まず、このむずかしそうな謎、つまり世界と私が同時に存在することの矛盾について、拙稿の見解をまとめておきましょう。
ここまでに述べてきたように、西洋哲学ではこの問題を中心に啓蒙時代から哲学の近代化がはじまり、現代哲学に続いています。デカルト(1596 ?1650)の「我思う、故に我あり(一六三七年 ルネ・デカルト『方法序説』既出)」がそのスタートポイントであり、そこから近代の哲学と科学がともに生まれてきたとされます。二十世紀に入り、現代科学が相対性理論、量子力学、宇宙論、素粒子論、分子生物学、情報科学、脳神経科学、と発展するにしたがって、この哲学的問題は、哲学者の間で、あるいは科学者の間で、主観と客観の関係論、現象学、独我論、心身問題、心脳問題、意識問題、クオリア問題、ハードプロブレム、など形を変えて、繰り返し議論されてきています。
この問題は、近代哲学以前に歴史上の文献をさかのぼればアリストテレスの形而上学以来めんめんと続いてきていると言えるようです。それより昔のことは完全な文献の形で残されていないので歴史としてさかのぼれないわけですが、たぶん、言語の発生と同じくらい古くから人類が悩んできた問題なのでしょう。その意味で、たしかに人類最大の謎といえますが、なかなか解決の糸口が見つからない。なぜか? それは、拙稿の見解では、私たち人間がこの問題を考えるとき、いつも考え方を間違ってしまうからではないでしょうか? それにはそれなりの理由があるはずです、拙稿では、そうであると仮定したうえで、それなりの理由を調べていくこととします。
まず、私たちがこの問題をふつうに考えるとき、どういう道筋を通ってどのような結論に行きつくのでしょうか? その道筋をチェックしながら、たどっていくことにしましょう。
私たちは、だれもが同じように感じとれるただ一つの現実世界がここに存在しているように思っているけれども、それが本当だという証拠はない。私たちはよく、これが本当であることの証拠として、私がこのようにはっきりとこの現実世界を感じとれるからこれは存在している、という考えを持つが、それはだめでしょう。私がそれを感じとるということだけが、この世界の存在の根拠になってしまっています。このことは、私がこの世界の内部にいるただの人間であるとすればおかしい。ただの人間である私ひとりだけが世界の存在を証明するような特権を持つはずがない。そうであるとすれば、世界を感じとっている私が世界の内側にいるふつうの人間であるとすることはおかしい。言いかえれば、私は世界の外側にいなければおかしい。
もしそうであって、私がこの世界の外側からこの世界を感じとっているからこの世界が存在すると分かるのだとすれば、この世界は人間だれもが同じように感じとれる世界であるのかどうかはあやしい。私の目の前にあるこの世界、いまここにあるこの世界を、私以外のだれかが私が感じているこのとおりの世界に感じとっているかどうかを確かめる方法はない。たぶんそうだろうと思えるけれども、そうであると決めつけることはできない。つまり、この世界はだれにとっても同じ客観的なものとしてはっきりと存在していると言いきることができない。
以上をまとめれば、次の結論を得る。
世界をこのように生々しく感じている私がはっきりと客観的世界の中にいるという説明はできない。また私がはっきりと世界を感じていると仮定すれば、この世界がだれに対しても同じように客観的にはっきりとここにある、ということはいえない。
ゆえに、客観的世界と私が同時に存在するとする考え方には矛盾がある。つまり「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」という考えは間違いだというしかない。
これで、問題(世界と私が同時に存在することの矛盾)が、はっきりしたのですが、拙稿としては、この問題に関して、なぜ私たちがそれを謎と感じるのか、という観点で調べてみたい。
まず、この世界をこのように生々しく感じている私は、この世界の中にいるとはいえない、というところから出発してみましょう。
それではもし、私が私だと思っている私がこの世界の中にいるものではないとすれば、それはどこにいるのか? それを探してみましょう。それを探すには、私自身とこの世界とを同時に含み、さらにその他のすべてを含むような、何よりも大きなものを見つける必要があります。しかしまず、この世界全体よりも大きい、そんな大きなものがあるようには思えません。
そんな大きなものがもしあるとしても、直感ではとても感じとれないはずです。筆者などがいくら修行して瞑想で感じとろうとしてもだめでしょう。それが人類最大の謎である以上、人間に感じとれるような生易しいものではないと思えます。そう言ってしまうと、しかし、話は進まなくなってしまいます。そこで、拙稿としては、とりあえず話を進めるために、とにかくそういう大きいものが仮にある、として進みましょう。
何もかもを含む大きなもの。そういう、直感ではよく分からない大きなものについて、どう考えればよいのか?このような問題意識は昔からありました。西洋では科学が進むにつれて、この問題から近代哲学が始まっています。精神と物質、自我と客観的世界の存在の矛盾。それらすべてを大きな神の存在に包み込もうとする考えが近代哲学のはじまりとされています。
不可解な謎を神様のせいにすれば話はすぐおわってしまいます。拙稿としては神様に登場願わずに、もうすこし先まで進める方向を探っていきます。