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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(5)

2008-07-12 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

「XXが○○をする」という形式の言語表現に対応して、(擬人化された)XXが、○○という運動をその(擬人化された)脳内で形成しているという仮想運動のシミュレーションが、私たちの脳内で起こる。(仮想運動→拙稿2章「言葉は錯覚からできている」)この自動的な神経活動は、群棲動物が群れの集団的な運動に共鳴して身体を追従させていく神経機構から進化したと(拙稿の見解では)思われる。

拙稿でいう仮想運動は、過去の運動経験で学習した身体運動とそれに伴う感覚受容との脳内シミュレーションを組み合わせて作られる。「走る」、「立つ」、「立てる」、「ふるえる」など筋肉を使う運動はもちろん、「見る」、「聞く」、「忘れる」、「憎む」、「眠る」、「病む」、「遅れる」、「負ける」など、筋肉を使わない感覚情報の受容や状況変化の認知なども、比喩を使った仮想運動のシミュレーションで表現される。つまり、(拙稿の見解では)あらゆる述語に対応する脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーションは仮想運動として行われる。逆に言えば、仮想運動による脳内シミュレーションがうまく作れて、多くの人がそれに共鳴できる場合に限って、述語が作られる。

たとえば(比喩による仮想運動形成の例を、ごく単純化して挙げれば)、「見る」という述語に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションは、仮想の眼球運動とそれによる仮想視覚のフィードバックによる比喩で作られる。同様に、「聞く」は、仮想の耳振り向け運動とそれによる聴覚のフィードバックによる比喩。「忘れる」は置き去り運動とそれによる存在感の喪失感覚による比喩。「憎む」は顔をしかめる運動とその体性感覚へのフィードバック、「眠る」は目つぶりや脱力とその体性感覚フィードバック、「病む」は仰臥など、「遅れる」は追尾運動など、「負ける」は防御運動などとそれによる仮想の体性感覚へのフィードバック。というように筋肉運動を使う仮想経験の比喩で表現される。もちろん、実際の脳内シミュレーションの構造は、この例のように一言でいえるような単純なものではないでしょう。ただ、その基本構造は、このような身体運動と感覚フィードバックの連結でできているものと思われます。この脳内シミュレーションの構造とその形成プロセスの具体的な解明は次世代の科学の課題でしょう。

人類の進化の過程で発生してきた言語システムが脳神経系のメカニズムとして解明される時代は、(拙稿の見解では)そう遠くない。物質現象として記憶が形成され再生されるメカニズムは、神経細胞間結合の分子構造変化として、現在、詳細に解明されつつあります。ただし、実際の言語システムは、神経細胞間結合から組み上げられる神経回路網の上に、さらに何層もの上位システムが組み上げられてできている。

身体運動と言語を通じて、これら各層の神経システムを仲間の身体運動と共鳴させることで、私たち人類は言語システムを操作し仲間と世界を共有する(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。これら言語システムの階層構造全体の解明には、まだまだ多くの発見と理論の構築が必要です。

さて、現代の言語では、抽象的な述語が多く使われる。たとえば、「発表する」、「増加する」、「決定する」、「参加する」、「酸化する」。しかしそれらも、もともとは、人間の身体運動の比喩によって作られている。たとえば、(極端に単純化してみれば)「発表する」は、人々に見せる運動、「増加する」は、同一運動が繰り返されること、「決定する」は、ふらついている運動を止めて停止すること、「参加する」は、仲間の運動に同調すること、「酸化する」は、酸化という科学で決められた形の物質変化を起こす運動、によって比喩される。

聞き手が文を聞き分けると、(拙稿の見解では)文と対応する仮想運動のシミュレーションが、無意識のうちに、脳内で実行され記憶される。文は忘れてしまうが、仮想運動シミュレーションは、記憶としてきちんと保存される。つまり文そのものではなくて、文の内容が、身体運動‐感覚受容シミュレーションの表現形式で脳内に記憶される。そして、それはいつでも再生できる状態に保たれる。そのとき、言語の内容が分かる、という。

日本語が分かる人の間では、一つの日本語の文はだれの脳にもだいたい同じような身体運動‐感覚受容シミュレーションを引き起こす、と思われる。このことの科学的な実証は、残念ながらできていません。脳内シミュレーションを見分けるには、現在の脳神経科学の測定技術では、まったく精度が不足する。理論も完成していない。したがって、この判定には外的な身体反応を観察するしかない。文を聞いたときの、言語的返答、抑揚、間の空き方、表情、その後の行動などで判定するしかありません。それでも、このことは推測できる。つまり、文を聞いたとき、だれもが、無意識のうちに、同じようなその仮想運動シミュレーションを脳の中で実行する。「雨が降りそうだ」と聞けば、傘を持って出る。言葉が分かるということはそういうことです。

身体運動‐感覚受容シミュレーションが、言葉の感知によって活性化されると、仮想的な感覚の経験が付随して引き起こされる。それによって(拙稿の見解では)言語を理解する人間は、主語で表現される(擬人化された)人物等のモデルが述語によって表現される運動をすることによって得られるはずの経験を、自分の運動回路を使うシミュレーションを自動的に実行することで疑似体験する。つまり、この疑似体験によって、私たちは言語を理解する。

この疑似体験は、もともと、群棲霊長類が、仲間の行動を、追従する、身体を動かして実際に真似る、という運動共鳴行動(まさに猿真似)から発展したのでしょう。仲間の身体運動を見て自分の身体を連動させてなぞる行動が進化して、脳内で自分の身体を動かす仮想的な身体運動‐感覚受容の経験としてそれをなぞるシミュレーション機構が発展した。

幼児や未開人は物真似、憑依、集団遊戯、歌、踊りなど共鳴動作が大好きです。人類は、たぶん、言語以前から集団運動によって、シミュレーション機構を共鳴させていた。そこにたまたま、発声運動が関与するようになり、「音節列→シミュレーションの共鳴」という条件反射が成立して、なぞり運動のシミュレーションが同時に音声を発声する運動と連動するようになったのではないでしょうか? 踊っているうちに掛け声を掛け合うようなものでしょう。脳内でのそれらの仮想運動シミュレーションと発声運動との条件反射による連結、さらに視覚聴覚を通じての仲間の人間とのそのシミュレーションの共鳴、を土台にして言語はできてきた。

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