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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(6)

2008-07-19 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

人間は、興味を引かれる物事に注目する。物事に注目すると同時に、自動的に脳内の身体運動形成回路でそれに対応する仮想運動が実行される。目に入った物事に対応して必要な身体運動が、無意識のうちに準備される。逆に言えば、視線が引きつけられるなど、無意識にその物事に対応する仮想運動が起こることで、興味を感じる。

たとえば、矢印を見ると、私たちは無意識のうちに矢の方向に視線を向けてしまう。たとえば↓こうです。ね、矢印の図形を見ると、目玉が↓の方向へ運動するでしょう? これは、無意識の運動です。こうなると、矢印の先にあるものに興味が出てきてしまう。私たちの脳の神経回路は、こうなっている。こうなるようにできている身体が、原始生活では必要だった。矢印のように方向性のある物体を見たときは、その先に重要なものがあることが多い。それを無視するような身体は子孫を残せなかった。だから、私たちは矢印の先に目が走る。

私たちが物事に注目するとき、その物事に対応する仮想運動が、脳内で実行されることで、物事は感知される。物事が注目された場合、それが無生物か、生物か、人間か、どの領域に属する物事かによって、脳内の別々の無意識的認知機構で処理されて、その運動が予測されるという最近の仮説があります(二〇〇四年 ローラ・シュルツ、アリソン・ゴプニック『領域横断的な原因学習.)。この仮説によれば、四歳くらいの幼児はすでに領域ごとの原因結果の予測機構を持っていて、ママが消えたのは別の部屋に行ったからとか、ママが笑っているのはご機嫌がいいからとか、ママが咳き込んでいるのは具合が悪いからとか、分かるわけです。幼児は、ただ漠然と物事を見ているということはない。その物事に対して、自分がどう身体を動かしていけばよいか、を瞬時に判断して仮想運動を準備している。その仮想運動が、物事を注目するということであり、幼児にとっては、その仮想運動が、その物事が存在する、ということの意味です。

哺乳動物は、身体の周辺で起こる物事の動きを感知すると、その情報を分類して、次に起こることを予想できる。何がどうだからどうなるのか、そうしたらどうすればよい、などと予測する能力を持っている。人間以外の動物の場合、この働きは無意識でなされて、きちんと記憶されない。たいていは、数分先の予測しかしません。それにしても、爬虫類や鳥に比べれば、哺乳類の将来予測能力は格段に優れている。犬や猫などの動きを観察すると、何事かが起きたことを感知した場合、現時点のことをその場で理解して、次の瞬間に起こる事態に対応する能力はしっかりあるようです。

このような働きをする脳神経機構の出現は、たぶん、霊長類が出現した頃よりずっと古く、哺乳類に広く共通の仕組みとなっているらしい。比較的初期の哺乳類において、嗅覚を中心とした感覚信号を処理する脳幹、辺縁系、基底核と、それらにつながる小脳と大脳皮質からなる連携回路で作られた仕組みでしょう。それが霊長類共通の機構として視覚や眼球、手指の運動機構と共進化した。特に群棲の霊長類では、物事の感知と予測は群の集団運動に連動し運動共鳴による共感を起こす。たとえば、猛獣の出現に際して、猿の群れがいっせいに悲鳴を上げる場面、などです。

霊長類の脳のこの仕組みが人類の世界認識に進化していく過程については、とても興味深い。しかし残念ながら、その具体的な過程は、現在の科学では、よく分かっていません。

拙稿の見解にもとづけば、多くの霊長類では、この仕組みで、物事の認知と予測が集団運動の共鳴による脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーションとして経験され記憶されている。人類では、物事の認知と予測にかかわる共鳴運動は身体運動‐感覚受容シミュレーションを使った憑依を引き起こすことで、「XXが○○をする」という形式で認知される。さらに(拙稿の見解では)それら仮想運動が音節列との対応によって言語構造に埋め込まれることで、安定した客観的世界の経験を作り出すものと思われます。

人類では、脳のこの機構により、感覚で受け取るすべての物質現象は、それが引き起こす集団的運動共鳴の経験として分類され、同じとみなされたものは同じように擬人化され、それにふさわしい運動をするものとして、記憶される。(例―枯葉がひらひら散る) 逆に言えば、同じように運動するものが同じものとみなされ、同じ名で呼ばれるのです(例―ひらひら散るのは枯葉)。抽象概念もまた、(拙稿の見解では)比喩などを使って分類され、それぞれに擬人化された運動をする。これらの経験は、仲間との仮想運動共鳴の経験(例―枯葉がひらひら散ることは、だれもが知っている)として記憶されるところから、客観的な存在感を伴うことができ、言語形式に表現されることで客観的世界に定着される。

要約すれば、言語は、話し手と聞き手とが、指差しなどによって客観的な同じ物質現象に注目しながら、「XXが○○をする」という形を、憑依と共鳴運動を使う身体運動‐感覚受容シミュレーション表現として共有することで、生活に必要な協力を行うシステムです。これがさらに拡大されて、人間どうしは、(拙稿の見解では)物質現象に限らず、言葉を発すれば分かり合えるさまざまなXXという認知対象を共感して同時にそれに共鳴運動によって表わされる仮想運動「○○をする」を対応させる形式で言語として表現し、それによって世界で起こる物事を共有するようになった。

私たちのご先祖が、「XXが○○をする」という言語形式を発明してくれたおかげで、(拙稿の見解では)国語や英語の先生が仕事を持てるばかりでなく、現代の文化文明があり、社会経済があり、哲学があり、私たちの世間話がある。しかし、この言語形式は、原始時代のジャングル(あるいはサバンナ?)の中で精霊や悪霊に取り巻かれながら狩猟採集生活を送っていた人類のご先祖が発明し、自分たちが生き抜くために便利だったから子孫に伝わったものです。原始生活での自然環境と社会環境で、特に役に立ったから人類の宝として今に伝わってきた先祖伝来のありがたいアンティークな道具です。しかし、数万年以上も前に作られて、そのころの環境で最高に便利だったこの古い道具を、現代の私たちが、現代科学や哲学の問題を解くために使って大丈夫なのでしょうか? こういう疑問は、拙稿が思いつくまでもなく、百年以上も前に提起されています(一八七三年 ショーンシー・ライト自意識の進化)。

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