あとがき
二十一世紀が始まって数年したころ筆者は還暦を迎えました。何を感じたのか、何かささやかな新しい習慣を始めたいという気分になったのでしょう。生まれて初めてゴルフクラブを握って練習場で振ってみました。それは意外と続いて今まで月一回くらいの頻度でラウンドする仲間に恵まれています。
ブログも始めてみました。もちろん初めてでしたが、これも無事習慣化できて、この拙稿になっています。ブログといっても、日記風のものを書くことは好きでもないし続けられるはずがないので、その一年ほど前の数か月の入院生活中に書き溜めたエッセイ風の文章を少しずつアップロードしてみました。それを第1章と称して進めていくと、書き溜めた分が毎日減っていくので不安になり、まじめに書き足して章を繋いでいったところ、今日に至り、長々となってしまったものが拙稿です。
カニは甲羅に似せて穴を掘る。身に余る大穴を掘るカニがいたとしても、穴ごと波に消し去られてしまうだけでしょう。掘るべき人が掘った穴以外は、すぐに消し去らなければ砂浜が穴だらけになって困ります。
しかし現役を引退する年齢にもなり、同時にたまたま長患いをして数ヶ月にわたる入院をした頃から、そろそろいいかな、と思うようになりました。若いころ、年寄りが墓参りに熱心なのを見て笑ったものです。人生の終わりを感じると、人間は帰るべきところを探すようになるのでしょうか。病床の脇机にパソコンを横向けにして、ポツポツと打ちはじめたものが拙稿の下書きです。風呂に入れず、毎日、ベッドの上で妻に身体を拭いてもらいながら、人生の幸福について考え、感じるところを書きはじめました。人生と科学の関係については、若い頃から興味はありましたし、現代に生きてきた以上、直接、あるいは間接的に、現代哲学や現代科学の長年にわたるユーザーではあるわけなので、それなりの意見を述べてみたいところもあります。
隠居ともいえる身になれば、興味のままに、どの話にでも好き勝手に入り込み、青春に戻って無邪気に大それた言葉を語ってみても、人生の余興として許されるのではないか、という気にもなってきました。
最近、老眼が進んで、細かいものがよく見えなくなったからでしょう。人生も哲学も科学も、単純な輪郭だけが、かなりはっきり見えるような気分になってきました。
近い将来、旧来の哲学が霧消したあと、まったく新しい哲学と科学が、同時に再発生するのではないでしょうか。かつてニュートンの時代、科学は哲学から派生しましたが、今度は、むしろ最先端の科学から、まったく新しい哲学が派生する。そしてそれは科学と一体化したまま、哲学の科学とでもいうか、あるいは単に基礎科学とでもいうのか、そういう方向へ行くのではないか、という予想を持つようになりました。
そしてそれはたぶん、高尚な学問からというよりも、私たちが日常感じている、科学の存在感と個人の生活感覚とのギャップのあたりからヒントが見つかってくるのではないか、と思ったわけです。昨今の書籍にも、拙稿の狙ったそういう予想を上手に語った話を読んだことがありませんでしたから、気楽な身を利用して、その面白そうな所にチャレンジしてみようかな、という遊び心もありました。
○○はなぜあるのか? 存在論といわれる哲学のテーマであり、また「なぜ人間はそれがあると思うのか」あるいは「それがあると思うということはどういうことなのか」と問えば、認識論でもある。認識論は現代の認知科学につながり、また脳の進化論につながる。また、拙稿の見解によれば、脳神経活動の集団的共鳴による存在感の進化でもある。ここで弁証法を使えば、この人類特有の存在感覚、これがすなわち、メタな論法としての存在論にもなるといえる。この思考法を、さまざまの存在にあてはめて考えてみる、という遊びに、延々とはまり込んだわけです。
学問の実績を主張する論文ではありませんので、既存の諸学説との連関を述べることは省略し、筆者の独創ないし独断と偏見だけを思いつくままに書き下したという形をとりました。けだし独創と思い込んでいるのは本人だけで、所詮、凡庸な老脳にミューズが舞い降りるわけもなく、古今東西の先哲の著作から無意識のうちに影響を受けてできあがった発想の羅列にすぎないでしょう。もともと独創を主張するつもりで書いたものでもなく、哲学の伝統に繋がる何らかの位置を主張するつもりもまったくありません。ただ折に触れ、自ら思いついたように感じられた風変りな発想を、徒然なるままに書き下すことが楽しかったというだけです。
ブログ原稿が適当に溜まったところで表題をつけて紙の本にしています。自宅本棚の最上部に並べておくとナルシスト気分で背表紙をながめることができますが、まずめったに見ませんね。
ⓒ Tsutomu Iwata 2007-2017