自分の身体の反射運動を感じてそれをはっきりと記憶することで私たちは自我を意識する。自分がここにいるとか、自分が何かしているとか、いわゆる自我の存在を感じます。
人間だけが自分の行動を長期的に記憶できる。自動運転自動車は自動的にブレーキをかけるが自分のしているブレーキ動作を自覚していませんね。まあ、「何時何分うまくブレーキングできた」などと記憶するようにプログラムを組んでおけば、その限りで自動車は自我の片鱗を持っている、ともいえます。
私にとって私とは何か?私がこう動こうと思ったときにやはりこう動くと予測できる身体が私である、といえるでしょう。
私にとってA君とは何か?A君に見かけがそっくりで、しかもA君がこう動くだろうと思った通りに動く身体がA君である。つまり、私の神経反射ネットワークに働いて作り出す予測の動き方が(私が以前から持っている)A君というテンプレートにマッチすれば、それはA君である。これ以外にA君のパーソナリティというものがあるわけはありません。
私にとっての私、私が私だと思っているところの私、つまり私の自我の客観的な部分、というものも、A君のパーソナリティとだいたい同じことです。A君が私に置き換わっただけ、といえます。
自我の認識が他人の認識と違うところは、その入力信号が視覚や聴力など遠隔情報ばかりでなく、体感、体性感覚などが活用されるので情報量が大きくなることです。それら情報に喚起される反射が自我の自覚体感を作り出しています(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
