私たち人間は、目に見える物質そのものよりも、目には直接見えない人の心、自分と人との関係、自分の幸福、不幸などについて、むしろ強い存在感を感じる。そうして、目の前の物質そのものをどうにかすることよりも、目に見えない人間仲間との協調、協力など、自分のまわりの人間関係を優先して生きるようにできている。みんなと会食しているときに、勝手に鍋から自分だけおいしいものを取って黙々と食べてさっさと帰ってしまう人は、あまりいませんね。ふつう、会話しながら食べ物を分け合って一緒に食べるでしょう。そういう脳の仕組みを持った人類が生き残って、私たちを産んだのです。その現生人類の祖先は、(目には直接見えない)人間関係に対応するそれら錯覚を共感し、いつのころからか、その強い存在感を共有できる錯覚に対して、命、心、自分、というような言葉を作って神経回路に定着させるようになったのでしょう。 私たちの人生にとって一番大事な、こういうものごとは、(拙稿の見解によれば)たまたま動物ホモサピエンス(ヒト科ヒト属ヒト)の脳が、この数百万年くらいの生活環境に適合する便利な錯覚の存在感を作り出すように進化したことで作られた。その共感できるようになった錯覚を(たぶん二十万年前くらいから)言葉で表現して子孫に伝承し上手に使ってきたから、私たちがそれを語りあっている。 これらの(命、心、自分、というような)錯覚を作り出す脳の神経機構は、何百万年もかかって偶然の積み重ねによりDNA配列(ゲノム)を進化させることで、自然に人類の身体に出現してきた。 偶然の積み重ねによる自然の設計ですから、論理的に完璧には作られてはいない。数学のように、論理の専門家が精密に設計した概念体系とは、違う。そのため、論理感覚に優れた哲学者のような人が真剣に研究すると、「命」とか「心」とか「自分」とかの素朴な常識概念の構造は、論理的におかしいところが見つかる。科学など物質世界の観察の経験を厳密に表現した理論と比較して分析すると、いろいろな矛盾が見えてしまう。哲学者は、それを神秘と思う。 物質である人体に、なぜ主体性のある心が入っているのか? ただの物質であるこの人体が、なぜ意識を持っているのか? 自分はなぜ、他の人と交換できない特別な「自分」なのか? とても神秘的です。 哲学者の厳密な議論が進んでいくと、精神と物質、主観的自我と客観的世界の両方とも存在することの矛盾が発見されてくる。心身二元論、独我論、存在論、生と死、など、古来の哲学の諸問題もそこに見出されたのでしょう。 「命」とか、「心」とか、「自分の主体性」とか、こういう言葉が表すものは目の前の物質の現象としては、はっきり見えない。だから存在しない、と言ってみたくなるようなところがある。それなのに感情に強く響く。だから神秘的に見える。目に見えないのに神秘的に感じられるからこそ、崇拝される。物質を超越した宗教や哲学の対象、と思える。神秘的であるほどありがたがられて、ますますしっかりと人々の感情に訴えるようになる。どうも、人間の脳神経機構は、こう働くように進化してきたようです。 だから危険です。「命」とか「心」とか「自分」とか「運命」とか、これら存在感の強い神秘的なものごとを、あまりまじめに、理論的に考えるのは、どんなものでしょうか? これらの伝統的な常識概念は、もともと大昔の人々の単純な生活を背景として、幼児にも分かるような素朴な感覚をつなげて作られている。それだけに人間の身体に深くなじむ。逆に言えば、人間の身体になじみやすい観念だけが今までなくならずに、私たちにまで伝えられているわけですね。 しかしこれらは、数学のように、論理のプロによって注意深く矛盾を取り除きながら作られた概念体系ではない。また科学のように、物質世界との整合性を確認しながら科学者というプロの集団によって洗練されてきたものとも違う。 生物進化という、偶発性と矛盾に満ちていてあたりまえな過程を経てできた脳神経回路が、自動的に作り出す錯覚の雑多な積み重なりの結果です。何百万年という長い時間の間の、無数の偶然の積み重ねで生き残った進化の産物、というだけです。宝くじで一億円が当たった人にとって自分の運命が神秘的に感じられるように、これら錯覚の存在感は神秘的です。しかし、実は、何の不思議もない。 宝くじで、誰かが一億円を当てることは、何の不思議もない。同様に、人類がこのような脳神経系を持つようになったことも不思議ではない。人間が自分の人生を謎と感じるような脳を持っていること、その事実自体は、まったく謎ではありません。そこに落ちている小石のように、その存在自体は何の意味もありません。その小石がなぜ、そこに落ちているのか、それを神秘と思えば、確かに神秘です。ただ、それを考え続けることに意味があるとは思えませんね。その点を忘れてはいけない。 命とか、心とか、自分とか、そういう大事そうな、神秘的で感情に響くものについて、真剣に論理的に考えれば考えるほど、おかしなことになってくる。他人と違って自分の存在だけが、この世で特に重要なものであるように感じ、自分探し、など言う言葉が何か、意味深いものであるかのような錯覚にとらわれて、現実から乖離していく。 この世の現実は、物質の法則だけで動いていく。人間の念力や、神秘の魔法で動くわけではない。目には直接見えないのに感情にだけ響く、神秘的なものごとと、目に見える現実の物質世界の動きとを、無理やり結び付けて理解しようとするのは間違いです。古代の呪術のようになってしまう。 「命」とか、「心」とか、「自分」とか、強い存在感があるのに目には見えず神秘的でつかみどころのないもの、宗教家や哲学者は、そういうものを、直感を頼りに考えぬくことでこの世の謎を解こうとする。いつかは真理に到達できる、と思う。そうすると、どうしても錯覚と格闘することになってしまう。間違いに間違いを重ね、神秘感に落ちいり、言葉の罠に落ち込み、堂々巡りになってしまうのです。 物質で示すことのできない錯覚は、人間どうし、よほどツーカーの間柄でないとなかなか伝わりません。言葉で懸命に語っているのに、相手は理解してくれない。それで人間の間に、反目と対立が起きてくる。分かってくれない相手に対して、警戒、蔑み、憎しみのような感情が起こる。異なる神を信仰する者たちを憎み恐れるのは、当然です。それで育ちが違う人間の間、違う宗教の間、異文化、異文明の間、の相互理解はむずかしくなる。現代に至って、ますます、人類共通の哲学は作れそうになくなってきた。相互理解の限界、言語の限界、哲学の限界が頻繁に語られる一方、希望はちっとも見えてこない。空転する議論に疲れて、哲学者もニヒリズムに陥っていく。 それなのに、人間はなぜ哲学をするのか? なぜ神秘を追い求めようとするのか? なぜそんな難しいものにこだわり続け、考え、語ろうとするのか? それはたぶん、かつてそうすることが人類の生存に有利だったからでしょう。全然哲学しない人類は何万年も前に滅びたのではないでしょうか。私たちの祖先は、哲学、あるいは宗教をすることで生き残った。もちろん、人間は(拙稿の見解によれば)間違った哲学しかできない。それでも、間違った哲学でも、哲学するほうが、しないよりも生き残りやすかったに違いありません。 あまり哲学しない現代人は、昔の人に比べて、生き生きとたくましく生きているでしょうか? 何ものをも信じないニヒルな現代人は、幸せそうですか? そうではないようです。たとえ錯覚であっても、しっかりした自分の信念やゆるぎない物の見方を持っている人々のほうが、着実に仕事をこなし、周りの人々としっかりした人間関係を保ち、立派な子孫を残し、人生をたくましく、幸せに生き抜いていくようにみえる。そして、そういう信念や物の見方は個人のものではなく、宗教や文化を同じくする大きな集団の中に共有されて、強固に維持されてきた。 かつては宗教が、そして少し前の時代には学校や書籍やマスコミが、集団の信念や、物の見方を教えた。正しい文化を伝える権威を代表していた。しかし現代、それらの権威は揺らでいる。さらに悪いことには遠い国の異なる考え方が浸透してくる。かつては、モザイクのように宗教や文化が分断され、情報の交換もなく、境界での接触も少なかった。そういう時代は平和でした。しかし、現代は、どうしても遠くの地域の思想がしみ込んできてしまう。グローバリゼーションの現代、文明と文明、文化と文化が接触し、互いに浸透しようとし、衝突していく。その結果、これまで宗教や文化を同じくした伝統的な共同体や文化を共有する集団の内部でもまた多様な価値観が表れ、価値観は個人個人に分断され、個人と個人はお互いに相互理解がむずかしくなっていくようですね。 そんな現代の状況で哲学をすることは、とても危険です。安全で安心な生活がしにくくなる。それなのに現代の若い人の中からもまだ、哲学をしようとする人が出てくる。危ない話です。 たぶん人類の脳は、進化の結果、哲学する傾向を持つようになった。 私たち人間は、他の動物と違って自分の身体が客観的な物質世界の中に置かれていることを知っている。自分の周りに世界がある。自分は世界の中にいる。ということを知っている。というか、少なくとも、そう思い込んでいる。まあ、みなさん、そう思い込んでいるでしょう? 筆者も実はそうです(脳のこの興味深い仕組みについては後の話題にします)。自分という身体が置かれているこの世界はどういうふうに動くものなのか? どう変化してこれからどうなるのか? その中にある自分の肉体は、これからどういう影響を受けるのか? そういうことを、いつも知ろうとするように、人間の身体はできている。 人間の脳は、世界が変化する原理を知りたがり、仲間の多数派の考え方を知りたがり、権威ある教えを身につけ、それを自分の行動に織り込んでいくようにできている。人間の脳は、たぶん、権威を持った尊厳のある大きなものにひれ伏し、それを信じ、それに導かれ、それに追従する、という神経機構を持っている。その神経機構の集団的な働きにより、人類は権威を作り、権威のある錯覚を作り、言い伝えを作り、ついには経典や法律を作って、そこに集団としての経験を集約し、実用的な知識を蓄積してきた。人間は、権威を持った集団知識の集積を作り、その教えにしたがって集団として生活していく(たとえば一九八九年 マーガレット・ギルバート『社会的事実について』)。これは確かに、安全で効率的な生活様式です。そうすることで有利に生き抜いてきた動物の子孫が私たちなのでしょう。そして人類は、文明社会を作った。技術や知識を蓄積して権威付け、それを継承していく。そのような社会活動をするような脳を作るDNA配列(ゲノム)を獲得して進化した人類が、他の旧人類たちとの生存競争に勝って、今のように世界中に増殖した私たち現生人類、ホモサピエンスサピエンス、になったわけですね。 最近の健康志向ブームに便乗して、「○○は身体によい」などと教えるニセ科学が、テレビなどを通じて、はびこっているようですが、これなども、権威がありそうな集団知識に乗り遅れたくないという人間の神経構造を利用した商売でしょう。