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哲学の科学

science of philosophy

人類最大の謎(6)

2010-08-14 | xx3人類最大の謎

さてその大きなものとは、神様でないとすると、何でしょうか?

仮に、私たちが感じとっているこの世界全体も、またこの世界に含まれているようでもあるがもしかしたら含まれていないかもしれない私というものも、それらすべてがずっと大きい何ものかの中に作りこまれている、としましょう。その大きなものが何かは分からない。私たち自身はそれを感じることができない。そのすべてを作りこんでいる大きなものは、形式的に表現すれば、私が感じるすべて、ということになるが、その全体がどういうものなのかは直感では感じとれない、ということになります。その全体がどういうものなのか、分かる方法はなさそうです。こういう場合、拙稿としては、とりあえずは、それに名前をつけたり定義したりしようとがんばるのはやめて、部分的でよいからその特徴を書き出してみることにします。

その大きなものの全体は、私たちの直感で感じとれないけれども、その部分のいくつかは感じとれる。まず、ここにあるように感じられるこの世界が、その一部分です。宇宙全体もその過去も未来も全部その大きなものの一部分ですね。この私の身体も、もちろん、その大きなものの一部分です。また、この身体の中にあると思われる私自身の心も、たぶん、それの別の一部分でしょう。それらの部分は重なっているかもしれないし、重なっていないかもしれません。その重なり具合は、後で調べていきましょう。

さらに、その大きなものの断片的な部分として思いつくものを書き並べてみましょう。まずは、私がよく気づかないうちに私の身体からときどき立ち現われてくるいろいろな感覚や感情などでしょう。くしゃみをしたり、あくびをしたり、よだれを流したり、眠ったり、目覚めたりする私の身体の動きの大部分を、実は、私はよく知らない。いつの間にか身体が動いているらしい,としか分からない。しかしそれらの動きから私はいろいろな感覚や印象や記憶を受け取っているらしい。それらもまた、ここでいう大きなものの一部分でしょう。

また目に見えたり耳に聞こえたり身体に触ったりする身の周りの物によって私の身体に起こる感覚を私は感じている。これらも大きなものの一部分というべきでしょう。さらに、それらの物事や人々の動きを見たり聞いたり匂いをかいだりしたときに、私の内部でなにか感情あるいは気分のようなものが立ち上がってくるように思えますが、それが何かはたいてい分かりません。そのままに過ごしてしまうが、しばらくしてふたたび関係がありそうな気分になったりする。それは思い出しというか、連想というか、想像というか、私自身よく自覚できないうちに私の気分や感情に影響している。そして、物事を見たり聞いたり触ったり、それらを思い出したり、連想したりするときに、それらが収まっている空間と時間、それらとの関係で私が感じる私の身体の形や動きやそれらから受ける反作用などが、同時に浮かび上がってくる。

目をつぶっていても分かる私の身体。そこから前後左右上下に広がる空間。今と過去と未来を流れる時間。私の周りの人々のありさま。家族と私。友人、仲間、知り合い。その小さな社会。お金。私の家計のやりくり。子供の将来。昔の思い出。時代の流れ。それらに伴う感慨と感情。ふつうはたいして気にしているわけではないが、いつも繰り返し私の中のどこかに浮かんでくる物事たち。自分がそれらをはっきり感じているかどうかもよく分かっていない。しかしそれらの動きの中から、ときどき断片的に世界が立ち現われ、人々の心が立ち現われ、人々が感じていることがまた私の中のどこかに現われ、さらにそこから私の別の感情が立ち現われ、それらが組み合わされて私というものが立ち現われてくるのではないか? それらもまた、ここでいう大きなものの部分部分であるといえるでしょう。

また、私たちが持っている知識のすべても、正しいものも正しくないものも、ひっくるめて、それらがこの世にある、というとらえ方をすれば、それらも、大きなものの一部分である、となります。百科事典に載っている事柄、地理、歴史、あらゆる学問知識、図書館や博物館や官庁に保管されている知識と情報、インターネットの中にある世界中のあらゆる情報、すべてここでいう大きなものの一部分ということになる。人間が理解し得るあらゆる概念、知識は(正しいものも正しくないものも)すべてそれに含まれる、となります。

さらに、人々が物の価値というものを知っているということから、世界中の物事の価値というものがあります。それらもまた、すべてを含む大きなものの一部分でしょう。カレーライスの価値とか、金閣寺の価値とか、銀座鳩居堂前の土地の価値とか、人の命の価値とか、それらもこの世に存在する物と考えれば、この大きなものの一部といえます。会社の株価とか、ドルや円の価値とか、いろいろな経済価値などもそれぞれそれなりに存在している、と考えれば、それも大きなものの一部です。

さらに、私たちが知っている言語、日本語とか、英語とか、そういうものも存在するといえる。地球上に数千種くらいあるといわれる古今東西の人間の言語のほとんどを私は知らないけれども、それらの言語のおかげでたぶん私も何らかの影響を受けているということを考えれば、それらもそれなりに存在している、と言うべきでしょう。それらの言語で書かれた文章も同じような意味合いで存在しているといってよい。古代サンスクリット語で書かれていた古代インドのリグヴェーダとか、古代中国語で書かれていた孔子の論語とか、村上春樹の1Q84とかは、本という物質としても存在しているが、同時にテキストとしても存在している。さらにその文学的内容も存在している、といえる。また実数や虚数など数学的なシステムも、抽象的な存在ではあるが、間違いなく存在している、といえる。足し算、掛け算、算数や位相幾何学は存在している。いろいろな文字や記号は存在している。コンピューター言語もプログラムも存在している。歌や踊りや演劇や音楽は存在している。野球やサッカーや将棋やパチンコなどゲームは存在している。法律や契約も存在している。人々の間の暗黙の貸し借りや義理人情や人気度や風評なども、あいまいさはあるが、それなりに重要なものとして存在している、とすべきでしょう。それらはそれを使いこなす人々とともに存在している。人々がそれを使いこなすことによって存在している、といえます。そういうものたちは、すべてここでいっている大きなものの一部分です。

また、ごく少人数のプロフェッショナルだけが身につけているむずかしいスキルや知識体系も私たちがその存在を知っていたり、それから影響を受けていたりすれば、それは存在するといえるので、もちろん大きなものの一部になります。たとえば、心臓手術の手法だとか、ジェット旅客機の操縦法だとか、パソコンの設計だとか、アニメの作り方だとか、癌特効薬の分子設計だとか、関数解析だとか、中央銀行の為替介入だとか、水爆の作りかただとか、宇宙年齢の計算法だとか、オーケストラの指揮だとか、スケートの四回転ジャンプだとか、です。

思いつくままにだらだらと、脈絡もなく分類もせずに書き連ねてみました。まあこのくらい書けば、大きなものに関するイメージができてくるでしょう? すべてを含む大きなものの内容ですから、まじめに書いて行けばいつまで書いても終わりません。さらに書き出したそれぞれの物事についても具体的に例を挙げていけばいくらでも挙げられる。こういう具合でよければ、どこまでも書き続けることができます。しかしながら読者はもちろんでしょうが筆者も、だんだん退屈してきますね。結局いくらこういう部分的な話を書き出しても、大きなものの全体はさっぱり分かりません。

いくら語り続けても終わらない。終わらないどころかますます分からなくなりそうです。大きなものの話をするということは、しょせん不可能なことなのです。もしだれかがそれを分かりやすく語れるとしたら、それは間違いを語っているからです。それは分かっていますが、それでも拙稿が大きなものの話を続けているのは、私たちがそれがあると思っているからです。何もかもを含んでしまう大きなものがある、と私たちが思っている、ということが拙稿本章のテーマである存在の謎に重要なヒントになると思われるからです。

客観的現実世界、物質、私の身体、そして私が感じるもの、私の直感、私の意識、そういうものたちをすべて含んでいる大きなものがある。さらにそれに含まれているのか含まれていないのかよく分からないような、私が思っている私というものがある。これらの存在は互いに矛盾する。たとえば客観的世界が存在するとすれば私が感じるもの、私の直感、私の意識というものは存在できない(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。また客観的世界が存在するとすれば私が思っている私というものは存在できない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。これらの存在の矛盾から(拙稿の見解では)本章のテーマである存在の謎は立ち上がってくる。なぜならば、すべてを含む大きなものについて、あるいはその一部分である私について、あるいはまた別の一部分である客観的世界について、私たちはどう考えているのか、私たちはなぜそういうものがあると思うのか、それが(拙稿の見解では)、存在の謎を作っているからです。

すべてを含む大きなものは、形式的にいえば、私が感じるもののすべてです。まず、私が感じるもののすべて、というこの形式的な言い方を考えてみましょう。

すべてを含むもの、という表現形式が矛盾を感じさせるところがあります。すべてを含むものは自分自身をも含むのか、という疑問に似たような疑問を呼んでしまうところがある。私が感じるもののすべてを含むものは感じている私をも含むのか? 感じている私は感じられるものを含むのではないのか、という形式的な疑問が出てくるでしょう。つまり、感じるものすべてという場合、それは私のこの身体の内部でそれらを感じている、ということではないか? この身体の目や耳など感覚器官を通じて受信した情報を脳で感じとるということではないか? ふつうそう思えます。そうであるならば、私が感じるものは私の身体の内部にある。私の身体というものは世界の一部分だから、世界の一部分である私の身体が世界全体を含む大きなものを内部に含んでいるというのはおかしい、という反論が出そうです。

たしかに、客観的な物質としての私の身体は客観的世界の一部分です。ここにある目に見える私の身体は、私の他、どの人でも、はっきりと見ることができる。必要とあれば(だれも見たくないでしょうけれども)ヌードになってカメラで撮影して画像データとして記録することもできる。高精細MRIで体内のあらゆる断面を撮像することもできる。さらにいざとなれば、体内のどの細胞でも精細穿刺で採取してあらゆる分子構造を電子顕微鏡で調べることだってできる。それは私の身体が物質であり、客観的世界の一部分であるからには当然そうでしょう。

さてそれでは、私の身体を構成するすべての細胞の活動状態とさらにその内部の分子構造とエネルギー状態がデータとして記録されたとしましょう。だれもが、それを、私を観察して分かることのすべてだと思うでしょう。しかし私にとって私は、それだけではない。私の身体を観察すればだれでも知ることができるような物質現象だけではない。私が私だと感じるものはそれだけではない。私にとって私は、私だけが感じられて他のだれにも感じることができない私の内面を私に感じさせてくれる。

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