わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

想いと言葉

2011-01-09 09:53:24 | 癒し
 想いということ、それから言葉ということ、これは人間である限り、

想いも言葉も、人間からは死ぬまで離れていかない。

 あるいは死んでも離れていかないものなんでありますが、この言葉

というものも、想いというものも、どちらも自由自在に自分の中で

こなしてゆく、あるいはこなれてゆくというのは、非常にこれは

難しい。実に想いも言葉もやっかいなものであります。


 私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを切り換えるとか

申しますけれども、この場合の想いというのは、実はあまり良い

想いではない。どっちかというと、この人間商売をやっていて、

もう止めたいなと想う様なことが連続してきてどうにもならなくなって、

にっちもさっちもいかなくなって、暗い想いが出てきた時に、想い

なんてあるから、こんな気持ちがあるから人間止めたくなるんだとか、

そっちの方へ行く想いであります。

 あるいはそれに付属してですね、言葉というものも明るくはなって

いかない。ところが、じゃあ想わなきゃいい、言葉を出さなきゃいい

ということになって、それを望んでも、人間というものは想いから

あるいは言葉から切り離されてはゆかないのであります。

 仮りに想うことを禁じてあるいは言葉を出すことを禁じて、一日でも

暮せと言われたらですね、これは、人間というのは非常に生きにくい。

 もう息がしにくくなってしまう。そういう存在である訳です。


 そして、それは何かというと、想いとか言葉とかいうもの本来は

神様の方から出てくるエネルギーだということなんであります。

 この神様の方からくるエネルギーだということをわきまえて

おりませんと、非常に想い違いをしてしまう。想いを軽くするとか

想いが沈んでいく重くなるというのは、これは自分の中にある人間の

我、ここで想いという言葉を使ってしまうとその想いという言葉で皆

雁字搦(がんじがら)めになって何が何だかわからなくなって

しまいますから、ここでは我という言葉を使いますが、その我の方へ

引っぱられた想いに皆今なっている訳であります。

 ところが、もともとの想いというのはどういう想いであったか

というと、人間生まれた時のその瞬間というのは、むこうからこちらへ

出て来た時の瞬間の想いというのは真白なんです。

 その真白の想いというのは神様のふところから入って出て来た

その想いでありますから、本当にこれは無垢の、純粋無垢の想いで、

このまま大きくなってゆけば、その人から出てくる想いも言葉も

これは光そのものの想いで、あるいは、何をやっても光明化されていく

想いになっていく訳でありますけれども、人間の生活の中に我

というものがありますから、肉体というものを纏ってしまった

その想い癖というものがありまして、その我の生活の中から出てくる

言葉なり想いなりというものが年々不自由さを、実は纏わせていく

ものなんであります。


 ところが、昔から言霊とか申しますように、本当は言葉というものも

想いというものも、両方ともこれは自分が出すもんではない。むこうの

世界、守護霊さんなり守護神さんなり、あるいは神様なり、我々を

生かしめているエネルギーの元という風(ふう)に考えてもいい

のであります。そこのところがですね、今逆転してしまっているんです。

 あいつはこんなこと言いやがったとか、こんなこと言われたら

俺だまっちゃいられねえーとかですね。そんなことを考えるから、

そこでその憎たらしいとか悔しいとかいう想いが飛んでいって、

又争(あらそ)いが大きくなる。憎いという想いが飛んでいきゃ憎いに

なります。愛(いと)しいという想いが飛んでくりゃ、やっぱりこっちも

愛(いと)しいとなるんです。

 それがつくづく分かるのは死んでからなんですね。死んで、自由な

体になっちまったら、むこうへ行けばですね、想いというのは、

そのまんま実現する訳ですから。

 ですから何にも無いんです。全く想いのまんまの世界が自分の

目の前に出てくる。こんなたまらない世界はない訳ですね。
 

 だから、今何でそれが実現されないかというと、人間が肉体の

世界のこの不自由な世界の中で、色んな物を物質化して、そして、

肉体の波に合うように、固い鉱物だとか何だとか色んなものがまわりに

あって、なかなか、その想いというか想念そのままの世界を

実現するには、ちょっと時間がかかる様に出来ている。ところが、

むこうはひびきそのままなんですね。

 人間の想いの奥底にあるもう一つ奥の想い、そこへ合わせた

ひびきが出てくるから、そのひびきがどういう流れのものであるか

ということによって、その想いが浄められもすれば言葉もやわらかく

なるということになっていく訳です。


 実に、この世の中で、想いほど言葉ほど、自由で不自由なものは

ない。こんなものがあるから生きにくいと想っても、これを離れる

ということが出来ないということになれば、じゃあこれを

どうすればいいか。


 想いを浄めていかなければならない。あるいは、言葉を高めて

いかなきゃなんない。それは何によって浄められるかというと、

やっぱりこれは、祈り言、祈り言葉、祈って浄めてゆける。あるいは、

祈り心によって浄めてゆける訳であります。ということはどういう

ことかと申しますと、神様から来た想い、神様から来た言葉である

ということを、もう一度見つめ直して考え直して、それを神様の元へ

一回かえす。かえして生命をいただき直す。


 私共は、頭の先から爪先まで見ましてもね、何一つ自分で造った

ものはないんですね。生まれて来た時も、我々が製造して持って来た

手だとか指だとか、そんなものはあり得ないんですね。

 全部借りてきた生命なんです。貰ってきた生命なんですね。どっから

貰ってきたか、神様から貰ってきた。でも神様から貰ってきたけれども、

その神様が下すった生命を支えている光の流れというものは、神様と

等しいものな訳ですね。

 そして、神様の本質、本体、本心というものは、ただただ深い愛念な

わけですね。ですから、この深い愛念と等しくなってしまうと、想い

とか言葉とかいうものが、だんだんだんだん色々な余分なものが

とれていって、角がとれていって丸くなって、そして柔らかくなって、

そうして、ただ溢れるばかりの愛念、光、祈り、そういうものに

一致していって、ついに調和の世界の方へもっていける様になる

訳ですね。


 しかし、長年長年長年、この地球世界というものは、業で

汚れ切って汚れ切って汚れ切っておりますから、ですから、

その汚れ切った世界の中でいくら人間が頑張って愛念を出しても、

祈っても、ちょっとやそっとのことでは清くなっていかない。

 何しろ、汚れの方の歴史が長いんですから。むこうの方が

古いんですから。ですから、それを浄めるというのは、本当に

並み大抵のことじゃない。並み大抵のことじゃないけれども、

今それをやらなかったら、この地球世界はともかく、もっと

もっと広い宇宙そのものの調和も本当には完成していかないんだ

というこの視点に立ちますと、やっぱり我々は、汚れ切って

汚れ切っているこの中でも、祈って愛して、そうして言葉も

想いも神様から来たものであるということを大事にしながら、

やっぱり出来るだけ愛念の言葉を想いを出していかないと

いけない。


 出しても出しても何にもならないという想いも又、これ

消えてゆく姿で、消してもらって、そうして、段々段々、

徐々に徐々にでもいいから、この地球世界のひびきというか

流れというかね、そういうものを光明化していく。


 その為には何が一番いいか。それは世界人類が平和で

ありますようにというこの祈りなんですね。これを想わない

人はないんです。自分だけが平和でありますようにと

いったって、これは自分だって世界人類の一人なんだからね。

 ですから、それを想わない人は一人もいないわけです。

 例えば、こういう祈りを知らない人でも、世界の平和が

保てなかったら、自分はもう核爆発で死んじゃうだろうと。

 そういう何か一触即発の危ない世界の状勢なんだ

ということは、皆、今子供から大人まで分かってる訳ですから。

 そういう危ない世界の中に私達はいる訳です。生きてる

訳ですね。


 で、これをどうすればいいかということで、今、米国も

ソ連もヨーロッパも皆苦労してる。レーガンとゴルバチョフ

だって今必死に握手しようとしている。あれはもちろん、

それぞれの国益もまだまだ持ってるし、まだまだ真の

世界平和のところまで想念そのものはいってはいないけれども、

しかし、まず現実世界の中で握手をして、そうして、世界平和の

為に戦争の手段のものをどんどん減らしていくという現実

そういう政府間の協議がなければ、まず障害というものは

取り除かれてはいかない訳ですね。


 それで、それを支えるものは何かというと祈りなんです。


 祈りというのは非常に消極的にみえて、実は一番威力がある。

 何故かというと、目に見えない世界の守護霊さんとか

守護神さんとかあるいは霊団とかいうものが働いて、この

世界平和を祈る時には、一人について何十人何百人の人が、

もう雲霞のごとき人達が一緒になって、霊人が一緒になって

祈るんですね。天上も天下も一緒になって祈る。天地貫いて

祈る。だから、この祈りというものの威力というものは、

それこそミサイルの弾(たま)の方向も変えさせる。

 変えさせるのみならず、途中で止まらせちゃう、世界平和

というものは、完全平和というものは、絶対できると私は

いつも言いますのは、それこそ想いを浄めて祈りに

高めていって、そして祈りが本当に愛一念になった時には

光になります。光になった時には、闇は光に勝ちませんから、

そこで、どんな武器であろうと人を損う想いであろうと

何んであろうと、そういうものを全部、もう闇のものを全部

光に変えちゃう訳です。ですから、そこで武器というものは

無くなってしまう。あっても無用のものになってしまう。

 そういう現実が来るんです。その現実を来たらせる為の

世界平和の祈りなんです。


 そうして、もっと言えば、一人一人が本心を開発していって、

一人一人が神様の器なんだということを本当に自覚できた

時には、皆の心が平和になってくる訳です。平和になる

ということはさっきも言いました様に、祈りが消極的なものでは

ないというのと同じように平和であるということは何であるか

というと、どうなるかというと、自分の中のさながらの生命が

生き生きと生きづいて、根本の自信が出て来まして、そして、

意欲に満ちて働いていきます。そして、自分の後に守護霊さん

守護神さんというものが守っている、神様というものがいる、

あるいは五井先生というものがいて、そうして、世界平和が

実現する、ということが本当に自覚されて来ますと、自分が

動いてるんじゃない。生かされてる喜び、生かされてる充実感

というものに満ちて動いていきますから、今までの何十倍もの

力が出て来る訳です。


 そうやって一人一人が持場持場で動いていって付き合ってく。

 色んな人と付き合ってく。話をしていく。仕事をしていく。

 ということになると、もうそれが一部の宗教家だとか

政治家だとかいう方面の人達だけのものではなしに、皆の心が

開発されていって、そこで平和というものが段々段々

広がっていって、世界平和というものがついに完成していく

訳です。それが私には見えている訳です。


 幽界なんぞというものは今でもあります。そうして、

人間のそういう本質、本心、本体というものの光を

遮ろうとして、色々な障害をもってまいりますけれども、

しかし、何をもってこられても、先程申しました様に、

我々の心、気持ちというものが揺らいでも、本心本体

というものは揺らがないのでありますから、寧ろ我々の

本心本体というものは完全平和を目指して生きる器で

ありますので、光というものを受けている時というのは、

そういうものを受けつけません。そうして、そういう想いを

包んで愛念にかえて、そういう想いを持たされた人達を

本当の意味で呼び醒まして、仲間にして、今度は一緒に

共々に世界平和を祈る仲間にしてですね、何十人もの何百人

もの仲間を増やしていく訳です。


 今、世界平和を祈る運動というものに白光真宏会がつき進んで

おりますけれども、これは、世界人類、どんな国の人も、民族の人も、

世界が平和であるようにという共通の想い、それを祈り言葉にすること

によって、その言葉を想い浮かべることによって、自分の本心が神様の

愛と合致して、そして、光となって一体化していく。その本心開発の

運動を今私共の会が先達となってやっていってる訳であります。


 こういう地球規模の運動をしてまいりませんと、とてもでは

ないけれども、この地球の想念の汚れというものは、

一朝一夕(いっちょういっせき)に拭いされるものではないのであります。


 我々の生命というものは、いつも申しております様に、生き通しの

生命であって、それはずーっと天命にまで流れ込んでおりまして、

ただ、魂の覚醒というものがどこで世界平和の祈りに会うかということ、

これが大事ないわゆる時間というものであります。


 法然も親鸞も時期相応ということを考えておりまして、その時期

相応の祈り言である南無阿弥陀仏に出会うまでに、彼等は随分学問も

致しました、悩みました。あるいは、宗祖の釈迦でさえも苦行を

六年致しました。その苦しみというものは無駄ではありませんでした。

 苦しみを通して、ただ一部の人だけが救われるもの、魂が救われて

自分が救われていくものであれば、これは小乗なのであります。大乗の

祈りではない。人類の祈りではないのであります。人類の宗教ではない

のであります。愛ではないのであります。
 

 人類の、我々共通の、なる程と想えるものというものは、誰もが納得

できるものでなくてはならない。しかも、易しいものでなくては

ならない。そして、誰もが出来るものでなくてはならない。そして、

任せられるものでなくてはならない。この三つ四つの条件が、全部今の

状勢の中で出来るといったら、これは、世界人類が平和でありますように

というこの祈り言をすすめていく、目にふれさせていく、それしかない

のであります。


 祈りというものは、強制できるものではございません。それは、

その国の人々の民族性や信条や、あるいは宗教や習慣や風土、その違いが

ございますので、これは何も強制できるものではない。ただ我々は、

その人々の中に眠っている、あるいは気付いてはいても弱い気付き方

である、世界人類が平和でありますようにという、元々の根元の

祈りの芽を、あるいはピースポールによって、あるいはステッカーに

よって、あるいは白光誌を手渡すことによって、それを呼び醒(さ)ます。

 その役割りをするのであります。ですから、その手渡すということは、

すでに私がそこで働いて、その人を通して一番いい、その人が生き易い

やり易い方法で、この祈り言がその人の生命の中に生活の中に生き方の

中に入っていく様に、守護霊守護神さんと倶(とも)に私が働いていく

ということでありまして、その点で皆さんは、本当の意味において

繋(つな)ぎの役を、後は五井先生がしてくれるから大丈夫だという

その位の軽い気持ちで、しかし、本心開発の為にこの祈り言が絶対に

人類の為に必要なんだという、そういう自信と覚悟をもってこの運動を

広めていっていただきたい。


 そうすることによって実は、想いとか言葉とかいうものが、その

想念の汚れというものが浄められていくのであります。

 想いとか言葉とかいうものがどうしようもないやり切れない

暗いものだという歴史が、そこで段々段々縮められていくので

あります。実は、言葉の光明化、想いの光明化ということをやって

いかなければ、我々本心本体の一体化というのは出来ないので

ありまして、この身さながらに神様の生命である、神様から

流れ来たっている真理、愛と一体なんであるという、その遠大な目的

というものを達成する為には、やはり、この

世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、

私達の天命が完うされますように、守護霊様守護神様

ありがとうございます。というこの完全な愛と平和のお祈りを唱える

ことによって、我も他人(ひと)も一体になる。そうして、神様の生命と

すこやかに一つになる。ということを信じていくことによって、我々

個人の想いも苦しみも、又救いとられていく訳であります。


 もう私共の生きているこの時代は、私が良ければ、私達さえ良ければ

いいという時代ではない。たとえ白光真宏会に入っていない人達の

中でも、この本心開発がなされていかなければ、この地球の浄化

あるいは大きく言えば宇宙全体の調和というものは在り得ないんだと。

 だから、白光に入れる入れないではなくて、その本心開発の芽を

我々がどれ程無になって、それぞれの持ち場持ち場、立場立場でやって

いけるか、その為に自分をむなしくして祈る。祈って、そうして今

かかえている課題や悩みや嘆き、そういうものを全部私に預けて下さる。

 そういうことが今一番必要なのだと思います。
 
  昭和63年5月5日
                          五井 昌久