このように知識の蓄積が進んで普及しきってしまう結果、かつては重要な知識であったものが、無用な、歴史マニアだけが楽しむような知識に退化してしまいます。
これらの例は特殊なものに見えますが、実は、あらゆる知識がいずれはこのように退化する運命にあります。時代が進めば、現代のどのような常識であろうとも、それが実はプリミティブな幼稚な思い込みであったことが分かってしまうでしょう。
科学知識や人間社会、人間心理に関する知識を含めて、今日私たちが信頼し行動のよりどころにしている種々の知識は、未来の文明人の目から見れば、ほとんどは間違いであって、底の浅い、幼稚な思い込みということになるのでしょう。
この世の現実を私たちはどのように理解しているか? それは、目で見えること手で触って確かめられることのほかに人に聞いたこと、テレビで見たこと、新聞で読んだこと、学校で習ったこと、家族や友人との会話、世間話、などで知ったことによります。つまり、種々の知識で私たちは現実を理解している。
われわれが現実であると思い込んでいるこれらの知識はなぜ現実であるように受け取られているのか?
それは、これらの知識によって表される物事を現実として行動するとき、けっこううまくいくからです。つまりこれらの知識が現実に役に立つからでしょう。これらの知識を使って私たちは産業社会を維持し、食料その他生活に必要なものを入手しています。そしてそれら知識の有用性についてだれもが納得して使っている。だれもがそうであると思っていることは正しい、と思えます。逆に言えばそれが正しいという言葉の意味である、といえます。
私たちは日々正しい知識を拾い上げそれらを身に着けて、毎日を生き抜いていきます。それらの知識があらわす現実が真の現実であって、そうでない話は現実ではない。そこを見分けながら私たちは毎日やっていく。そういう知恵を持っています。
私たちはそれぞれが持っている情報を交換し合って、会話をかわしながら、協力して真の現実を見分けていきます。役に立つ知識を、集団的にというか社会的にというか、無意識のうちに協力して皆で作り上げていきます。たとえば科学。たとえば政治、経済。かしこい買い物の方法。グルメ情報。処世術、健康法、蓄財法。就活、婚活。それらについて語り合い、その知識が実用的であるかどうか、使ってみた経験を交換し合って、つねに正しい現実をつかみとっていきます。
逆にいえば私たちが語り合うために知識を交換する必要がある。そのために毎日現在の現実を表す知識が見つけられる必要がある。そうであるとすれば、知識はそれをもって人と語り合うためにある、といえる。