宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

買った本読んだ本

2017年06月08日 | 
5月下旬の私はほとんど本を読まなかった。
新幹線の車中で文庫になっていた『ナオミとカナコ』(おもしろかった!)を読んで以来。
(奥田英朗本では『田舎でロックンロール』が超絶おもしろくて感想書こうと思っているうちに日が過ぎた。音楽享受における地域格差って、もー昔はすごかったなー。エッセイ本だけど短編小説も収録されていて、自分の経験がこんなふうに小説に変貌するのかーとあらためて小説っておもしろいと思った。)

本来の自分らしいことをしようと思って(?)図書館に行って数冊借りた後、でもなんとなく今読みたい本がないなーと、ふいに本買いモードになった。
で、買った。タイトルから気になっていた『苦汁100%』(尾崎世界観)。
スカパラ加藤くんの影響もあるかも・・・しれない・・・
去年から今年初めにかけての日記なんだけど、個人的に
「へークリープハイプのライブツアー初日は富山なのねー」と思ったことを覚えているし(チケットは当然売り切れ)、『アメトーク!』の読書芸人の回も観ていたので、この時期ってのはよかったな。
おもしろいと読み終わるのがもったいなくなり、途中休憩してブログを書いてみる次第。
エッセイ本を買って小説のほうを買わないのもいかがなものかと思い、『祐介』も購入。
『火花』は図書館にあったので借りて読んだんだけどなー。
クリープハイプの人のを買ってこちらを買わないのもどうかなと思って、一旦保留していたくるり岸田さんの『石、転がっといたらええやん』も購入。隣にスガシカオ本もあってあー(ちょっと保留)
なんだかタレント本ばっかりになってしまったな。
(タレントというのは文筆以外にフロントに立っている人ということでー)

村上春樹『騎士団長殺し』についても書かないうちに日が過ぎてしまった。
いつだったか、運転時、前を走っていた白い車のロゴに目を留めると、おおこれがスバル・フォレスターかーということがあった。あまり見かけないもので。
運転している人の顔がちらと見えたが、うん、村上春樹の小説とかはまず読みそうにないタイプとみた。よかった。
『ねじまき鳥クロニクル』では、ひとり遠い土地から手紙を書く「笠原メイ」のひとりぼっちさに涙したものだけど、『騎士団長殺し』で、笠原メイ的立場にあると思われる「まりえ」が、たぶん彼女はひとりで生きていくんだろうな的な暗示をされているのには、ああやっぱりねとなんだかすがすがしい気持ちがした。主人公は奥さんユズと一緒に生きていくわけだけど、まりえが成長後ユズ(のような立場というか役割というか)になることはないみたいだ。
あー今確認のために『ねじまき鳥クロニクル』の最後のほうをちらっと読んだら泣きそうになった。
書き手の年代とか読者の年代とかその時代とかいろいろ要因はあると思うけど、喚起される感情が生々しいというか。
また読み返してみよう。

非成果主義について

2017年04月28日 | 
小説で新刊が出ると気になる数少ない作家の一人が津村記久子さんで、前に図書館で借りていると書いたけれど、近年は単行本を買ったりもしている。

テレビドラマにもなったらしいけど、『この世にたやすい仕事はない』を読んで以来、私はおかきの袋裏の豆知識的な文章を読むたびに、この小説のことを思い出している。
最近読んだのでは短編集『浮遊霊ブラジル』に入っている『地獄』というのがおもしろかったー必読!
これは図書館で借りたので詳細を振り返れないけど、読後なんかすごく明るい気持ちになった。

エッセイも好きだ。
ということで、『まぬけなこよみ』も購入。
このタイトルはどうかと思うけれども、平凡社のスマホアプリ『くらしのこよみ』にちなんでいるそうで、歳時記をテーマにしたエッセイである。

今現在の季節のページからぽつぽつと読んでいるのだけど、「四月の重い眠り」と「非成果主義的GW」に、これだけで買ったモトは取れた!と思った。

4月のいやな感じというのは意外と(花粉症は抜きにして)他に読んだことがなかったと思う。
「非成果主義的GW」には、連休になるとやたら海外に行ったり、遊びに行って渋滞に巻き込まれたりする現象について
「いったいこの休みは何だったんだ?と愕然とすることを防止するためだろう。休みに対する成果主義を突き詰めると、海外旅行に行きつくのではないか。」
と書いていて、ゴールデンウィークでなくても、「意味のないことに耐え」られなくて、「何か微小なことでも、成果が出ることをやりたい」という心の状況を、あんまりよろしくないと津村さんは思っている。

電車の窓からの風景を眺めるように、
柏餅の葉っぱをめくること自体が楽しかった子供の頃のように、
ただ目の前のことを受け入れて楽しむ。
ぼおっとする。

このエッセイなんだかいいなーと思って、ゴールデンウィーク前に書いておきたかった次第。

私の場合は、今まであまりにも非成果主義だったもので(それは自分の怠惰を肯定するためだったりもする)、残り時間を考えてあせったりもしているのですが(^^;

関係ないのだけれど、津村さんが高校の時、税務署のアルバイトで「ストラトキャスターを買った」というのにビックリ。ストラトキャスターという言葉自体私はつい最近知った(^^;)バンドTシャツの話も好きだ。カッコいいなー。

気の抜けた炭酸水

2017年04月28日 | 
炭酸飲料のコマーシャルは、「青春」とリンクしていることが多いようだけど、
「なるほどなーたしかになーCMプランナーというのはさすが見識が高いなー」
と、ふと新しい発見をしたように思った。

というのは、前述の中野翠さんの著書『あのころ、早稲田で』を読んだのち、ふと浮かんだ言葉が
「気の抜けた炭酸水」
だったもので。

悪口や批判と取られると困るのですが。
開栓して時間が経って、炭酸がほとんど抜けてしまったジュース、意外とほっとするおいしさがありませんか?
炭酸のヒリヒリしたのど越しがなくなったことで、マイルドに、より甘く感じられる。

「炭酸飲料が苦手」という人の話を聞いて、夏場は水も炭酸水を選んで飲んでいた私はびっくりしたのだけど、たしかにあののど越しは、スカッと爽やかと言えばそうだけど、時によって「こんなものは要らない」「なんか疲れる」という異物感があるかもしれない。
そしてあの爽快なヒリヒリは、時によっては、無数の微細な針で刺されているような痛みに感じられるかもしれない。

そうか、そういう二面性も「青春」に通じるんだなー。

何が書きたかったかというと、同じエピソードでも昔の中野さんの文章にはまだ青春の「ヒリヒリした痛み」が感じられて、読んでいるこちらも青春からそんなに離れていなかったこともあって、もっと切実にその痛みを感じ取って共感していたように思う。
(私が中野さんの本を読み始めたのは20代半ばだったので、学生時代よりも、それ以降のほうに強く共感していたんだけれど)

歳を取るということは、炭酸水からだんだん気が抜けていくようなものなのかなー
などと思った次第です。

炭酸水からだんだん気が抜けていくように、
ヒリヒリした記憶も時が経つにつれてマイルドに、
最期には、ほのかな甘味だけが舌に残る...
のかも?

記憶の断片

2017年04月26日 | 
上京時に買った本3冊
『創作あーちすとNON』(のん 太田出版)
『あのころ、早稲田で』(中野翠 文藝春秋)
『まぬけなこよみ』(津村記久子 平凡社)

後2冊は、後日県内書店でも見かけたけれど、のんさんの本(写真集か)はいまだ見ない。
地域格差。
神保町東京堂では山積みだったのに。
中野さんの本は店内ベストセラーに入っていた。

中野翠さんの『あのころ、早稲田で』
学生運動そのものだけでなく、周辺の些細な事柄、人物群像、当時の日常生活や流行風俗の話、けっこう短い文章で話題が変わっていったりするんだけれど、そのフラグメントの積み重なりという感じが、回想録としてはリアルでいいんじゃないかと思った。
早大闘争とか事象そのものへの興味で読んだ人にとっては期待はずれだったかもと思ったりもするけれど、中野さんの文章の特質は違うところにあるのだ。

今放映中のNHK朝の連続テレビ小説『ひよっこ』で、ビートルズの話がちらっと出て、はっと思ったのだけど、このドラマの主人公みね子と中野さんは同い年なのだった。

「後日談いくつか」の最後に、「くわえタバコで」というコラムが収録されている。
古いスクラップ帳を点検していたら出てきたという。
中野さんの本質が表れているステキなコラムだと思うんだけど、
「単行本にも収録していない」ことはない。
2004年分のコラムをまとめた『ここに幸あり』の中に入ってましたよー。
印象に残っていたので覚えている。

中野さんが覚えていないのはしょうがないとして(^^;担当編集者の人はチェックしなかったのか、単行本初出としたほうが価値が上がるという意図もあったりして?でも毎年コラム集を出している毎日新聞社の担当の人としてはひっかかるよね・・・
まぁ、時評コラムは書店から消えるのも早いから、こういう形で収録されたのはよかったと思うけれども。

走り書きで失礼

文章の極意を教えられる

2017年04月09日 | 
文庫になってからとも思ったけど、やっぱり今読みたいなと買ってしまった。
『いのちの車窓から』(星野源 KADOKAWA)
これがベストセラー本の力か。

装丁がすっきりしていて好き。
文章と挿絵イラストとのバランスが好き。
いい本だ。

「あとがき」に、おおげさだけど衝撃を受けた。
いい文章とはどういうものかについて、すごく腑に落ちた。

いい文章は
「『これを伝えることによって、こう思われたい』という自己承認欲求に基づいたエゴやナルシシズム」
が鼻につかない。
表現欲伝達欲の中にはどうしてもエゴやナルシシズムが入るものだからゼロにはできないけど、そういうものはなるだけ削ぎ落として、「ありのまま」を書く。
プロとアマチュアの違いもそこにある。

そういうことを、ほかで読んだことがあったかもしれないし、漠然と感じていたような気もするのだけれど、この本のあとがきは、すごく分かりやすくてなるほどーと思った。






slapstick!

2016年06月08日 | 
ふと中野翠さんのコラムタイトルが思い浮かび、読み返してみた。
それは
■スラプスティックなころび方 
(『迷走熱』所収/85~87年のコラムをまとめたもの。私が持っているのは文春文庫)

一読爆笑、これですよこれ。ぜひ全文読んでいただきたいものですが。
中野さんが「近来まれに見るミゴトなころび方」をしたときの話で、その描写がおかしいのだけど、ここではそのあとの、話を一般論に広げているところを引用したいのです。

(引用始め)
「アクション・ギャグの原点はころびにある--。3、4年前だったろうか、フジテレビ『月曜ドラマランド』の東八郎を見て、そう思った。あんみつ姫(小泉今日子)の家老(じい)役の東八郎のころび方は、軽快で、愛敬があって、他の人たちと一味も二味も違っていた。さすが、浅草軽演劇の世界から出て来た人だけのことはあると思った。昔の萩本欽一もすごかったしね。体を使って笑わせるコメディアンにとって、ころび方の洗練度は、重要なポイントになりそうだ。」
(引用いったん終)

お若い方にはなんのことやらかもしれませんがー…私も高校時代、クレージー・キャッツのこととか全然分からなかったものなー。今はいくらでも映像が見られるから恵まれている。
と、話をもとに戻して

この文章のあと、さらに『ザナック-ハリウッド最後のタイクーン』(早川書房)という本からの引用がある。アメリカのスラプステック・コメディー(過激なアクション・ギャグで笑わせる喜劇)の育ての親マック・セネットの言葉。孫引きで書き写しますと
「(役者の才能を見きわめたかったら)ころぶところを見るのだ。もちろん、それで笑いをよぶはずだ。役者なら誰でも、ころんで観客を笑わせることはできる。だが立ちあがるとなるとーそこがテストだ。もし立ちあがりながら、もう一度笑いを引きだしたら、そいつは喜劇役者だ。わたしなら長期契約を結ぶ」

うんうん、最近の芸人さんで体の動きで笑わせる人ってあまり見ないような気がするけど、どうなんでしょう。(ダンスがキレてる人はいたが)

ところが、コメディアンではない分野で、この「スラプスティックなころび方」を体現している人がいた!

いやー、スカパラ初心者ながら急速にはまりだした今日このごろ、CDショップに2011年の「Discover Japan Tour」ライブDVDがあったので、買ったんですね。
後追いでみると、4-5年分みなさんきっちり若いのが不思議な感じ。逆にここからさらにすごい進化してるんだーとも思った。
それはそれとして、GAMOさんのハプニングがっ
前からうすうす思っていたんだけど、確信した。喜劇人としての得難い才能。
しかしその才能は、あくまでスパイスとしてチラ見せするにとどめるところが、また贅沢な格好よさなのですなぁー

(この項「本」のカテゴリーに入れたけど、なんだか違うような気がしてきた(^^;)

好きな文章 分類編

2016年06月07日 | 
コラムニスト中野翠さんの本の中で、好きな「文章」というよりも、世の中や人を見るときの「視点」に、なるほどと思ったもの。

ふと思い出して、どこにあったかなと探してみた。

『厭々日記』(毎日新聞社 『サンデー毎日』連載コラム、主に1998年掲載分をまとめたもの)所収
「女マスコミにも金融恐慌の余波が」の冒頭より

仲よしの編集者が以前力説していたこと(男は「いいか・悪いか」に興味を持つが、女は「好きか・嫌いか」のほうに興味を持つ。男性誌と女性誌をそれぞれそういう考えでつくってきた。でも男女共通して興味を持つこともあって、それは「得か・損か」ということ。男性誌でも女性誌でもこれがたいせつなポイントになる)
を受けて

(引用始)
なるほどねぇ、そうかもしれない、うん、確かにそうだ。
1.いいか・悪いか(善悪)
2.好きか・嫌いか(好悪)
3.得か・損か(損得)
これ、人間の行動の判断基準の三本柱になっているよね。もの凄く大ざっぱに言ってしまうなら、この1.2.3.の優先順位の違いが、その人の個性ということになるかもしれない。
私自身はたぶん2→1→3だと思う。私にとっては2と1はほとんど直結していたりする。3に関しては、あんまり頭が働かない。自分では頑張って計算しているつもりなのに、結果的にはたいていはずしている。
なぁんて私のことはどうでもいいか。とにかく、男女共通して興味を持つことは「損か・得か」ということだ。具体的に言うとオカネ、ね。
(引用終 1.2.3.は原文では丸囲み数字)

「3に関しては、あんまり頭が働かない」というのが、好きなところです^^

(私自身も同じなのだが、私の場合は「『損して得取れ』という諺もあるしな」と一周回って小狡い考えが働いているような気もする・・・

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この文章を探すついでに『この世には二種類の人間がいる』(文藝春秋)を久々にめくったのだけど、そのなかの
「それは 時間をムダにしない人とムダな時間に生きる人だ」
という項に目がとまった。

人生の残り時間を鑑みて、「計画的行動」「時間割」を意識し、『日経WOMAN』のデキる女性のダンドリ術を興味深く読んだりもするのだけれど、どうしても無計画なムダ時間を過ごさずにはいられない。プルースト的というか森茉莉的というか、時の流れに身を任せたボーッとした時間が私には必要なのだー
と、葛藤する(?)今日このごろの私なのであった。

好きな文章 音楽編2

2015年11月06日 | 
続・コラムニスト中野翠さんの文章で好きだったもの。

各ジャンルの熱心な音楽ファンには眉をひそめられそうですが(^^;

『東京風船日記』(新潮文庫)所収

1989年4月18日の日記より

青山のブルーノートへオスカー・ピーターソンのライヴを見に行ったときの話の後

(引用)
 つくづく思ったのだけど、私もこれからはジャズだなぁ、って。なんといってもジャズは座りっきりでいられるのがいい。ロックのコンサートに較べるとめっきりラク。かんぺき、グータラばあさんね。座りっきりでいられるという、ただその一点で私はジャズを好きになる決意をした。こういう基準でジャズに転向する人も珍しいかもしれない。
(引用終)

86年のライヴでは立ち上がりたくてウズウズしていた中野さんですがー
しかし、この「ラク」っていうの、分かるー(^^;

一応フォローいたしますと、たぶん文章的なおもしろさを優先して上のような書き方になっただけで、もともとジャズも好きだったんだと思う。ルイ・アームストロングとかエラ・フィッツジェラルドとかのヴォーカルについて書いていた文章もどこかに(すぐに探し出せない(^^;)あった。

この『東京風船日記』は、マガジンハウスの雑誌『Hanako』での1989~1992年の連載をまとめたもので、現在は絶版らしいのだけれど、本としての工夫も楽しく、たぶん期せずしてバブル時代を検証する際の貴重な資料にもなっていると思うので、ブック・オフ等で見かけたら、即買いをお勧めします。

というのは、この本の各奇数ページの端にはグラフがついていて、冒頭の「本書の使用方法について」を引用すると、このグラフは
「当時の東京証券取引所第1部の平均株価を表すものです。グラフ中の風船の位置が株価を表しています。本書を手にとり、パラパラマンガの要領でページをめくると風船が上下し、株価の動きが手にとるようにわかる、というしかけになっています。お楽しみ下さい。」
とのこと。
文庫発行は1993年だから、まだこんなのんきな感じで当時を振り返っていられたのねー。

ちなみに1989年4月18日のページの風船は目盛り3万3千円くらいのところに浮かんでいる。
(しかし昔も今も大きな数字に弱く経済オンチの私、いまいちピンとこないのであった(^^;)

好きな文章 音楽編

2015年11月04日 | 
コラムニスト中野翠さんの文章で好きだったもの。
どこに載っていたのか探していたのだが、やっと発見。
『迷走熱』所収。
やっぱり初期の文章は楽しいなー(^^♪

■コラムタイトル「デジタルな私」

1986年ジョー・ジャクソンのコンサートに行ったときの話で、最初はおとなしく座って聴いていたが、内心踊りたくてウズウズ、しかしまだ立ち上がっている人はチラホラ、この段階じゃ悪目立ちしてしまう…と葛藤していたところ…

(引用)
…最新アルバム「大世界」の中でもノリやすい『ジェット・セット』の演奏が始まって、そのとたん、もう我を忘れて立って踊ってた。

 いつも、家で、このレコードをかけながら仕事をしていて、この曲がかかると、とたんに鉛筆をほうり投げて踊っているので、ほとんど条件反射のように立ちあがるアクションがインプットされていたのだった。
 曲が終わると、1秒後には何ごともなかったかのように別人の私が鉛筆を握り、机にしがみついている。
(引用終)

レコードとか鉛筆とかは時代を感じさせますが(鉛筆は今も使用しておられるらしいけど)、この仕事中のアクション、想像するとおかしくてたまらない。

「『分別』つうものが、一瞬にしてパカッとはずれ、一瞬にしてパカッと戻る。そのすばやさは、ほとんどデジタル」ということで、このタイトル。
「コンサートでも、終演の明かりがついたときには、すでに別人のようにすました私に戻っている。」
そうで。ハハハそのギャップがおかしい。

ほかにも今回あらたに共感(?)する文章を上記コラムの前ページにみつけた。

■コラムタイトル「不覚にも、ミーハー」

「友人に誘われて東京・渋谷のライブハウスに、アール・キングとジョニー・アダムスのコンサートを見に行く」

(引用 上のカッコ内の文章もそのまま引用してるってことなんですが)
 私は踊りたくて踊りたくて足の裏がムズムズしてきた。最後のほうで、もうガマンできず立ち上がって踊ってしまった。踊りつつススッと目立たない隅のほうに寄ってしまうところが、我ながらイマイチ小心ではあった。
 いいトシをしてコンサートにまぎれこんでるだけでも、けっこうツライものがあって、目立たないよう目立たないよう気を使っているというのに、ハッと気がついたときにはコロッと人格崩壊して踊り出している。それまでの気くばりが水のアワ。バカみたい。
(引用終)

ああ分かるわー場の空気を読む社会性と、ライヴにおける根源的喜びの発露とのせめぎ合いが…

ほかにもあるんだけれど、いったんこれにて。

なぜか覚えている

2015年10月12日 | 
昨日、田島貴男さんがギターを弾くときの左足の動きに注目したと書きながら
(コケたときの足大丈夫かな・・・)
「そういえば中野翠さんがローリング・ストーンズの人の足の動きについてなにか書いていたな」
とふと思い出し、久しぶりに『私の青空』を手に取った。

ありました。
「ミックとキース・頭脳と心」というコラムで、1990年2月のローリング・ストーンズ東京ドーム公演に行ったときのことを書いている。

(引用)
何といってもウケたのはキースのギターの弾き方で、細長い体をフワーッ、フワーッと泳ぐように揺らして弾く。それがすごくカッコいいような、おかしいような。

キースが時どき肩をクイッとあげるのを、友人は「あれって”肩凝ったなぁ”みたいじゃないかぁ!?」と言っていたが、私はキースが時どき足を宙に浮かしてバランス取ってるのを、「あれって”フロの湯かげんどうかなぁ”みたいじゃないかぁ!?」と思った。
(引用終わり)

ハハハ
私が描写したいと思った動きじゃなかったけど、これをきっかけに前後ページも読んで、やっぱりこのころの中野さんの文章はいいなー好きだなーと再認識した。
『迷走熱』の最初に「犬小屋にジッとしていられないストレイ・ドッグ」とあるけど、好奇心旺盛な犬がそこらをクンクンかぎまわったり、大喜びで走り回ったりしてる、そんな姿をほうふつとさせる文章なのだ。

1990年のミック・ジャガーとキース・リチャーズは46歳だったらしい。ひぇーっ(というのはそれが今の私の年齢だから)

2000年の10月に私は遅ればせながら初めて自分でウェブサイトをつくり(たしかウィンドウズ98に入っていたフロントページエキスプレス(だったっけ?)というのを使って、その後ホームページビルダーを購入したような)、中野翠さんの紹介をコンテンツのひとつとしたのであった。
2003年くらいから放置してそれっきりなんですが・・・(^^;;

またこれをきっかけに、中野翠さんの印象深い文章の断片を、随時集めていこうかな。