わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

縦の波と横の波

2011-01-11 10:06:06 | 癒し
 (問)世界各国のお祈りの時に、日本語と英語でやりますが、

これは、日本語と英語とはその働きといいますか、意味合いが

違いますか。



 (答)縦の波と横の波があるんですね。日本語の波というのは

縦の波なんですよ。英語の波というのは横の波なんですよね。縦横

というのは言葉の違いだけみたいに想うけれどもいつも言っている

縦と横の十字、十字架の十字交叉、つまり、愛の完成、神様の愛の

完成、人間の愛の完成、縦横交叉して完全な愛の完成というものが

なかったら、調和になってゆかないですよね。


 さっきの話の続きになりますけれど、結局日本というのは、その

光というものを皆に分け与えるというか、その天命が日本にある訳

ですから、元々皆神の子ですから、それを知らせる役割がある訳

ですからね。で、それが、世界人類が平和でありますようにという

日本語なんですね。そして、英語で代表させていますけれど、英語

だけでなく外国の言葉というのは、皆みんな兄弟なんだなという

横でずっと広がっていく、その横のつながりを表わしているのが

外国語なんです。


 ですから、少々辛どくても、両方唱えることは、本当の神様の愛、

人間の神性、真実の愛というものはどういうものかということを、

知らず知らずの間に、両方唱えることで、完全な愛を唱える、

宣り出してるということになる訳です。

愛のはたらき

2011-01-11 09:33:03 | 癒し
 私はマイクの前に立って、こうやって皆さんの顔を見ながら、

何を話そうかとか、今日はこれについて話そうかとか、そういうことは

一切考えていないのであります。だから、質問をどうぞというのは、

質問をきっかけにして、私は、神様のこと、神様がどんなに人間を

愛しているかということ。で実は、神様の愛の働きによって人間が

生かされているということを伝える。そういう場所に私がなると

いうことなんであります。


 だからいつか申しました様に、釈迦が来ることもあるし、

キリストが来ることもあるし、老子が来ることもあるし、色々な人が

私の体に降りて来て、そうして、その方面のことをしゃべって

そして又出てゆく。だから、私の体というのはカラッポなんだとね。

 私は、生命(いのち)はもう神様の中へ帰しました。帰した時に、

とに角まあキリスト教で言えば、“御心のままになさしめたまえ“

というあの主の祈りの中の、ああいう気持ちになって。自分が

なったんじゃない、何か奥の方がなって、そうして、そういう活動を

なにかしらさせていただける様になって、今日になって、今こうして

喋べっている訳ですけれども。私というものは一切無いんですね。何が

あるかというと、神様の愛がある。それだけなんです。その愛という

ものは、私の為だけにあるんじゃなくて、これは実は、我々人間全体の

為にある。


 この地球世界の自然とか、色んなものが色んな形で生きて

いますけれども、それこそ、生きとし生けるものの有りのままの姿を

そのまま生かして、さながらに生かして、その生命(いのち)が完う

する様にというので、その愛が注がれている。その愛の姿というものを、

皆が、ああそうだなと思って納得して感動して、そうして、それぞれが

静かな想いになって、神様というものにねその想いをはせた時に、皆が

神の子なんだということになっていきますでしよ。


 そして次には、他愛ですね。他を愛すること。他を愛することと

いうのは、自分のまわりを確認できることなんですね。自分のまわり、

自分の生命(いのち)が何によって支えられて、まわりの人の色んな親切

だとか、色んな想いだとか思いやりだとか、そういうものによって

生きてる。生かされているということを確認する。この現実の

世の中でね。そして、自愛というのは、そういう感謝のおもいを

今度自分が確認して、そうして、じゃあ何をすればいいかという

ことになると、自分を本当の意味で労わってね、そして生きてゆく。

 その自分を本当に労わるということの中には、人間の心には、色んな

姿があります。見たくない、こんな自分は確認したくない。こんな

自分は見つめたくないという想いがありますよね。

 ですけれども、それをずっと見て、ああこういうやり切れないものを

人間は持ってるんだな。そこが自分の中で確認できれば、人間と

いうものは高められてゆく訳。


 人間というものは弱いですから、何かあれば、神様仏様と

すがるけれども、何もなかったらやっぱり、そっちの方へ想いが

行かない。だから、色んな祈り言葉があるというのは、その祈り言葉を

階段にしてね、そうして、自分の本当いえば姿、自分は何なんだ

ということを突き詰めて考え、そうして又知らされる。その為に祈りが

ある。そうすると、我々を生かしめているものは神の愛でありますから、

その神の愛というものを、神様のというものをとってしまっても、

神様の愛が人間の中に働いて、そして、我々が生きているとすれば、

この愛の働きというものはどういうものかということになると、これは

森羅万象すべてにわたっているということになってしまうと、説明の

しようもないものでありますけれども。


 とに角、愛というものは何かというと、まず一つには、自愛ですね。

 自分を愛することですね。想いを確認して、それを抱きしめるんじゃ

なくって、それをパーッと祈りの中へ放すわけです。祈りの中へ

入れちゃうと、それはどんなに業に満ちたものでも、あるいは闇

というものがあっても、それは光になりますから、祈りの中へ

投げ入れちゃってね、あるいは、神様、五井先生といって投げ入れて

しまったらですね、それは業は業でなくなるんですね。

 そこで消えてゆく訳ですね。そういう意味で、自分を愛する、

自分を確認する、自分を労わる、ということは、自分の中にある人間の

色々な心の姿を一つ一つ取り出して、そして浄めて、浄める為に

祈りをして、そのおもいをまわりに、その祈りをまわりに巡らして

ゆくと。そういうことがある訳です。それが一つの愛というものの

実相なわけですね。


 愛というものは限りがありません。ここまでが愛でこっからが愛じゃ

ないとか、ここまでは愛情だけれどもこっから一歩は愛じゃないとか、

そんなことはありません。限りがなくって尽きるところがなくって、

その尽きるところがないものに支えられているということが

わかりますと、人間はどうなってゆくかというと、もうとに角、自分の

生命(いのち)というものは窮まりがないんだということに、だんだん

気がついてゆく訳です。

 なぜかというと、人間を支えているものが神様の愛で、しかも私共が

いつも申し上げておりますように、人間の生命(いのち)というものは

肉体だけのものではありません。貫いてずっとむこうの世界まで

行ってもまだまだ続いてゆくのが生命ですから、つまり永遠の生命

ですから。その生命を貫いている愛というものが尽きるということが

なくって、生命というものも尽きるということがないとすれば、

じゃあ人間の働きというものは、そこに気がついてみると、そこに

気がついてゆくと、本当に充実しきった想いになってゆく訳ですね。

 何があっても壊れることはない。絶やされることはない種、生命の種

というものを自分の中に持ってる。ね、持たされている。あるいは

いただいてるということに気がつくとですね、こんな喜びは

ない訳ですね。そうすると、自然に自分の気持ちが落ち着いてきて、

今色んなことがあるにしても、自分は尽きることのないものを

貰ってるんだ、神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは無限なんだ

ということになってきますと、だんだん、荒い肉体を囲んでた業の波動

というものが、祈りによって浄められてきまして、気がついてゆくに

従って、荒いはずの波動が細かになっています。そして、細かに

なってきて、だんだん色んな人の色んな想い、やりきれない想いだけ

じゃなくって、心を求めている、人を求めている、淋しがってる、

そういう人の想いに人間というものは気がつくようになってまいります。

 そうして気がついて、それに感応して関わりをもって接して

いきますと、そこに何が生まれるかというと、そこに愛念というものが

生まれてまいりますね。そうして、それがどんなに細やかのもの

であっても、その間に働くものというのは、深いものが

ございますから、そこで生まれてくるものは本当に光明に満ちたもの、

光に満ちたもの、愛に満ちたものになってゆく訳です。

 そんな風にして実は、人間というものは気がつかない内に、

この世の中で、一歩でも二歩でも進歩をしよう進化をしようといって、

歩みを止めては本当はいないものなのですね。


 色々な所で紛争がある。色々なところで戦争が絶えない。現象だけを

みてると、こんなんで世界は平和になるんだろうか、どうなんだろうか

と思う。思うけれども、それは自分の気持ちの感情の部分が

思うんであって、自分の本体そのものは、皆さんの本体そのものは、

世界が完全に平和になるということを知って生まれてきている生命

なんですね。そうして、白光真宏会にきて私に会って、魂そのものは

それを覚知してる本体なんです。

 ですから、そこのところは全然動かされていないから、何があろうと、

この世界というものは平和になってゆくし、愛に満ちて調和に

なってゆくということはわかってますんでね。そこに向かって

我々自身が生きているということを確認しますとね、随分我々

というものは落ち着くものなんですね、そうしてその働きというものも、

だんだんだんだん自分の為の働きというよりもですね、他者の為の、

他者の為から自分のまわりの世界、まわりの世界というとだんだん

広がって行って、世界人類になり、世界人類からいうと今度宇宙人類

になり、という風に広がってゆく訳です。


 我々の住んでる場所だとか、選んだところは狭くるしくって、色んな

制約がありますけれども、我々の本体そのものは神様と直結して

おりまして、その神様の愛というものは無限であるということに

なってきますと、我々が器として要求されて、あるいは動かして

いただくその場所も無限である。ね、霊界神界とつながっていて、

天の私と地の私がそれこそつらなっていて、一体となっていて、そこで

働いている。そういう生命なんだ。

 そういう働きを我々はこれからしてゆくんであるし、又

今しているんだということ。そしてそういうところに、少なくとも

想いをはせて祈りをしてゆくときに、色々な人の想いが思いやり

というものがこちらへ伝わってきて、そうして自分の中の色んな想念の

想いの掃除というものができる。


 色んなことを申しましたけれども、自分をまず高めてゆく。高める

というのも、ただ単に知識を高めるとか智恵を磨くとかということ

だけでなくて、自分の中の本心、霊性というものを磨いてゆく、肉体

だけではない、自分の生命というものに目をそそいで生きてゆく。

 そうしてゆく内に、だんだんだんだん愛というものが深まっていって、

そして、愛だけじゃなくって、愛につれて働いてゆく生命そのものも、

今度は愛を呼んでくれる様になるんですね。


 それは何かと言うと、例えば、この世の中で働くということは、

生きる為にはお金を得るということです。そのお金にも愛憎が

こもってくる訳ですね。つまり、苦しいばっかりだと苦しい想いが

お金の中にこもっちゃう訳です。苦しいが来るんです。そうすると、

お金が入って来ても苦しい、入って来なくっても苦しいという状態が

くるんですね。あるいは不安とか不平とか不満とかね。そういう想いが

積もり積もった上で、例えばお金を受けとると、そのお金はちっとも

嬉しくないでしよ。つまり、お金が入って来ても自分の心が自由

じゃないね。想いが自由じゃない。何か解き放たれない。そういう中で

お金を受け取ってもね、そのお金は死んでるんですね。

 お金ってものは、この世の中を生きてゆく一つの手段であって

絶対的なもんじゃありません。肉体を養う為のものですけれども、

それでもこの現象世界の中の一つ一つのものを尋ねてゆけば、全部

それは生命体です。

 本来の生命に帰ってゆくもんですから、やはり物質世界のもので

あっても、そこへ向ける愛念というものが浅ければ、つらい想いの方が

強ければ、それはそれだけ現象なんだけれども、その現象を通して

自分の中の本心開発が鈍ることになる訳ですね。 


 だから、受けとるもの、暮してゆく為に受け取るお金にしろ

人にしろ、関わってゆく関わり方にしろ、ここでどういう働きを

しなきゃいけないか、つまり自分がどう接してゆかなきゃならないか

ということは、祈りをずうっと深くしてゆくと、自然自然にその自分の

中の想いがですね、掃除をされていって、そうしていつの間にかしら、

人に対してもやさしい気持ちになって和らいだ気持ちになって、

一つ二つは還せるようになってく。

 最初から何も完全にこうしなきゃなんないということはないんです。

 そんなことは考える必要ないんですよ。ちっとも考える

必要なくってね。私はもうこんな風に又言い返しをしてしまった。

 こんな風に又主人に口答えをしてしまった。ね、奥さんに又

こんな風に思いやりの無いことを言っちゃった。そりゃあ夫婦だったら

夫婦喧嘩もするでしょう。親子喧嘩もあるでしょう。ね、それから

同僚だって、本当に虫が好かない奴もいればね。

 会の中だって、いつもいつもニコニコ顔という訳じゃないだろうしね。

 人間の集団なんだから。それでもそれを浄めてね、そうして生きていく

術ということになれば何かと言えば、それは祈りなんですね。祈りの

中に光があるし、祈りの中に愛があるし、そうして祈り一念になって、

自分の中にある光明というものを、確認をその祈りの中で奥の体が

していって、いつのまにかしらやってゆくと、そういう大きな深い

愛の生命の中へ自分がさーっと入ってゆける様になるんです。


 自分の力がないから非力だから、自分はこんな大きな役目は出来ない

とかね、何とか思って自分を閉じてる間はこれは我なんですね。そんな

ものは、人間に力がないということはむこうが百も承知です。

 肉体人間そのままの、我の人間そのままの生命だったら、神様は

使やあしません。そんなものは。そうじゃなくって、肉体人間の奥の

生かしてるものは何かといったら、神様の愛なんだから、その神様の愛、

自分のね、生命を分けた光を分けた光の一筋の光線の一筋一筋のいとしい

生命を神様が抱きとって、そうして働きをさせようというんだから。

 その時にあなた方がどんな風に自分たちが非力だと考えようと

何しようと、そりゃあむこうの知ったこっちゃないんですね。その時

にはまかせなきゃいけない。

 任せきった時には、自分で思いもかけない働きというものが出てくる

訳なんです。それは任せ切った時に出てくる訳なんです。

 任せ切るっていうのも、自分で任せよう任せようとかね。任せなきゃ

とかね、そんなこと考える必要ないんです。皆向こう側が下さる働き

なんだから。自分がゼロなんですね。あるいはゼロ以下なんですよ。


 肉体人間としてみればね、何も出来るもんじゃない。凡夫なんだね。

 親鸞が言ったように凡夫なんです。凡夫なんだけども任せきってね、

南無阿弥陀仏なら南無阿弥陀仏、世界人類が平和でありますようになら

平和でありますようにの祈りの中に自分というのを入れてしまうと、

そこで、自分の中へ普段は奥の方へ入らされている光明というものが

燦然と輝き出してきて、祈りになって、一体になって、そして

いつの間にか神様と一緒になって働ける。そういう生命というものを

我々は種として、生命の種として自分の中に持ってるんだということね。

 それを忘れてしまったら、これは卑下高慢になるんですね。


 生きてゆくってことは苦しいことです。生活というのは大事

なんです。だけれども、その生活とか生命とかそういうものを

支えてるものは何かといったら、神様の愛だから、その神様の愛に入る

ということは、現実をバカにすることでもなきゃ何でもないんです。

 その本来の生命にかえって、神様に任せきった時に、神様がさあっと

救いあげるし、神様が働かせるし、その時に自分だけの働きじゃない、

まわりの人だけの働きじゃない、もっと深いもっと大きな働き

というものを、愛というものはなさしめるんです。なぜならば、それは

神様から出ているもんであるから。そして、我々も神様の生命一筋

であるから、それが出来なきゃうそなんです。

1988年5月5日  
                     五井昌久