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哲学の科学

science of philosophy

無知という特権(5)

2015-05-17 | yy45無知という特権

たとえば物の値段、物価の知識。インターネットで調べたり人と語り合ったりすれば、その町でその物を買える値段が分かります。天丼は千円で食べられるか?パソコンは三万円でどんな性能のものが買えるだろうか?
生活の知識。コンセントの右の穴は7ミリメートルで触ると感電するけれども左の穴は9ミリメートルでアースされているから感電しない。東京ではエレベーターの右側を歩く人が多いけれども、大阪やほとんどの外国では左を歩く人が多い。日本では車は左側通行だけれども米国では右です。「知らなかったので逆を走ってすみません」と言ってもお巡りさんは違反切符をくれます。
法の不知は許さず(ignorantia juris neminem excusat)という法学知識。お巡りさんはなぜ寛容でないのか、市役所の窓口はなぜ堅苦しいのか、という知識も生活には必要です。

無知は損する。知っておくと便利。だから勉強しなければいけません。いつもアンテナを張って情報をチェックする必要がある、といわれます。
しかし、知識を無限に求める生活は、なにか虚しい。

何も知らない子供時代はよかった。言葉を知らない幼児は聖なる時間を過ごしています。無知が至福であるならば知識を持つことは愚かだ(Where ignorance is bliss, 'tis folly to be wise. {Thomas Gray 1742})、と思えます。

私たちは損をしないために知識を追い求めているのか?それとも賢くなることそれ自体に価値を認めているのか? それとも仲間と楽しく会話をするために知識を必要とするのか?
たとえばドラマを見て泣いたり笑ったりする。ドラマの登場人物たちと自分や家族の境遇を比べて感慨を持ったりする。人生はこんなものか、と思ったりする。あるいは時代物を見て歴史の知識を仕入れたりもする。
それで賢くもなるでしょう。そういう場合、そうしない時と比べて得なのか?損が少ないのか?



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