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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(8)

2009-12-05 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

哺乳動物の脳の運動形成回路には、(拙稿の使う仮説によれば)運動感覚シミュレーションのための神経機構が付随している。哺乳動物の脳神経系では、目や耳や鼻の感覚器で捉えた遠隔的な情報によって環境にある対象を認知すると同時に、それに関連する適当な運動感覚シミュレーションが活性化されて、運動の予測が起こる。

つまり運動と感覚は一体の神経活動として作動し認知される。このとき、いろいろな運動感覚シミュレーションの予測結果の選択が起こっている。多数の運動感覚シミュレーションが試行錯誤され、感情機構によって評価されて適切な運動が選択される。そのときに選ばれた運動の予測結果が運動目的のイメージを作る。

拙稿の見解によれば、動物が身の回りの環境に何かがあることを認知するということは、それに対応して適切な運動を選択形成しその結果を予測するということだ、といえる。その予測される結果をこれから実際にする運動の運動目的イメージということができる。

拙稿のいう運動目的イメージが、脳のある一部分の、あるいはいくつかの部分の、神経細胞群の微細な物質変化としてどのように表現されているのかは、もちろん、現代の科学では解明できていません。ただ、マクロ的な図式の推測としては、拙稿の見解では、次のように、比較的単純に図式化できます。

まず、無意識のうちに、感覚神経系あるいは運動神経系などの活性化の連鎖反応を受けて運動感覚シミュレーションが活性化されることで脳内に仮想運動が起こる。仮想運動は、また連関する仮想運動を連鎖的に引き起こして、最終的に予測結果のシミュレーションとそれにいたる連鎖運動が感情を伴って選択される。

試行錯誤により種々の仮想運動が評価され選択される。選択されたこの一連の仮想運動の連鎖を運動目的イメージということにすれば、実際に仮想運動を実運動として実行した場合、その運動目的イメージに沿って連鎖運動が引き起こされていくことを観察できます。自分の身体がこのような連鎖運動をするとき、私たちは、その予測結果を目的として自分は行動した、と思う。

たとえば、「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という一連の行動の運動目的イメージは「キーボードに向かって新大臣の名をタイプインして検索画面の検索窓に表示させ検索ボタンを押し、画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達する」という連鎖的運動の仮想運動です。

この仮想運動が感情機構によって実行されるための活性度が閾値を超える程度に強まった場合、(拙稿の見解では)実際に私の指が動いてパソコンを操作する。その結果、大臣の経歴がパソコン画面に表示されます。第三者がこの実際の私の行動を観察すれば、確かにこの場合、私の行動の運動目的イメージは、はっきり分かる。このとき、この第三者が、「目的」という言葉を使って私の行動を説明すれば、「この人は新大臣の経歴を知るという目的を持って行動した」ということになります。

私が私自身の行動を説明する場合も同じような言い方になる。

「あなたは今、何を目的としてパソコンを操作しましたか?」と質問された場合、私は「私は新大臣の経歴を知るという目的を持ってパソコンを操作しました」と答えるでしょう。

実際に身体を動かすときの運動目的イメージは具体的な連鎖的運動の仮想運動であるけれども、言葉でいう場合の目的は、もっと抽象的な理論的概念となっている。「新大臣の経歴を知る」という抽象的な目的概念は、具体的な連鎖的運動の運動目的イメージである「キーボードに向かって新大臣の名をタイプインして検索画面の検索窓に表示させ検索ボタンを押して画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達する」という長たらしい連鎖運動とは違う。ずっと抽象的で記号化された短い表現になっている。このように、人間の行動を表す場合、言葉をじょうずに使うと「経歴を知る」というような抽象概念を使えるために簡潔な表現になります。

これがふつうに私たちがいう場合の「目的」です。

実際、「経歴を知る」という抽象概念は具体的な運動を表していません。経歴を知るためになされる具体的運動は、パソコン操作だったり、物知りの友人に電話をかけることだったり、図書館に行くことだったりするわけです。運動としては必ずしも共通性はない。最終的に文字か音声で「新大臣の経歴」というしかるべきデータを獲得できた、という状態に達すればよい。このように私たちのいう目的は、ある状態に達することを言っている。つまりその到達すべき状態が目的だ、とされている。

この到達すべき状態は、そこに到達できたかどうかが、だれにでもはっきりとわかるような状態でなければいけません。そうでなければ目的とはいえない。「新大臣の経歴を知る」という目的は、それが達成されたのか、達成されていないのか、すぐにはっきり分かる。

「経歴を知る」という日本語の意味が分かる人はだれでも、これができている状態とそうでない状態との違いははっきりわかります。そうであればこれは立派な目的です。

そこに到達できたかどうかが私ひとりだけにしか分からない、ということではいけません。私の仲間のだれもが、それをはっきりと分からないといけない。それは、実際に仲間がここにいて、分かったという態度をしてくれれば一番はっきりします。しかし仲間がここにいなくても、私がそれと同じように感じればよい。仲間の目で見れば今のこの状態は、目的が達成された状態にあると分かるはずだ、と私が感じられればよい。こういう場合、目的は達成されているわけです。

「新大臣の経歴を知る」という目的概念は、こういう仕組みで私の内部に作られている。この目的状態を達成するために必要な一連の運動を私はつぎつぎと実行していく。この一連の運動は、それぞれの小さな運動目的イメージの連鎖から構成されている、と見ることができます。

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