今日は急きょ友達Kと待ち合わせて飲んだ。
Kは11月の中ごろから私に会いたがっていたのだが、日程が合わないうちにエジプトへ行ってしまったので、今日になったのだけど。
話を聞いてみると、Kは、ある悩みを抱えていたのだった。
ただ、Kによると悩みはすでに解決しているらしく、要はその一連の話や心情を聞いてほしかったようである。
ところが、話を聞いていくうちに、Kが導きだした解決(Kが至った結論)はいちばん最初の根底のところが違うんじゃないの?という気がした。
いや、まちがいない。Kは根底のとらえ方をまちがっているよ。
「え? そうなのかしら?」 今度はKが目をまん丸くする番だった。
「そうだよ!」
というわけで、今までKが思い込んでいたことはどうやら違っていて別のとらえ方をしたほうが妥当だろうということになった。
Kはおそらく真実であろうことに「気がついた」わけである。
かといって、まだ解決したわけではなく、解決したと思っていたことが先送りになったということなのだが。
まぁ、こんな具体的でない書き方では「何が何やら」かもしれないが、要するにこのようなことは案外多い、ということである。
自分が強く思い込んでいることでも真実とは限らない。
私たち人間の感覚はときに鋭い反面、ファジーにも出来ていて「その人なりの捉え方」という個性のようなフィルターのせいで、目に見えていても、聞こえていても、本当のところが届かず、認識できなかったりするものなのだろう。
意識をすること。
気がつくこと。
ささいなことだけれど、現実に対するこれらの作用、影響力は、私たちが思っているよりも、きっとずっとずっと大きいのだろう。
おととし、山本印店のハンコを作ったあとに、製作者の桃仙さんとお会いする機会があり、7か月ほど使ったハンコを見ていただいたことがある。
桃仙さんはハンコを見るだけで情報を得ることができるので、私のハンコを見たとたんに何かを読みとったようだった。
しかもちょっとムッとして怒っている。
私は、仕事ばかりに気が行っていて子供のことをちっとも見ていないと注意された。
はぁ、たしかに…
大学生になった息子は何日も家に帰ってこなかったり好き勝手に自由にしていた。それはそれでいいと思っていた。
ところが、そういう状態を続けていると「意識でつながっているはずの線」が弱まって抑止力が低下し、たとえば事件や事故、病気になったりする可能性が高まるそうだ。
「意識するだけでいい」と桃仙さんは言った。
たとえば、本人に連絡をしたり、言葉をかけたりといった具体的なことはしなくてもいいから、息子がいないときには「いま何をしているかな」と一瞬意識をそちらへ向けるだけで息子を守る力になるのだという。
きっとそれは正しいんだろうな、と素直に思えたので、それからは意識して実行するようにしている。
意識の力というのはそれほど大きなものなのだろう。
昨日のKからもらったメールに「あの本買ったよ、今読んでる」みたいなことが書いてあった。
あの本とは、この本。
今年9月に発売された如月マヤさんの「未来を知って幸せになる本」
未来のこと、過去のこと、誰でも簡単にアカシック・レコードが読めてしまうという本である。
「読んだの?」と聞いたら、「さっき電車で読み終わった」と言って見せてくれた。
ということは、その悩みの解決法もアカシック・レコードで見ちゃいなよ。
「うん、そうする。見れるかな~」というので「見れるよ」と断言してやった。
起きているときにうまく見られなかったら、眠っている間に情報が得られるように、寝る前にセッティングして眠るといいよ、と親切なアドバイスもしておいた。
あ、本も買ってね。
そこらへんのところもくわしく書かれているので。
→ココ
アカシック・レコードも
人に気づきをもたらすことにかかわっている。
気づいたあとに意識がついてくる。
知るべき情報は、知らされるようになっているのだろう。
これらの言葉に、何か感じるところがある人は
この本を手にすることになるのだろう。
そういえば、昨日、電話で友達Yと話していて、今年は個人的にお互いどれほど激動の年だったかを語り合った。
今日のKにとっても今年は近年まれにみる激動の年だったらしい。
ただし、激動だからって悪いことばかりじゃないよね、一見悪いように見えても別の側面からみれば良いふうに変わるためなんだろうからね、と言い合った。
でも、昨日のYは「来年はどうかな、また激動の年かしら」と心配そうだったので、
「いや、激動の年なんて、そうそうあるもんじゃないよ。
今年が激動の年だったんだから、来年はたぶんおだやかな年だよ」
と、何の根拠もないことを言って
安心させておいた。
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