まず死んだ人のことはともかく、私たちは生きている人のことを何と思っているのか?生きている人は単なる木石ではない。これは明らかです。では、生きている人は単なる動物であるのか?これも、たぶん違う。生まれたばかりの赤ちゃんや植物状態の瀕死の重病人は、たぶん、ただの動物といってよいでしょう。しかししっかり覚醒している大人の人間は、言葉を話すところからして、もうただの動物とみなすことは無理でしょう。
人間は、ほかの動物と違って意識がある(拙稿9章「意識はなぜあるのか」)とか、心がある(拙稿8章「心はなぜあるのか」)とか私たちは言います。
生きている人間は心がある。魂がある。物質でできている身体の内側に物質ではない魂を持っている、という霊魂信仰があります。
動物のうちで人間だけは、身体の内側に物質とは違う自分というものを持っている(拙稿31章「身体の内側を語る」)。私たちは毎日の生活で、あるいは人々との会話で、こう思っています。あるいはこう思っているかのように会話をします。
つまり、私たちは、自分たち人間を物質だけの存在だとは思っていない。こう言うとたいていの人は、「それはそうだ、当たりまえだ、人間には精神がある。心がある」と言います。しかし少数の人は、主に科学者ですが、「この世に物質以外のものはないから人間も物質だけでできている」と言う。ふつうの人は、科学者の意見は何を言っているのかよく分からないので、無視します。
テレビや新聞に出てくる有識者は、「心は脳の働きなのですね」とか言うが、これも分かったようで何も分からない説明です。
生きている人間というものであっても、このように分かりにくいところがある。そのうえ死んだ人間となると、これはなにものであるのか、きちんと説明することは実はとてもむずかしい。死んだ人間は死体だから単なる物質でしょう、といってもそうは割り切れません(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。単なる物資であれば、なぜ死体を拝んだり葬ったりしなければならないのだろうか?
つまり死んだ人間というものも、実は生きている人間と同じくらい分かりにくいものなのです。そういう分かりにくい死んだ人間が化けて出てくる幽霊というものが、不気味でないはずはありません。
幽霊が怖いということは、結局、人間というものはよく分からなくて怖い、というところからくる感情でしょう。つまりだれであろうとも、人間というものは他人も自分もよく分からない、不気味なところがある、という思い、あるいは神秘感であるといえます。これは人類発祥以来、また幼児が大人になる過程で、他人を意識し自分を意識し、人の死を意識するたびに、必ず感じ取る神秘感です。