ruruBの極楽な日々

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倉橋ヨエコ

2009-02-04 15:54:29 | 音楽
今日は歌のご紹介だ。

最近ある人のブログを読んでいて見慣れない名前を目にした。

倉橋ヨエコ、どうやら歌い手らしい。しかも去年の夏、廃業してしまったらしい。

どんな歌を歌う人なのか、YouTubeで聞いてみた。

強烈でぶっとんだ。神経に心地いいのか悪いのか、好きか嫌いかさえわからない。でも何かギリギリなところがすごいと思った。

なぜすごいのか。きっとこの人の感情や思念をつかさどる層よりもっとずっと深い部分の、普通は表現不能なドロドロ、混沌としたマグマのような生命エネルギーの在りかに在るものを表現しているからじゃないかと。たぶんそれがすごいんだろう。しかもそれは誰にも共通なものではなく、その人だけに通用するその人だけのもの。

だから私たちは共感するんじゃなくてただただ傍観者としてボー然として聞いてしまう、みたいな。共感するとしたら、そうした個人の奥底のものをあらいざらい表に出すという、その勇気に対して。それに触れることによって逆に何かしらの勇気や元気を己の内に喚起させられるからだと思う。

倉橋ヨエコという人のサイトに廃業を考えるに至った日記があった。なるほど、そうなんだろうな、と思った。全部読まなくても第5回と第6回だけでもわかると思うよ。

表現することは人のためではない、まず何よりも自分のためなのだ。自分のためと、人のためのバランスがとりきれなくなったら、存在の前提が自分の思いとは別のところにあり、無言の要求をされていることに気づいたら、続けられないということなんだろう。

真正直でまじめな人だから、そこでけじめをつけざるを得なくなっちゃったんだね。

普通の人、大多数の人はそこらへんを折り合いつけたりバランスとってうまく立ち回ったりするわけだ。

話はちょっと変わるけど、

かつて、正しいことを正しい、間違ったことを間違っていると権力に向かって口にしただけで異端として公衆の面前で処刑された時代があった。

処刑された人はただひとり孤独のうちに死んでいったのだろうが、実は見て見ぬふりをした村人たちには「本当は誰が正しいのか」わかっている人がいたはずなのだ。ただ、それを言ってしまうと自分も処刑されるので言えなかっただけ。

転生を繰り返し、村人が生まれ変わっているとしたら、その魂はこう決心して生まれたに違いない。

「今生 私は見て見ぬふりをしない。正しいと思うことを行動にうつす」と。

私は見て見ぬふりができない。昔から真夜中の路上けんかを110番に通報したり、倒れている人のことを言いに走ったり、具合の悪そうな人がいたら声をかけてしまう。

つい先日も電車を降りた駅のホームで、中年のサラリーマン風の男性2人が怒鳴り合って取っ組み合いのけんかになりそうになっていた。まわりの人はみんな無関心に通り過ぎていく。

私は一瞬2人の間に入ろうかと思ったがそれはやめ、タタタッと階段を降りて駅員さんに知らせた。

タイムラグがあったからおじさんのどちらかはもうなぐられていたかもしれない。
次の課題は、タイムラグを作らないよう、その中に入ってとめることかしら。

そう、もしかしたら、私はかつての村人のひとりだったかもしれないのだ。


「損と嘘」




「人間辞めても」



どちらの曲もカッコイイ! 映像も。



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