真実と幻想と創価学会

創価学会について色々書いています。ほぼ毎週日曜更新。

都議選挙こだわる公明党

2009-04-24 20:35:03 | 公明党

今日(平成21年4月24日)の毎日新聞の記事より。

■古賀氏が公明けん制

自民党の古賀誠選対委員長は23日、古賀派総会であいさつし、次期衆院選の時期を巡り、公明党が7月の東京都議選前後を避けるよう求めていることについて

「公明党だけでなく、各党が都議選をやる。(衆院解散は)首相の専権事項であり、私たちは静かに見守ることが大切ではないか」

と述べ、公明党の動きをけん制した。さらに古賀氏は

「あまり都議選に神経質になると、公明党が迷惑するのではないか」

と、公明党への皮肉とも受け取れる発言までした。

―――

今、公明党は「8月解散」を言いふらしている。首相も自民党も「8月解散」などと一言も触れていないのにだ。

「8月解散」公明流布 首相の真意は?(産経新聞)gooニュース

この越権行為を、上記のような生ぬるい言葉でけん制するだけでいいのだろうか。

古賀氏が言うように解散総選挙は首相の専権事項であり、また、国民全ての問題でもある。創価学会・公明党の都合だけが許されると思っているのか。

「私たちを中心に日本は回っています」なんて、創価学会は無意識に錯覚していそうだ。

公明党はとりわけこの東京都議選を重要視する。その理由は様々なブログやサイトで既に指摘があるが、矢野絢也著の「黒い手帳」にこのような記述がある。

創価学会・公明党にとり、都議選は国政選挙に匹敵する特別な位置づけになっている。理由はさまざまだが、一口でいえば、学会本部が東京にあることに加え、日本の人口の約一割を占める首都圏で権力を持つことには大きなメリットがあるためだ。

創価学会のお膝元である東京で、池田先生と組織を守るためには、警視庁など行政への影響力を常に保持しておく必要がある。

「池田先生と組織を守るため」に警視庁や行政への影響力を保持するとは、面白い話だ。

つまり、警視庁や行政を私兵化、私物化するということ。または自らが警察組織や国から問題視(敵対視)される存在だと認めている、とも取れる。

この元公明党委員長の矢野絢也著「黒い手帳」は、是非とも学会員、非学会員問わずに読んでもらいたい本だ。ちょっと創価学会に未練を残しているような記述は気になるが、いかに公明党が創価学会の言いなりか良く分かる。

この本に出てくる「手帳持ち去り事件」では東京高裁で、矢野氏が逆転勝訴している。

公明党元国会議員が逆転勝訴(産経ニュース)

最早みんな(アンチなら)知っているようなニュースですが、一応載せときます。

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祈りとして叶わざることなし?

2009-04-24 01:10:07 | 創価学会問題

聖教新聞社発行の「新会員の友のために」という小冊子が我が家にありました。2002年発行で、この頃に入会した人間などうちにはいないのに何故こんなものがあるのか不明ですが、いいネタ探しと読んでみました。

ツッコミどころは満載です☆

で、最初のほうで気になったトコロを記事にしてみます。

仏道は道理、祈りは必ず叶う!

どうして祈りが叶うのかについて考えてみましょう。

日蓮大聖人は、私たちの祈りが必ず叶うことを次のように仰せです。

「たとえ大地をさして外れることがあっても、虚空(おおぞら)をつないで結びつける人があっても、また、潮の満ち干きがなくなったとしても、太陽が西から昇ることがあったとしても、『法華経の行者』(妙法を実践する人)の祈りが叶わないことは、絶対にないのです」(御書1351ページ、趣意)

大地をさして、はずれるということはありません。また大空をつなぎ止めておくことなどできません。潮の干満は必ずあり、太陽も必ず東から昇ります。こうした真理や宇宙の法則以上の確かさで、私たちの祈りは必ず叶う、と仰せなのです。

えーと、御書での言いたいことと解説とが違っているように見えるのは私だけでしょうか?私の読解力の問題ですか?

「何があっても叶うよ」って言ってるのが御書で、その「何が」を否定して真理や宇宙の法則にこじつけている。

だいたいどうして「こうした真理や宇宙の法則以上の確かさで私たちの祈りは必ず叶う」のか、どこにも説明はない。

その後には

(中略)

「祈りとして叶わざることなし」の信心ですが、同時に「仏法は道理」です。現実の生活、仕事、また勉学などにおいて願いや目標を叶えるための努力をしないで、祈っていればいいと安易に考えるのは間違いです。努力した延長に、祈りは叶うのです。言ってみれば、祈りとは、努力し、目標を成就させていくための”エンジン”なのです。

さらに、その時は思うような結果にならない場合があったとしても、後になってみると、一番良かったという方向になっていくのが信心の功徳です。

私はこの”エンジン”という言葉に違和感を覚えました。祈り=信心ですよね。信心がなければ”エンジン”がないと言っているんですよね?

エンジンと言うからには人間=車にたとえているのでしょう。ではエンジンのない車とは?最早それは車ではありません。ということは、信心しない人間=人間ではない。って極論ですか。

私がこの”エンジン”の箇所に言葉を当てはめるなら、フロントガラスの下から出てくるクリーナー液くらいでしょうか?なくても困らない。視界が曇ったとき、助けになる。でもなくても走れる。

しかし「叶わざることなし」の祈りに求めるものは、多くの人は奇跡的なものではないのでしょうか?治らない病気を治したいとか、努力ではどうしようもないことを解決したいとか。

そんな奇跡を叶える力はないというのが、最後の文章で分かりますね。

後になったら叶わなかったことが良い道だったんだよ。って、そんなの誰にも分からないよね?そんなこと言い出したら、もっと最善の道があるかも知れないですよね。いやいや、それよりも最初の願いをちゃんと叶えてくれよ、って思わないですかね?

思わないんでしょうね~。

あと「功徳」って善行を重ねる行為かと思うんですが(功徳を積む)、「信心の功徳」っていう使い方は正しいんですか?仏法用語なので確信はないですが…。いいなら、いいですけど。

他にもよく言われる転重軽受という用語も、こじつけ臭がプンプンします。これはまた別の機会に書きますね。