人間は、自分たちの行動(たとえば外出する)に影響を及ぼす現実の変化(雨が降るか)を予測する必要を感じます。その予測に応じてこれからの行動を対応させる(傘を持つか持たないか)必要があるからです。行動に影響を及ぼす因子(雨模様)に注目し、それがあたかも仲間の人間であるかのごとく(擬人化)その気持ちに乗り移って(憑依)行動を予測し(雨が降りそう!)それを仲間と共有する(メールする)。そのような認知行動を表現できる効率的な構造を人類言語は持っています。
逆にいえば、このような認知行動を仲間との群行動として実行する手段として効率的であったから言語が発生し進化した、といえます。
人間が知る必要がある物事の表現がこのような構造を持つ限り、言語の構造と同じ形をとるので、当然、それは言語で表現できます。人間が知りたいと思うことがすべて言語で表現できれば、私たちはすべてのことは言語で語ることができると思う。結果的に、言語はすべての物事を語ることができる。つまり万能である、といえます。
なぜ言語は万能なのか?その答えは分かりました。トリビアルな自明な答えである、といえます。まあ、スフィンクスのなぞ賭けのように、難問の答えはたいていトリビアルではあります。
はじめに言葉ありき、とか、人類言語は神聖であるとか、最高の神秘であるとか昔からいわれていますが、たしかにそうであるような気もします。一方、言語も生物現象のひとつにすぎないのであれば、アミノ酸のように小さなつまらない自明が多様に重ねあわせられ、淘汰による選択を受けてできあがるものであることは当然でしょう。
人類言語は(拙稿の見解では)神聖でも神秘でもないふつうの生物現象です。ただ私たちが生きている社会全体がその(言語システムの)内部に含まれており、さらにその社会の中で私たちが会話し社会活動をし、文章を書きマスコミを作り、科学や哲学を読み書きしている限り、私たちにとってすべては言語の内部にあると感じられるには違いありません。
そしてなぜ私たちがそうしているかと考えれば、私たち人間が社会の中でしたいことのほとんどすべてをできるように作られた道具が言語であることが分かります。そうであるから、人類言語は当然万能であり万能であるしかない、といえます。■
(46 人類言語はなぜ万能なのか? end)