宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

短編集が気になって

2020年08月21日 | 
『一人称単数』(村上春樹 文藝春秋)について
「村上作品には、身に覚えのないことで悪意を向けられるパターンが結構あって、気の毒だ」
と思ったんだけど、
感想を書いてみた後に、はたと思い当たることがあり、「そういうとこやぞ」と指摘したくなったので、またまた続きを書いてみる。

この短編集はどれも「僕」「ぼく」「私」と一人称単数で書かれている。
基本的に良い読者である(と自分で思っている)私は、主人公が語る内容をそのまま受け取っていた。
しかし、小説に登場する他の人物の立場になってみたら、まるで感想が違ってくるじゃないの、ということに気づいたのであった。
男性脳と女性脳があるとして、女性脳を使って読んでいる人はとっくに気づいて指摘していたことかもしれないけど。

たとえば「クリーム」
嘘の招待状を送って、語り手にわざと無駄足を踏ませた女の子。
ひどい。納得がいかないと思う「ぼく」の気持ちはもっともだ。
でもでも、そこで自分の人生のクリームとは関係ないこととしてやり過ごしてしまう、そういう態度こそが問題なんじゃないだろうか。
女の子は連絡してほしかったのかもよ。なんでこんなことをしたんだ!と怒ってほしかったのかもよ。

たとえば「謝肉祭(Carnaval)」
付け足しのように添えられた、大学生のときの、あまり容姿がぱっとしない女の子とのデートの思い出。
「彼女をただのブスな女の子にしておかないためだけにも」彼女に電話しなくてはと思う「僕」。
はー、本気で付き合いたいと思ってるんじゃなかったら電話しなくていいでしょ。
「僕は決して容姿で女性を判断する男ではない」ということを示したいだけでしょう。自己弁護自己満足。性格が良い彼女は怒ったりしないと思うけど、彼女の友人(ダブルデートに誘ったのとは別のもっと親密な友人)だったら怒り心頭だわ。

大体、「美人だけど中身がない」「容姿はぱっとしないけど中身がある」という二項評価は、怒りを買うか呆れられるかどっちかだ。
美醜で人を判断する自分を恥じ、でも固有の醜さを味わい価値を見出せるようになった自分を誇る、みたいな文章があったけど(「謝肉祭」)、その割には「ウィズ・ザ・ビートルズ」で、年取った女性には、もうかつての夢は見いだせないですか。今の充実を喜ぶよりも夢が死んだと悲しくなるわけですか。一見、年老いた外見の内側に、かつての溌剌とした笑顔が透けて見えるよーというのが理想なんだけどなぁー

村上さんは作品が仕上がるとまず奥さんに読んでもらうとどこかに書いてあったと思うのだけど、同年代の奥様はどう思っているのだろうか。しょうがないなあと苦笑いって感じ? 

「一人称単数」で指摘された、身に覚えのない「おぞましい」ことをした自分、それは主人公の内面のある一部分が肥大して現出したものなのだと思うけど、そのおぞましさの粒子みたいなのを発見したように思った。

そして村上さんはこの「おぞましさ」に自覚的なのだろうか。
短編集のタイトルが『一人称単数』というのが、「『僕』『私』の一人称単数が言うことばかりを鵜呑みにしていてはいけない」というトリッキーな意味で付けられたのだとしたらすごいなーと思うけど、たぶんそうではないのだろう。
「クリーム」における「中心がいくつもありながら外周を持たない円」には、悪意を示された相手についてもとことん考えろという教えも含まれていたのかも?そうは読み取れなかったけれど。
でも、まったく自覚的じゃなかったら、それはそれで信じられないような。

村上春樹氏の全作品の中での位置づけがどうなるのかは分からないけど、ちょっと感想を書いてみようと思っただけなのに、はからずも、私の中では最重要作品の一つになった(^^;

最新の画像もっと見る

コメントを投稿