余り

語らない。語りたいでしょうけれど、語らない修行をこれから

していって下さい。受け流してニコニコするというのが一番

いいんですよね。敵をつくらないんですむんです。


 やっぱり、片腹痛い想いとかね、あの人に任せてあの人はやり手

だけれども、どうもと言われてしまうと、まとまるものもまとまらなく

なるんですよね。人間はみんな癖があって、癖があったって

いいんだけれど、その癖を強烈なものにしてしまうと、ある人に支持

されてある人に支持されないということになるから、やっぱりどこかで

中間色を持つということが一番いいんです。その中間色は、集会という

お仕事をする人にとってはお祈りなんですよね。自分を押さえるとか

いうのじゃなくて、神様に全部預けちゃって、神様よろしくお願い

しますというそこから始まってゆかなくては、とてもじゃないが、

人間が人間を治めるなんてことは絶対出来ないんですから。肉体人間の

想いがやるんではなくて、後に守護霊さん守護神さんがついている、

五井先生がいる、五井霊団がある白光がある。人間の本来の姿は

光なんだ神の子なんだという想いでやって下さることですね。自分が

やるんじゃないという想いでやると。それは高慢になれというのでは

なくて、させて下さるということですね。それでやっていけば

腹は立ちませんよ。