3 人間はなぜ哲学をするのか? 筆者は気が短いのか、一時間以上も続くテレビドラマはあまり好きではありません。それでも妻がテレビを見ていると、横のほうから、ちらちらと見てしまいます。テレビドラマには、たいてい定番のような悲劇が作り込まれているようですね。恋人どうしや家族の死に別れの場面など、見るとなく見てしまうと、涙がにじんできそうになります。冷静で知的なはずの筆者が、そんな表情を妻に見られてはなりません。さっと横を向いてごまかす。そして、なぜこんな安直な芝居を見て涙ぐんでしまうのか、我ながら首をひねりたくなるのです。無意識のうちに心が共鳴する。それはこういう自動的な現象のことをいうのでしょう。 しかし冷静で知的な筆者としては、このように無意識のうちに感情を揺さぶる命、そして心、という存在は錯覚だということも知っています。たとえば、詳しくは後で述べようと思いますが、命とか心とかいうものは物質として存在するものではありません。だから大事でないと言うつもりはありませんが、手に取って目に見せることができない。はっきりと感じるものであるにもかかわらず、物質として捉えられるものではない。人間どうしの交流のうちに、そのときどきの状況の経験から直感して、共感する。それで分かったような気持ちになるしかありません。 そうではあっても、よくできたテレビドラマは、なるほど、本当に心に響く。身体が勝手に反応してしまう。身体が理解してしまう。涙が出そうになったり、手に汗を握ったりしてしまう。見ているこちらの身体に、テレビの中の主人公の心が乗り移ってきて、いつのまにか身体を動かして心を揺さぶる。次はどうなる、次はどうなる、と場面を進ませようとするのです。いいところでコマーシャルがはさまれる。実にうまく作られている。そういう連続ドラマを見ると毎回、(妻には内緒ですが)ぜひ次回を見ようと思ってしまう。 優秀なディレクターたちがそういう効果を狙って作ってあるのですから、あたりまえなのでしょう。同じように昔の人たちは、囲炉裏を囲んで長老が物語る伝説の動物、竜とか天狗などの怖い話を聞いて、本当に身体が震えて後ずさりしたくなった。それでも、その話をもっと聞きたくなる。それもこれも、同じ脳の働きです。 人間の内部には、心というものがある、森の奥には、天狗というものがいる、と言われれば、そういうものが確かにあるような気がする。でもだれも、現実の物質として、それを見たことはない。 日常生活では、それでも十分です。話し手がそれを言うときの表情、身振り、声の調子、そして前後の状況、そういうものを感じ取って聞き手は話し手の感情を共感し、相手が感じている錯覚を想像し、その錯覚の存在感を自分の経験として記憶していく。そうして、その錯覚は言葉で名づけられ、存在感という感情を伴って想起することができるようになる。さらにその言葉で錯覚を思い出し、それに想起される感情を声や表情で表現したときの相手の反応を観察して、その錯覚がだれとでも共有されていることを確認していく。こうして一連の錯覚を確実に共感できるようになり、仲間どうしは通じ合った気になって会話がはずみ、共同生活がうまくいく。 「天狗にさらわれるから子供から目を離すな」とか、「滝つぼには竜がいるから、子供は深いところで泳ぐな」とか言い合っていれば、その部族の幼児死亡率が低くなって人口は増加した。そういう便利な錯覚を共感し、それを言語で表現する人間の集団は結束が高まり、繁殖率が高まり、大いに繁栄して、錯覚を共感し言語を伝える能力をもつ子孫を増やしていく。いわば、人類の繁殖機構に埋め込まれることで、言語もまた繁殖していく。 しかし結局は「天狗」とか、「命」とか「心」とか「自分」とか、感情に訴える存在感の強い直感的な錯覚と、目に見える現実の物質世界の構造とは、もともと整合が取れてはいない。 私たちが直感で強くその存在感を感じ、人生でもっとも大事だと思っているものごとたち。命、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・。こういうものは錯覚です。物質として目で見ることはできない(たとえば、あなたが直感的に「自分」だと思っているその肉体は、目で見える限りでは、分子の集合であるただの物質でしょう?)。 人間の脳は、これらの錯覚を、現実の物質現象とはきちんと対応しないにもかかわらず、自分の脳内で作り出し、それを感情回路に連結して強い存在感を持って感じ取り、仲間と共感することで、行動に結びつけるような働きを持っている。こういう脳の機能を持つように、人類は進化した。人類は、群れを作り、群れの中で仲間どうし感情を共感し、共鳴して集団行動ができるように脳機構を進化させた。さらにその機構を下敷きにして、高度な社会生活とそれへ適応する上位の脳機構を共進化させた。それが、生物としての人類の生存と繁殖に有利だったからでしょう。 命、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む・・・こういう言葉で引き起こされる強い感情を集団で共感し、共有することで、人間は団結して上手に生活することができるようになった。上手に生活できた人間集団だけが現代まで生き残り、そのDNA配列(ゲノム)を受け継いだ子孫が私たちです。だから当然、私たちは、こういうものごとが人生でもっとも大事なものだ、と感じる。 私たち人間は、命や心の存在やその動きなど、これらの錯覚を物質現象として(自分の)脳の外の物質世界に直接見つけることはできない(たとえば、自分以外の人間は明らかに心を持っているらしく見えますが、その身体や脳をいくら詳しく調べても、これが心だといえる物質は見つかりませんね)。それにもかかわらず、人間は、仲間の人間の身体の動き方を見たときに自分の中に自動的に引き起こされる感情として、その人の命や心の存在感を、直感によって、瞬間的に、簡単に、はっきりと感じ分けることができる。 群れの仲間と感情を共感して、集団行動をとる機能は、群れをなす哺乳動物によく発達している。古くからある脳のこの機能を基にして、人間の共感共鳴機能も進化したのでしょう。 群棲動物は、仲間が恐怖を感じて逃走を始めると、その恐怖感情を共感して逃走する仲間に全力で追従する。人間の幼児も、動物と同じように、隣の子が泣き出すと泣き出す。しかし成長した人間はそれと同時に、仲間が感じる恐怖の対象、たとえば加害者の悪意、などの存在感を共有してそれに反応する。人間は、直接の感情を共感すると同時に、仲間が感じるその感情の対象である錯覚(たとえば加害者の悪意)の存在感を推測し共感するからです。「加害者の悪意」などというものが、それを感じる人の脳の外には物質として存在しないとしても、その錯覚の存在感を脳の中で感情に結び付けて感じ、仲間の人間とその存在感を共感できれば、その脳機能は人類の生存に有利に働く。そうして、結果的に子孫が増える。つまり、その錯覚を作る機能は人類全体に遺伝していく。 動物の中で人類だけが、仲間と共感する存在感を錯覚として固定できるように、脳の神経回路を進化させた。ヒト科に属するチンパンジーやゴリラには原初的な形で似たような神経回路があるかもしれませんが、たぶんは、人類の進化史上、せいぜい数百万年くらい前(チンパンジーと別れた頃)以降に起こった人類特有の脳の進化でしょう(後で論じるようにヒト科の中からヒト属が出現した二百万年前かもしれない)。人類は、脳内で作り出される錯覚を、存在感を伴って感じとり仲間と共感することで、共有できる世界のモデルを脳内に作り出し、それにもとづいて仲間との連携行動を調整するようになった。その結果、連携行動を活用する採食繁殖行動パターンの獲得に成功して、この数百万年間、どんどん繁殖してきたのです。 この機能が、脳のどこの神経回路で、どのような生理的現象として起こるのかは、現在の脳科学ではまだよく分かっていない。たぶん、扁桃体、前部帯状回、前頭葉内側など、辺縁系の神経回路が側頭葉、頂頭葉など運動・感覚系の大脳皮質と連携して機能しているらしい、としか分かりません。いずれにせよ、明らかに人間の脳神経回路では、人の命、人の心の動き、自分自身に対する意識、などに関する錯覚の共感が感情回路に強く連結して、強い反応を起こしている。その神経回路の反応は、視線による注目など、決まった表情や声色や動作で表わされるようになり、人間どうし互いに視覚聴覚のみで(テレパシーなど使わずに)共鳴し 認識できるようになり、人間集団の中で安定し定着する。仲間のその表情や動作を感知して、人間は、仲間の内部で起こっているらしいその錯覚とそれに伴う仮想運動と感情を共感できて、それらにはっきりした存在感を感じることができる。 仲間の人間の脳内で感じられている錯覚は、その人体の運動となって外部に表現される。つまり、表情、動作、発声となって、それを観察している人間の目や耳で感知できる。その視覚聴覚の受信信号は、観察者側の脳内で自動的に運動形成回路を共鳴させ、その運動信号は記憶にある共有の錯覚の再生を誘発する。そうして、人間から人間へと、共有された錯覚が伝わる仕組みなのでしょう。