人間でなく、動物の場合はどうか?
人間以外の動物の場合、目的のようなものはあるとしても、それは今すぐしようとしている運動の直接の結果としての運動目的イメージでしかない。それ以外の言葉による抽象的な目的概念はありません。
馬とか象とか猿とかの場合、「口をあけてバナナを食べる」という運動の運動目的イメージは「口をあけてバナナを食べる」という運動シミュレーションのことです。そして、それが行動の目的そのものでしょう。ところが人間の場合だけ違う。人間が「口をあけてバナナを食べる」という運動目的イメージの行動をする場合の目的は、単に「口をあけてバナナを食べる」ことではありません。ふつう言葉でいう抽象的な目的がある。
私たちが(意識的に)口をあけてバナナを食べるときは、「ダイエットによさそうだからそうする」とか、「朝から午後四時ころまで忙しくてランチを食べる暇がないから、まだ十一時だけれど何かを口に入れておいて午後の空腹を避ける」とか、「一緒に食事をする友人がバナナしかいらないというから、もっとちゃんとしたものを食べたいけれどしかたない、ここは付き合ってバナナで我慢することによって良好な人間関係を維持しておく」とかいう抽象的な目的概念を持っています。
このような抽象的な概念としての目的は、人間以外の動物は持っていない。人間以外の動物である馬とか象とか猿とかはバナナを食べるときに口をあけますが、そのとき「口をあけてバナナを食べる」という具体的な運動目的イメージ以外の目的は持っていません。
動物園の象がバナナを食べるとき「大きなバナナの房をペロンと一口で食べて、ぼくを見ている子供たちの賞賛を浴びよう」などと思ってはいませんね。象はそんなむずかしい目的はまったく持っていない。単に口をあけてバナナを食べるだけです。
なぜ人間だけが、抽象的な目的を持って行動するのか? 人間の脳には、抽象的な目的を作り出す特有の仕掛けがあるのでしょうか? しっかりした目的を立てることで宇宙ロケットまでを作り出す人類の能力を考えれば、相当に高度で人類にだけ特有な脳の組織があるような気がしますね。
しかしもし、そういう人類特有の脳組織があるとすれば、それは人類が類人猿から別れて進化をしたこの数百万年くらいの短い時間で作られたはずです。数百万年の間には、ゴリラの手のような足が人間の足のような足になった。そのくらいは進化します。しかし、その足もよく見ると、指や足裏の骨の長さの比率が変わっただけですね。指の数が増えたり減ったりしたわけでもない。組織構造はあまり変化していない。足の構造ではなくて、足の使い方が変わったためにその使い方に適応進化して骨の長さが変わったといえる。
人間は意識を持つから、動物とは質的に違った知的能力をもっている、とよく言われます。しかし本当にそうでしょうか? 拙稿の見解では、意識を持つということは将来の変化を予測することと同じです(拙稿20章『私はなぜ息をするのか(4)』)。このような予測能力は人間以外の動物でも、ある程度は持っている。
チンパンジーやボノボは、餌の量が増えるまで食べるのを我慢することができる(二〇〇七年 ロサティ、スティーヴンス、ヘア、ハウザー『人類の忍耐力の進化的起源:チンパンジー、ボノボおよび成人の時間的選好』)。人間が将来の利益のために現在の苦労を我慢するのと同じように、チンパンジーは将来の利益のために二分くらい我慢できる。人間の場合は、将来の利益が十分大きいことが確信できれば、二日でも二年でも我慢できる。いずれにせよ、量的な違いはあっても、将来を期待する意識のようなものは、実はチンパンジーも持つ。数百万年前の類人猿共通の祖先もそれは持っていたといえそうです。
人類の脳も、(拙稿の推測によれば)類人猿の脳から構造的に変わったわけではなく、使い方が変わったということでしょう。使い方の変化に適応進化して神経細胞の密度分布は変わったようですが、脳の組織構造は変わっていない。ここで考察している行動の目的に関しても、それは同じことでしょう。
類人猿共通の祖先から現生人類への進化の過程で、意識能力は大きく発展した。将来を予測し期待する脳の働きは質的には変わっていないが、量的にはずっと強力になったということでしょう。
もっと一般的にいえば、猿など動物の行動を形成する機構に使われている運動目的イメージの使い方をほんの少しだけ変えれば、くるりと転回が起こって、人類が使う抽象的目的概念になっていくものと考えられます。