哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(13)

2008-09-06 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

さて、言語が私たちの間で共有される仕組みは、具体的にどのようなものなのか? 少し詳しく調べて見ましょう。

工学的に見た場合、人間の言語活動は、一種の情報伝達システムです。しかし、データ通信のように文字や数字自体を伝達するのではなくて、視覚と聴覚を通じて運動形成プロセスを、人から人へ伝播する。そうすることで、言語は、私たちにとって重要な情報の意味内容を圧縮して効率よく伝達できる。

目の前に馬がいないとき、馬という言葉が通じない外国人に、馬のことを伝えるにはどうすればよいか? 紙と鉛筆を準備して、上手に馬の絵を描けば、通じるでしょう。しかし、時間がかかる。それよりは、ジェスチャーで、手綱を握って馬にまたがって走る動作を見せれば、手っ取り早い。

そもそも、言葉を使わなくても、人間は、視覚聴覚で、他の人間の動作を観察することで、その動作を作り出すその人の内部状態を感知する。この現象を、二人の人間の間で内部の運動形成プロセスが伝播する、とみなすことができる。まず、その伝播の仕組みを詳しく見てみましょう。

二人の人間を考えて、A、B、と名をつける。Aの内部の運動形成回路がある運動信号を形成する、とする。その信号はAの神経細胞の電位変化パルスとなって運動神経経路に沿って遠心的に伝播し、目標筋肉の電位を変化させることで筋細胞の分子を収縮させて身体の変形や移動を起こす。Bは、Aの身体の変形と移動、その表情や視線の変化、あるいは手足指の屈伸、など身体の外形変化を見たりそれが発する音を聞いたりする。

Bは、Aの運動によりBの視覚、聴覚に発生して求心的に伝播する感覚信号を情報処理して、(拙稿の見解では)過去に学習した身体運動‐感覚受容シミュレーションを自動的に想起し、自分の運動形成回路を無意識のうちにそれに共鳴させる。その結果、Bの内部に、Aが実行した運動形成プロセスを真似てなぞったように組み立てられた身体運動‐感覚受容シミュレーションによる仮想運動の信号が発生する。この仮想運動は、Aが実行した運動形成プロセスのコピーといえるが、正確な複製ではない。相当量の情報は失われていて、その代わりに多くの雑音が加わっている。それでも、実用上、役に立つ程度のイメージとしては伝わっていく。

この仮想運動は、(拙稿の見解では)、脳内の神経活動だけで完結する場合は少なくて、身体全体の機構を巻き込む。つまり、シミュレーション形成を引き金として脳と身体末端との間で信号のやり取りが始まる。さらには、身体が接触する外部環境、たとえば、地面、建物など構造物、道具、風景、他人の姿、動作、音声、画像、文字、などなど、と情報をやり取りする。

脳におけるこれら仮想運動の形成は、自律神経系と身体運動系の神経活動による微弱な筋肉緊張(たとえば、手に汗を握るとか、むかつくとか、つばを飲み込むとか、鼻の穴を広げるとか、眉間にしわを寄せるとか、目が笑うとか、貧乏ゆすりをするとか)を引き起こすことで体性感覚にフィードバックされる結果、感情機構を駆動する。

自分の身体が反応することによる体性感覚の変化によって、BはAの運動形成過程の存在感を感知する。同時にBは、Aが不安、あるいは安心、あるいは、快、不快などを感じていることを感知する。Bの内部で、感情機構の反応はさらに、次の仮想運動シミュレーションを呼び出して次の感情反応を引き起こす。仮想運動と感情とのこのサイクルは回り続ける。このような神経活動により、Bの脳は、Aの脳がした活動を引きついで、それを擬似的に再生して経験する、といえる。

この現象は、AがBの運動の外見を、視覚聴覚で観察することで脳神経状態を表す情報がAの脳からBの脳に伝播した、とみなすことができる。実際は正確な運動のコピーは作れず、多くの錯誤も含んで変形したシミュレーション信号が作られるのですが、これを一応、運動信号の(仮想的な)伝播といってよいでしょう。私たちが、目と耳で見えて聞こえる相手の身体の変形と運動を知覚することだけで、この伝播は行われる。

たとえば、Aが腕を組むと、それを見ているBの頭の中で自分が腕を組む身体運動‐感覚受容シミュレーションが作られる、というような例です。Bの脳内には、このとき、腕を組むという仮想運動の形成に伴う体性感覚や自律神経系の反射を通じて感情機構の反応が発生する。この仕組みで、Bは、腕を組んだAの気分が理解できる。たとえば、Aが腕を組んで頭をそらした姿勢をとるのを見たBは、直感で「Aは、私に不信感を持っているらしい」と感じる。

ここまでは言語を使わない運動の伝播機構ですが、(拙稿の見解では)人間は言語を使う場合でも基本的にはこの機構を使っている。話し手の脳内で、言語は、その内容に対応する仮想運動(仮想の身体運動、憑依運動、注目運動など)の形成回路を使って形成される。聞き手の脳内で感知された言語は、自動的に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションを呼び出す。そのシミュレーションが、仮想の憑依運動や注目運動などを呼び出す。こうして、言葉に対応する仮想運動が話し手から聞き手へ伝播する。

人間Aが、実際には腕を組んでいない場合に、言葉を使って「腕を組みたい」と言うと、それを聞いた人間Bは自分の腕を組みたくなる、という例です。Aの脳内の仮想運動形成→言語形成→発音→Bの言語聴取→Bの脳内の運動形成→仮想運動→体性感覚フィードバック→感情機構、というルートで運動形成活動が他人に伝播する。話し手が「腕を組みたい」と言葉でいうと、聞き手の脳内で、言葉に対応した特定の(この場合、腕組運動の)身体運動‐感覚受容シミュレーションが呼び出されて、聞き手が腕を組みたい気分になる。歌を聞くと身体が踊りだしてしまうのと同じです。つまり、よくいわれるように、言語の意味を身体で理解する、ということです。

人類の言語現象について、安易に通信理論のアナロジーを使うと、本質を見誤る危険がある。気をつけなければならない点は、聞き手の脳内で言語が理解される過程です。これは通信理論でいうデコーディング(再生、解凍、暗号解読など)にあたるが、原型の情報が正確に復元されるデジタル通信のような可逆過程ではない。話し手が言葉を組み上げるきっかけとして作られた(原型の)仮想運動がそのまま聞き手の中で再生されことはない。

言語現象では、擬人化というフィルターを通った物事だけが伝えられていく。つまり、話し手の脳内に起こった仮想運動が、(拙稿の見解では)共鳴運動を引き起こして擬人化による物事への注目が起こる場合にだけ、その共鳴運動は言語化される。この場合、擬人化された物事は主語を引き起こし、その共鳴運動が述語を引き起こす。

こうして、主語述語の形式で物事の動きとその内的感情の集団的共鳴を表現する(擬人化による)仮想運動が、聞き手の脳内に新たに作り出される。主語述語の形式で聞き手に伝えられる言語表現は、聞き手の脳内で、物事のシミュレーションとその内的感情の仮想共鳴運動に変換される。聞き手の脳内で形成されるこの仮想運動は、集団共鳴による強い存在感を伴うので、はっきり意識に残り長期的に記憶される。

同時に、話し手も自分が発声した言葉の聞き手になるので、言葉を形成する仮想運動は、同様に話し手の意識にも残り記憶される。物事は口に出すことではっきりする、あるいは、明確な思考は言語でなされる、という私たちの経験は、(拙稿の見解では)ここから来ている。

このような過程を経て言葉は話されるので、はじめに話し手が言葉を組み立てる前に形成していた仮想運動は、言語という型にはめ込まれることで、制約された共鳴運動の組み合わせに変換されている。言葉が発声された後では、話し手も聞き手も、言語化された集団的共鳴運動を意識し記憶する。言語化以前に話し手が形成した原型の仮想運動は記憶されにくく、言語化された後の共鳴運動は記憶されやすい。

物事は口に出すことではっきりするが、そのとき、口に出せない部分は欠落していく。言語化される前に私たちが漠然と感じている、いわゆる形容しがたい感覚あるいは感情(原型の仮想運動)は、言葉を口にすることで消え去っていく。

正確な言葉には主語がついてきます。「くみちゃんが腕を組みたい」という言葉を聞くと、聞き手の脳内には、くみちゃんという人物に注目し憑依する仮想運動シミュレーションが呼び出される。話し手が注目しているものに聞き手の注意を導く役割の言葉が主語ですね。話し手は、指差しや顔向けや視線による指示によって、一緒に注目したい物事へ聞き手の注意を誘導する。そのとき、しばしば話し手は、同時に声を発して指示を強調する。こういう場合、物事のカテゴリーを音声で言い分けると、指示に便利です。このために、名詞が作られてきた。名詞の使い方が皆に共有されると、目の前にそのものがなくても、分るようになる。聞き手は、くみちゃんとはあの子のことか、と分る。

こうして言葉を使うときは、話し手はまず「XXが(くみちゃんが)」と名詞を叫んで、聞き手の注意を促す。これが主語としての名詞の使い方です。「XXに注目せよ(くみちゃんに注目せよ)」、あるいは「これから話し手の私はXX(くみちゃん)に憑依して述語を述べるから、聞き手のあなたはその述語に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションができるように準備せよ」という意味です。

次に「○○する(腕を組みたい)」という述語が来る。これは運動を表す。(拙稿の見解では)話し手は、群の集団運動と共鳴する脳の神経回路を働かせて、それに連結した音節列として述語を発声する。聞き手がこれを聞くと、集団運動に共鳴する運動形成神経系が活性化されて、無意識のうちに共鳴運動が起こる。つまり聞き手の中で、話し手が使っているのと同じ群行動を追従する場合に使う集団運動形成回路が自動的に活動する。こうして述語が伝わる。それから瞬時に主語と連携して文を作る。

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私はなぜ言葉が分かるのか(12)

2008-08-30 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

ちなみに、数を操作する基本的な能力は人類だけでなく、霊長類に広く共有されているらしい(二〇〇七年 ジェシカ・カントロン、エリザベス・ブランノン『猿と大学生の基礎数学』、二〇〇七年 イルカ・ディースター、アンドレアス・ニーダー『前頭前野皮質における記号と数的カテゴリーの意味的連想』)。そうだとすれば、現代数学が空理空論であるとしても、その基礎をなす数的構造の認知機能は、猿の脳神経構造に作りこまれていることになる。つまり、猿と人類、そしてその共通の祖先は、数を使いこなすことによって生活環境にうまく適応してきたらしい。抽象的な数学は、現代人の生活にとって必要なばかりでなく、私たちの遠い祖先の生活にも、また猿としての生活にも、必要不可欠な実用的なものなのでしょう。その意味で、数学にもとづいた現代科学は、新聞などでよく唱えられるように、人間の身体感覚からまったく離れた異質で非人間的な発明品である、というほどではない。科学は、もともと私たち人類の身体感覚の延長として作られたが、かなり遠くのほうへ延長できてしまったゆえに、身体で直接感じられなくなってきている、ということでしょう。

数学で書かれた自然法則によって、物質の変化を予測する。現代科学の予測能力は、あらゆる場面で働く。強力な技術力です。人間の身体から遠く離れて、遠い惑星の表面でも、原子炉の中でも、スーパーコンピュータの中でも、現代科学は物質を操作する。まさにユニバーサルな原理です。これほど力がある現代科学は、それを生んだ人間の直感よりも、ずっと本物の現実を表しているように見える。

物質世界の現実は、私たちの感情と無関係に存在すると感じられる科学の法則に支配される。数学方程式に従って動く電子やイオンやプラズマの世界です。物質を構成しているこれらの粒子は小さすぎて目に見えない。言葉や図で説明されても、直感で分りにくい。正確に理解するには、数学で表現された物理学を使わなければなりません。それにもかかわらず、科学の現実は、現代人の私たちには、圧倒的な存在感を持っている。

私たちの日常生活に不可欠な、携帯電話やテレビや冷蔵庫や抗生物質は、科学によって与えられています。一方、その現代科学を正確に表現するには、日常の言葉ではきちんと語れず、抽象理論を使い、難解な数学を使わなければ語れない。このことから現代では、現実そのものであるはずの物質世界が、専門家以外の人々にとって、ますます身体で感じにくいものとなっていく(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。

このあたりの違和感が、現代科学が支配する現実世界に生きる私たち現代人が感じる自分自身の居心地の悪さ(次章で考察の予定)につながっているのではないでしょうか?

自然科学というものは、きちんとした理系の訓練を受けた人々だけができる特殊なスポーツです。正しいレッスンを受けないと正しいゴルフはできない。体感が優れている人ほど、自己流では、間違ったゴルフをする。正しいレッスンでは、自然の体感に反したパラドクシカルな運動神経の使い方を教え込まれる。それを身につけなければ、ゆがんだ空間でのスイングなどはできません。

自然科学では、私たちが自然に身につけた(拙稿の用語法で言うところの擬人化を使う)思考法をしてはいけない。つまり、パラドクシカルですが、自然科学では(自然発生した日本語や英語など)自然言語を使ってはいけない。直感に従って、擬人化を使って作られている自然言語を、素直に使ってはいけない。それをすると、昔々の(アリストテレスの自然哲学などの)古代科学や昨今流行の偽科学になってしまいます。現代科学では、擬人化にもとづいた自然言語の代わりに、素人の直感では分りにくい数学表現、たとえばベクトル空間、テンソル表現、微分方程式、統計理論、ゲーム理論などを使う。山や川や花や鳥を自然というならば、超巨大加速器でしか実現できない亜光速衝突を、スーパーコンピュータで超多次元微分方程式としてシミュレーションする自然科学は、あまり自然という感じはしませんね。

現代科学は、精緻に設計製造された高価な実験装置や観測装置を使いこなし、数学とコンピュータを駆使したデータ処理を行わなければできない。このように自然でない装置や操作に頼って行わなければならない仕事であるからには、(拙稿の見解では)自然科学という名称はあらためて、不自然科学と呼ぶべきです。では、人文社会科学は? それらの学問は、たしかに人間的で文化的ですが、まさに言語を使いこなし擬人化システムを使いこなして理論を分化させる仕事ですから、擬人分化学と呼ぶべきでしょう。

不自然科学vs.擬人分化学。哲学はどちらかに入るのか、どちらにも入らないのか。不自然で良いのか? 擬人で良いのか? 拙稿は、それが哲学の大問題だ、と言いたいわけです。

閑話休題、不自然科学の話はさておき、言語の作られ方について、ここまでの話を、もう一度、具体的に書き下して、整理してみましょう。

私たちが物事を感じると、それに反応して身体が変化します。身体が変化するということは、(脳や抹消の)神経細胞の活動のほかに、心臓血管系、内臓平滑筋、内分泌、外分泌など目に見えない変化、そして表情や動作や姿勢や発声など外側から見てわかる外形変化、が起こることです。人間の集団では、私たちはいつも、たがいに仲間の姿を注視していますから、お互いの身体の外形が変化すると、瞬時に感知する。人間から音声が出ると、すぐ聞き取れる。それで、お互いに、何をしているか分る。その人が、何を注視して、何を対象として動作しようとしているのかが分る。その人の気持ちに乗り移る憑依が起こる。気持ちが通じ合う共感が起こる。私たちは、表情や動作や発声などお互いの外形変化を見聞きすることで、共感を確かめ合うことができる。互いにつられて同じ動き(共鳴運動)をしてしまう。実際にしないまでも、同じ動きを(仮想運動として)しそうになる。そのとき、(拙稿の見解では)私たちの脳内に引き起こされる集団的共鳴運動の経験が、身体運動‐感覚受容シミュレーションとしてお互いの脳に記憶される。

こうして仲間の人間集団の中で繰り返して同じ共鳴運動が起こることで、(拙稿の見解では)その物事は客観的な現実として認識される。実際には、自分ひとりで物事を感じ取る場合も、まったく同じ仕組みが働いている。つまり私たちは、脳内で無意識のうちに、別の人間(仲間)の目でその物事を見ることで(仮想の)集団的共鳴運動を形成し、その体感から、その物事を意識的に、現実として感じ取る。逆に言えば、(実体あるいは仮想の)集団的共鳴運動の対象として共感できない物事は、私たちには客観的な現実とは感じられず、記憶もされない。

私たちが、感じるもののうちの一部分だけが(拙稿の見解では)仲間どうしで共感され、このような集団的共鳴を引きこして(意識的に)現実の物事として認知される。さらに、そのうちの、特に繰り返し共感される一部分だけが言語化される。このことが、言語で表現できる物事の限界を決めている。

一つの文化共同体の人々(民族など)は、(拙稿の見解では)集団的共鳴運動として共感できる一そろいの物事の集合、つまり身体運動‐感覚受容シミュレーションの体系、を集団的に記憶している。人々は、集団内で(頻繁に)共鳴運動を繰り返すことによって、その経験を安定的に共有する。皆一緒に笑ったり、歌ったり、踊ったりする。カラオケなどその典型です。それで、お互いに同じ物事を同じように感じられる、と感じる。その物事に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションが共有される。その共有シミュレーションを音声で表わして安定的に共有することが生活に便利な場合、それは言語になる。

その場合、注目する物事の共有シミュレーションを主語(XX)で表わす。つぎに、擬人化されたその物事の動きを駆動すると感じられる欲望、意欲、意志、意図、の共有シミュレーションを述語(○○)で表わす。これらをつなげて、「XXが○○をする」という言語形式で表現する。こうして、言語は、物事の変化を表現する。どの国のどの言葉も、そうなっています。

XXも○○も、それが表現する物事に関して人々が集団で共鳴運動を繰り返す場合に、言葉になる。原初的な言葉の作られ方は、たぶん、実際に仲間の動きに追従して自分の身体を動かす直接的な共鳴運動から始まったのでしょう。目の前の物質現象を指しながら、人々が互いに身体を動かして共鳴運動をすることで、物質現象に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションを共有することができる。それを発声に対応させて、言葉が作られる。

次の段階では、目の前に見えない遠くの物質現象、あるいは過去や未来の物質現象を表現する仮想の共鳴運動が作られるようになる。これは、仮想運動ができるようになるからです。この場合、ジェスチャーなどでもいくらかはできますが、言葉を使うと飛躍的に便利になる。こうなると、共鳴運動に対応する言葉を発声することで、実際に身体を動かさずに脳内で身体運動‐感覚受容シミュレーションの想起、連想、連鎖などの操作ができるようになる。こうして、言語は、目の前の物質現象から離れて、自由に想像の世界を表現できるようになった。

はじめは目の前の物質現象だけを表わしていた言語は、仮想運動を駆使することで遠くの物質現象を表現できるようになり、さらに発展して、人間どうしが共感できる想像や空想や錯覚や感情や抽象概念なども、表現するようになる。言語技術はさらに発展し、物質現象の比喩や生成的な構文音韻構成などを利用して、ますます自由に、複雑な共有シミュレーションを作り出し、新しい存在感を作り出して、仲間と共有することができるようになっていった。それらは、文化共同体の目に見えない共有財産となり世代間を引き継がれていく。結局、人間は、文化共同体の内部で、仲間とともに感じたり、想像したり、空想したりすることができる膨大な数の物事を、不自由なく言語で表現するようになる。そうなると、ついには、言語で表現できるものが世界のすべてだ、と思い込むようになる。

こういうものが(拙稿の見解では現状の)人類の言語(自然言語)です。

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私はなぜ言葉が分かるのか(11)

2008-08-23 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

リンゴが下に落ちようとするその仮想運動とそれに伴うリンゴの存在感、それが話し手と聞き手の間で共有されていることを確認するために、述語「そこにある(存在動詞と呼んで特別扱いをする文法理論もあるが、拙稿ではふつうの述語と考える)」を主語「リンゴが」につなげて「リンゴが、そこにある」と言う。

話し手は、聞き手に、この身体運動‐感覚受容シミュレーション(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動とその体感)が共有されていることを確認するために音節列(「リンゴが、そこにある」)を発声する。この音節列が発音されるとき、話し手の表情、視線などの運動を見ると、聞き手は自分がそれ(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動と体感)を感じているような気になる。二人の身体がいっしょに同じ仮想運動をしている。人体どうしが共鳴する。実際は、脳の運動形成過程の共鳴です。そのとき、音節列(「リンゴが、そこにある」)、つまり「XXが○○をする」という言語形式は、聞き手と話し手を共通の運動共鳴でつなぐ。つまり言葉として働く。

ちなみに、リンゴが下に落ちていくのを見て、リンゴが下に落ちていく、と思わなかった人が天才ニュートンだ、ということになっています。私たちふつうの人間は、リンゴが落ちていくのを見て、リンゴが落ちていく、と思う。私たちは、(ちらっとですが)自分がリンゴになって下に落ちていく気持ちになりながら、リンゴの落下運動をながめる。私たちは、月が空に浮かんでいるのを見て、月が浮かんでいる、と思う。そのとき(ちらっとではあるが)、自分が月になって空に浮かんでいる気持ちになりながら、空に浮かんでいる月をながめる。

ニュートンは(たぶん、ちらっとも)そうは思わなかった。リンゴが落ちるのを見て、自分の身体でリンゴの落下運動をなぞらなかった。月が浮かんでいるのを見て、自分の身体で月の浮遊運動をなぞらなかった。だから、ニュートンは天才だった。

地球とリンゴの間には万有引力(重力)が働くことによって、リンゴは地球に向かって加速されていく。地球と月の間にもまったく同じ法則が働くことによって、月は地球に向かって加速される。その法則を運動方程式で書いて(境界条件を与えて)積分すれば、まったく同じ計算方法で、リンゴの運動も、月の運動も、正確に求められる。

ニュートンによれば、すべての物質はその運動方程式の積分計算で予測されるとおり動く(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)。一般相対性理論ではこれを拡張して、重力を、アインシュタインの場の方程式が定義する空間のゆがみに埋め込んで表現する。これが科学の見方です。実際、リンゴや月は、科学の法則どおり、これら方程式で予測された軌道に沿って正確に動きます。

現代人はこのことに何の疑いも持たない。しかし実際、目の前にリンゴの落下を目撃するとき、私たちは、直感では、こう思わない。

リンゴは下に落ちるものだから下に落ちる、リンゴは自然に下に落ちようとする気持ち(のようなもの)を持っているから落ちていく、と私たちは素直に思う。つまり、私たちは、リンゴを含めて世の中のあらゆる物事はその内部に何か感情、意欲、意志、意図のような内的要因を持っていてそれに駆動されて動く、と思っている。そう思わなければ、「リンゴが落ちる」という言葉の形は、思い浮かびません。

リンゴが落ちるのを見て、リンゴは落ちようとするから落ちる、と私たちは思う。月が浮かんでいるのを見て、月は落ちようとしないで浮かんでいようとするから浮かんでいる、と思う。(科学者でないふつうの人は)宇宙ステーションの中にリンゴが浮かんでいるのを見て、宇宙では、リンゴは落ちようとしないで浮かんでいようとするものだから、浮かんでいる、と思う。

私たちは、(拙稿の見解では)物事を見るとき、それがそう動いてそうなっている事を見ると、無意識のうちに身体がそれに共鳴してその運動をなぞる。仲間集団の動きに追従する自分の身体のその仮想運動を、私たちは自分の体感で捉える。そうすることで、すべての物事は、それがそう動くためにその内部に内的な駆動力を持っていると感じられる。その内的な駆動力を、私たちは自分の身体が共鳴する体感で納得している。その体感から、それが現実だ、と直感で感じる。逆に言えば、こうして私たちは、目の前の現実を捉える。私たちの身体はそうできている。そういう身体の仕組みの上に、私たちの現実があり、その上に言語は作られています。

人類の言語は、「XXが○○をする」という形式を持っている。このことは、(拙稿の見解では)私たちが物事を見るとき「XXが○○をしようとして、する」と感じて見ていることを示している。私たちは、XXを擬人化してその内的な駆動力、あるいは感情、またはタマシイ、を感じ取り、(無意識のうちに)擬人化されたXXの感情(タマシイ)が導く運動○○を推測して、その行動を予想しようとする。

ニュートンは物事をそう見なかった。少なくとも、プリンキピア(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)を書いているときは、そう見なかった。だから天才なのでしょう。天才でない私たちは、(拙稿の見解では)物事が動き変化するのを見るとき、それを擬人化して「XXが○○をしようとして、そうする」と見ることしかできない。

そうするように、私たちの身体は(無意識の脳は)働いてしまう。物事の意味を考えようとするとき、(拙稿の見解では)私たちは、それを、群棲動物が仲間の身体運動に追従するときに使う運動形成の神経機構を使っている。私たち人間は、そうしないで物事の意味を考えることはできない。逆に言えば、そうすることが、物事の意味を(人間として)考える、ということだといえる。

ニュートンは、物体の運動を予測するとき、それを見てそれに追従しようとする自分の身体の無意識な働きを無視した。自分の身体が答えてくれる直感の予測を受け取らずに、紙に数式を書いて計算した。計算で運動を予測するために、天才は、微分積分を考案し、さらに微分方程式を考案して、物体の運動を計算した。ニュートンの運動の法則と呼ばれる微分方程式(運動方程式)を境界条件に沿ってどんどん積分していくと、世界のすべての物体の変化が予測できる。このとき、初めて人類は、言葉による比喩を使わずに(数学を使って)世界を正確に語り合う方法を手に入れたといえる。現代物理学の相対性力学や量子力学の方程式でもまったく同じ数学構造を(拡張して)使う。こうして、現代科学は擬人化を使わずに、物事を予測できるようになった。

現代科学は、(古代科学や偽科学と違って)物質の中に感情や神秘的な要素を見ることはない。アニミズムは完全に否定される。この思想を敷衍すれば、動物の中にも、さらには人間の中にも(宇宙のどこにも)神秘的あるいは精神的なものはないことになる(拙稿7章「命はなぜあるのか?」拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

人類の言語の骨格を作っている擬人化とその副産物であるアニミズムから決別した科学。それは、最初に数学を使って世界を描写したニュートン力学から始まったといえる。

現代科学は、自然言語の土台になっている擬人化と比喩に頼る表現は使わない。代わりに数学構造を下敷きに使っている。ところが、私たちが、ふつうに言葉を使って物事の動きを考えるときは、逆に数学理論は使わない。物事の動きを考えるとき私たちは、言葉を媒介として、無意識のうちに自分の身体に問いかけて答えをもらう。

言葉による問いかけに、私たちの身体は、仲間の身体運動に追従するときに使う(無意識の)神経機構を使って答える。私たちの身体のこの無意識の反応は、(拙稿の見解では)擬人化の働きを作り出し、憑依を作り出し、またアニミズムを作り出す根源になっている。

言葉を使うことで、(拙稿の見解では)私たちは仲間との集団仮想運動を作り、仮想運動にそって、無意識に身体が反応することで自分の身体が発生する感覚を知り、その感覚を擬人化した物事に貼り付けることによって、言語による問いかけに答える。言葉の意味が、直感で分かる、とはこういうことです。私たちは、自分たちの身体の仮想運動を媒介とする言語を使ってこの仕組みで世界を語り合い、現実を理解しあっている。私たちが日常生活で物事の動きを予測するときは、その物事に対する自分の身体の無意識な反応(直感)を使う。それが、物事に関する言語表現になっていく。

現代科学の方法はこれと違う。私たちの直感から離れた数学構造に埋め込まれた物質世界のモデル(自然法則)を計算した結果で語り合う。幾何学や微分方程式や確率統計論が物質現象を表す。微分方程式の境界条件が、物事の存在を表現する。この語り方は、ニュートンが始めた。ニュートン力学とそれを手本として発展した現代科学は、数学にならって言葉の定義と使い方を人工的に形式化することで、数学的表現形式の中に物質世界のモデル(自然法則)を埋め込むことに成功した。この成功によって、現代科学は人間の生身の身体から遠く離れた抽象的空間に存在できることになった。

数学的構造は、自然言語と違って、私たちの感情に響かない。すくなくとも、感情に響くことによって意味を作り出すようにはできていない。(数学者以外の人は)数学的表現を聞いたり読んだりしても、身体がそれにつられて動かされるようなことはありませんね。数学的構造は、機械的な手続きの繰り返しで作られている。コンピュータの演算操作と同じです。原理的に人間の身体を使わない形式的操作です。人間の身体にとっては意味がない。(数学者以外の人にとっては)空理空論です。ところが、逆説的ですが、数学は空理空論であるがゆえに、現実をよく表現できる。人間の感情が入らないから、物質世界の自然法則をそのまま表現できる。

現代科学の理論は、膨大な量の実験と観察によって得られるデータに合わせ込んで作られている。このことから、科学は、空理空論である数学を使って表現されているにもかかわらず、むしろそうであるからして、逆に、現実の物質世界の変化を正確に予測できる。自然を描写し予測する数学のこの驚異的な性能には、物理学者自身も神秘を感じているくらいです(一九六〇年 ユージン・ウィグナー自然科学における数学の理由なき有効性』)。

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私はなぜ言葉が分かるのか(10)

2008-08-16 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

たとえば、机の上にリンゴがある。リンゴを見ながら、擬人化の働き方について考えてみましょう。まず、リンゴのような大きさの物は、手で簡単に動かすことができる。片手で持って移動できる。その物が簡単に人に動かされる、と見なされる場合は、ふつう、その物自体は擬人化されず、むしろそれに触れている人の運動が注目される。リンゴは、その場合、それを持つ人の、持つという運動の目的物とされ、持つという述語の目的語として言語化される。こういう場合のリンゴは、目的語にはなるが主語としては言語化されない(受動態の主語になる場合は特殊な擬人化が起こるが、詳細は省略する)。私たち観察者の脳内では、外力で動かされる物は擬人化されずに、その物を動かす人が(もともと人であるが)擬人化されることで憑依が起こり、その人の運動に共鳴した仮想運動が起こる。観察者は、物を動かす人の内的意図を読み取って、動かされる物の次の動きを予測する。

リンゴのように、手で動かせる手ごろな物体、あるいは道具、のようなものは、それを見たときに、脳内の視覚情報処理の過程で、操作運動の形成回路と連動することが、神経科学の実験で観察されている(二〇〇七年 ブラッドフォード・マホン他『腹側経路においては物体の行為関連特性が物体表現を形成する』)。

一方、リンゴよりずっと大きいもの、人間のような大きさか、それより大きい物は、手で簡単に動かすことができない。そういうものが動くときは、自力で動くように見える。リンゴの場合については、人が手をかければリンゴはその外力で動くと見えるし、人や装置が接触していないのに動くときは、自力で動くと見える。大きさは小さい物でも、それが外力で動くことを考えずに、自力で動くとみなすときは、擬人化が起こる。

ここでは、リンゴに外力が働かない場合を考える。擬人化を説明する例としては、もっと人間に近い大きさのもの、たとえば等身大のロボットとか、案山子とか、鎧兜とか、雪だるまとかが適当だが、筆者は後でニュートン力学の話を持ち出したいので、リンゴにしておきます。まあ、存在感のある大きな立派なリンゴが、目の前一メートルくらいのところにある、と思ってください。

その場合私たちが、自分の手でそれをつかもうとするのではなくて、じっとながめて、そのリンゴがこれからどう動くのか、とか、このリンゴはこれからどう変化していくのか、と考えた瞬間に、リンゴは擬人化される。つまり、リンゴは、私たちの仲間である人間のようなものとみなされ、仲間の行動を追従する集団運動共鳴機構によって脳内で表現される。この場合、リンゴは主語として言語化される。

擬人化されたリンゴの身体には、上下左右前後の三軸があることになる。正面があるはずですが、リンゴは丸すぎて分りません。リンゴに顔が描いてあれば、それが正面になる。私たちの視線は、顔のような視覚イメージに自然に引き付けられる。ロボットとか、案山子とか、鎧兜とか、雪だるまとかでは、どこが顔なのか、見ればすぐ分かる。私たちの脳には、視覚情報から、顔を顔と認める神経回路がある(一九九七年 ナンシー・カンウィッシャー、ジョシュ・マクダーモット、マーヴィン・チュン『紡錘顔領域:顔感知に特化したヒト高次視覚皮質のモジュール』、二〇〇七年 カレン・テイラー、リチャード・ヘンソン、キム・グラハム『記憶喪失における顔および情景の認識記憶』)。しかし、ふつうリンゴの表面に顔は描いてない。ラベルが貼ってあればそれが正面です。果物屋さんで並べられているとき、こちらを向いている面が正面でしょう。

まあ、正面は分からない場合でも、私たちは、机においてあるリンゴを見れば一瞬にして、リンゴが逆立ちしているか、傾いているか、分かる。逆立ちしているリンゴを見ると、何か不安な感じがする。ちゃんと正立に戻してやりたくなる。

リンゴは机の上でなぜ静止しているのか? なぜ動こうとしないのか? リンゴを擬人化して見ている私たちは、無意識のうちに、その理由が分っている。リンゴは地球の中心を目指して落ちようとしているのですが、水平な机の面が下から支えているので落ちられずに机にくっついている。もし机の面が傾いていれば、リンゴは低いほうに転がる。机が水平な場合、リンゴは低いほうに転がりたいけれども、どの方向が低いのか分らないから、しかたなく、そこに止まっている。

擬人化したリンゴに憑依している私たちは、無意識のうちにそう感じている。実際、誰かが机の端を手で持ち上げて机を傾けようとすると、私たちは、リンゴが動かないうちから、まもなくリンゴは低いほうへ転げるだろうと感じる。私たちは、低いほうへ転げそうになっているリンゴの気持ちが分かる。

リンゴは、かつて誰かの手の中にあったはずだが、少しでも低いところに行こうとしてその手を下に押しているうちに、ここに置かれてしまった。その結果、この机の表面に落ち着いた、といえる。つまり、リンゴはそこに、落ち、着く。

擬人化されたリンゴは、下に落ちるという自発的な運動を加速しよう、という欲望(落ちたいという、あるいは、落ちてしまうという、リンゴの感情、と観察者である人間は感じる)を持つ。そのリンゴに注目する観察者は、リンゴのその落ちていく運動に共鳴して自分の脳に引き起こされる運動形成信号に誘発される感情機構の活動(たとえば、屈筋を緊張させる、あるいはその仮想運動の体感、平衡感覚、皮膚の圧感)を感知して、その感覚を記憶する。そういう神経活動の作られ方からして、そのリンゴは机の上に重量感を持って落ち着く。つまり、リンゴは、この世界に落ち着く。

別の言い方では、「リンゴはそこに存在する」ようになる。リンゴは落ちようとする重量感をもって存在する。その重さだけ存在する。リンゴの存在感というものは、私たち観察者の、こうした神経活動として、私たちの脳内に作られている。この存在感は、私だけでなく、どの人間も同じように感じるはずだ、と感じられる。拙稿の見解では、話し手と聞き手の脳にあるその共通の存在感覚、その神経活動、を共感するとき、(聞き手が自分自身である内語の場合も含めて)私たちは「そのリンゴが、そこにある」と思う。

これが存在の意味です。ここまでは言語がなくてもできます。人類の脳にある擬人化の仕組みは、こうして、リンゴをはじめ、ありとあらゆる物事の変化を、客観的に予測することができる。こうして人間どうし、だれもが共有するこの世界ができあがっている。これは擬人化という仕組みのすばらしい効力であります。しかし、擬人化のすばらしさはこればかりではない。擬人化が最高の効力を発揮するのは、それが「XXが○○をする」という形で言語形式に表現され、仲間と経験を共有するための仕掛けとなるときでしょう、

言葉を話すとき、話し手と聞き手がいる。話し手が、聞き手に向かって言う。

「リンゴが、そこにある」と言うとします。

リンゴが、そこにあるとき、「リンゴが、そこにある」と、話し手が聞き手に言う。

話し手は、なぜ「リンゴが」と言うのか?

話し手がリンゴに注目しているからです。そして、聞き手もまた、リンゴに注目してくれることを、話し手は知っている。期待している。つまり、このとき、話し手と聞き手の両方が、同時に、リンゴに注目することになる。こういうときに、話し手は「リンゴが」と言い出す。このとき、リンゴに注目する眼球の運動(あるいはその仮想運動)が、話し手と聞き手の両方の脳内で同時に起こっている。これが共鳴運動です。

リンゴの存在感を引き起こすこの運動共鳴は、人間が物事を注意する場合にいつも現れる共鳴です。リンゴの存在感があり、リンゴを見つめる仲間の人間の存在感があり、リンゴを見つめる仲間を見つめる自分の視線の存在感がある。これらの(相互依存する複数の)存在感を発生させる眼球の運動の共鳴が、(拙稿の見解では)リンゴの存在感の客観性を作っている。この神経活動の共鳴が、物事の客観的存在感を作り出す。つまり、物事を客観的に存在させる脳の仕掛けになっている。リンゴの存在を作り出すこの運動共鳴に「リンゴが」という語が対応する。この語によって、(拙稿の見解では)話し手と聞き手は、そのリンゴの存在を共有する。

このとき話し手は、なぜ、言葉によって、リンゴの存在を聞き手と共有しようとするのか? それは、これから、リンゴについて、いっしょに何かをしたいからですね。つまり、話し手は、そのリンゴがどうなのか、どうなるのか、についての予測を、聞き手と共有したい。そして聞き手と同じその見通しの上で行動していきたい。そのために、話し手は、これから、擬人化されたリンゴに憑依して、そこで聞き手と共鳴する仮想運動を形成することによって、リンゴの運動と感情を感じ取るつもりだということです。

こういう場合、話し手は「リンゴが」と言い出す。こういう場合の「リンゴが」という語を主語という。

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私はなぜ言葉が分かるのか(9)

2008-08-09 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

擬人化(と拙稿が呼ぶ、私たちの脳神経系の)プロセスは、観察対象の動きを仲間の動きに共鳴する運動形成回路の活動として捉え、(そこで擬人化された)対象の動きに共鳴して自分の運動形成機構が自動的になぞる仮想運動を引き起こし、さらにその仮想運動に連動して引き起こされる自分の感情発生プロセスからフィードバックされる体性感覚を観察対象の内的意図として認知し、(擬人化された)それが何をしようとしているかを読み取ることで、物事の次の変化を予測する。

たとえば、P君が山道を歩いているとします。夏なのでセミが鳴いている。すぐ近くで聞こえるので、よく見ると、そばの幹にミンミンゼミが止まって懸命に鳴いている。立ち止まってじっと見る。逃げないのかな、と思う。セミは急に鳴きやみました。P君は自分がセミの仲間になったように、歌をやめて敵の気配に耳を澄ましている気持ちになる。息を止め、足の筋肉を緊張させます。P君がセミならば、これで、すぐジャンプして飛行体勢に入れる。セミの敵であるP君はセミに気づかれないようにそっと手を伸ばす。一方、セミの気持ちになっているP君は、「わ、やっぱり敵だ!俺を捕まえに来た。やだ!逃げちゃおう。ついでにおしっこをひっかけちゃおう」と思い自律神経系が興奮して自分の心臓がどきどきし始めます。自分の身体のその緊張感で、P君はセミの緊張と逃亡の意欲を感じ取り、セミがいまにも飛んで逃げるだろうと予測する。このとき、P君は、飛んで逃げよう、というセミの気持ちになっている。次の瞬間、案のじょう、セミはおしっこをしながら飛んで逃げます。

擬人化の仕組みは、(拙稿の見解では)仲間との集団的な運動共鳴の神経システムが拾い上げる観察対象の動きに対応して自分の体内に発生する感情プロセスを感知することで観察対象の変化(行動)を予測する。

この擬人化プロセス全体を図式化すれば、次のようになる。

視覚聴覚による観察対象の感知→集団的運動共鳴の神経機構による観察対象の(実際の、あるいは想像上の)動きの表現→運動共鳴による仮想運動の形成→仮想運動による感情の発生→感情による体内反応の発生→体内反応により発生する体内感覚の知覚→上記体内感覚を観察対象の動きに対応する内的原因として表現→(言語表現に変換:観察対象の動きの原因を、意欲、欲望、意志、意図などに対応する語で表現する)

こうしてプロセス全体を書き出すと、脳内と体内を二重三重に循環するかなり複雑な無意識の神経活動になるが、神経回路網の連携によるこのプロセス全体の計算処理は、ふつう、瞬間的に実行される。

この場合、私たちは、自分の体内に発生する感情プロセス(自律神経系、筋肉緊張、体性感覚の変化など)を、自分の感情とは感じないで、観察対象の内部にある内的な駆動力、運動の要因、意欲、意志、意図などとして感じ取る。この擬人化のシステムは、複雑な環境に生きる人類が物事を予測する能力を、実用的な効率にまで高める効果をもたらしている。

擬人化は、観察対象が、人間の場合も人間以外の動物の場合も、それを見たり聞いたり思い出したり想像したりする場合、すぐに起こる。植物や無生物の場合も、それが外力によらずに動くと感じる場合は擬人化される。さらに、言語で表現される抽象概念なども比喩によって擬人化される。特に、観察対象が人間の場合、擬人化は、その人に乗り移ってその内心を感じ取る、拙稿で憑依システム(拙稿の造語。4章)と呼ぶ、神経機構に発展している。この憑依機構は、人間どうしがお互いに心を持つことを認め合って、社会行動を作り出す基盤になっている。

私たちの脳内に作られているこの擬人化システムは、人類に限らず、たぶん、広く群棲霊長類に共通する(擬猿化というべき)認知システムでしょう。人類の場合、擬人化の仕組みによる身体反応は、実際に身体を動かさずに運動信号が脳内を循環する仮想運動‐仮想感覚を使う認知機構となる。これで、認知のたびにいちいち身体を動かさないですむので、ますます判断の効率はよくなった。

擬人化を使うこのシステムは、さらに発展して、(拙稿の見解では)概念を形成し、さらに(ジェスチャーや音声など)記号による表現に結びついて、集団的な認知システムとなり、ついには言語として展開していく。私たちの言語の使い方は、スポーツや職人芸のように習熟していく。幼稚園から小学校にかけて、言語に習熟していく子供たちは、(脳のシミュレーション機能の発達により)身体を動かさずに仮想運動し、口を動かさずに内語で思考し、体内反応をせずに感情を感知できるようになる。

人類において、擬人化システムは言語システムを内包し、憑依システムを内包する高機能の集団的認知システムに発展した。人類の社会も、政治経済体制も、宗教も、テレビも、新聞雑誌も、インターネットゲームも、この集団的な認知システムの上に築かれています。

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私はなぜ言葉が分かるのか(8)

2008-08-02 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

拙稿でいう擬人化とは、私たちの脳が無意識のうちにする働きの一つです。脳は感覚器からくる信号を処理して物事の動きを感知するとき(拙稿の見解では)、無意識のうちに、その動きが、その物事の内面にある意志、意図、あるいは感情を駆動力として起こされる、という図式のシミュレーションを作る。そのシミュレーションを仲間との運動の共鳴を認知する場合と同じ神経回路で処理することで、仲間とその物事の認知を共有し、記憶し、(場合によっては)言語化する。逆に、言語化される物事は擬人化されている物事に限る。その意味で、物事の擬人化が(拙稿の見解では)言語化の前段階として起こる。

物体の運動を認知するこのような脳の活動は、たぶん、霊長類を含む広範な哺乳類に共通な神経機構を土台とする働きと思われる。目の前で動く動物の動作に敏感に反応することは、哺乳類の生活に重要な能力です。群行動をする哺乳類は、特に群れ仲間の動物の動きには敏感でなくてはならない。それには、動物の動きを目で見て、一瞬のうちに次の行動を予測する能力が必要です。

目の前にいる動物の次の動きを、瞬時に予測するには、どうしたらよいか? 視覚、聴覚などで得られる感覚信号だけから動物の外面的な動きを把握し、そのデータから推算して次の運動を予測する仕事は簡単ではない。多数の筋肉の伸縮による動物の運動は、複雑な脳神経活動によって制御されている。この筋肉運動を、たとえば高速コンピュータを使って、ロケットの軌道予測に使うシミュレーションプログラムの計算のように実行しても、かなり時間をとる上に、たいていは観測データが少ないのであまり正確な予測はできない。まして、コンピュータよりずっと計算速度が遅い脳神経系を使う情報処理として実行しようとしても、とても実用の速度には間に合いません。

そこで、(拙稿の見解では)哺乳動物の進化の過程で別の方法による、動物の動きの高速予測法が開発され、実用化された。それが、動物を駆動する内的要因として、意志、意図および欲望というものを想定して、それを推測することで次の行動を予測する方法です。

原始人が、轟音を発するロケットの打ち上げを見るとき、彼または彼女は、ロケットが怒り狂って一気に地面を離れて天に昇ろうとしている、と思うでしょう。そういう見方をしても、加速されていくロケットの軌道をかなり正確に予測できる。ロケットの内部に意志、意図、あるいは欲望というようなものが、本当にあろうとなかろうと、実用上はどちらでもよい。脳に負担が大きい計算負荷が少なくて、しかも精度よく、その行動を予測できれば実用に使える。ロケットなど複雑な内部機構が働いて運動する物事を予測するために、その内部に欲望のようなものを想定してその行動法則を単純化して捉える方法は簡単で便利で実用的です。実際、人類は、物事の変化を予測する場合に、(拙稿の見解では)この方法を採用した。これが擬人化という予測手法です。

実際、ロケットの内部で軌道を決めているものは半導体部品で構成された電子制御回路やバルブやエンジン操舵機構です。その内部に意志、意図、あるいは欲望のようなものは見つからない。ロケットは、天に昇りたくて上昇する、というよりも、物質法則に従った物質現象の連鎖によって結果的に天に昇ってしまう、というべきでしょう。

ちなみに、私たち人間の行動も(拙稿の見解では)、ロケットの軌道制御システムと原理はあまり違わない脳の身体運動制御システムの働きによる物質現象です。ところが、外面から人体の運動を目で見たり耳で聞いたりする私たちは、その人体の内面に、人体を駆動する精神的な意志、意図、あるいは欲望というものがあるように感じる。人間の意志、意図、欲望というものは(拙稿の見解では)、物質としての実体がなく、そういうものがあるように感じられるというところにしか根拠がない。そうであるとすれば、人間の欲望と、ロケットが天に昇りたいと思う欲望とは、本質的な違いがない。つまり、どちらも、実体がない錯覚による仮想の駆動力です。

ロケットや人間の運動を見るとき、その内部に欲望のような駆動力があるかのように感じ取るように、人類の認知機構は進化してきた。私たちが自分や他人の内部に認める意志、意図、あるいは欲望というものは、進化によって設計された、錯覚であるにもかかわらず便利で実用的な仮想の装置である、といえる(拙稿第10章「欲望はなぜあるのか?」)。

私たちが物事の動きに注目するとき、脳において、その動きの擬人化シミュレーションを実行する神経機構は、(拙稿の見解では)自分の運動形成機構から感情機構へ循環的に伝わる信号をモニターする上位の認知機構から進化したものと考えられます。

群棲哺乳類では、(拙稿の見解では)仲間の動作を感知すると、自分が運動する場合に使う運動形成機構が共鳴して追従運動が起こる。人類では、実際に身体を動かさない場合が多いが、その場合は、脳内だけで信号が循環する仮想運動が起こる。この運動形成の信号は感情機構に送られて、脳幹、自律神経系の興奮や筋肉の微弱な緊張など感情運動(心拍や血管壁、内臓平滑筋や骨格筋の緊張など)を起こし、それが(内臓感覚、筋肉感覚、皮膚感覚など)体性感覚にフィードバックされて、仲間の動作の存在感を発生する。

人類の脳の場合、(拙稿の見解では)体性感覚で感じるこの仲間の運動の存在感を、目に見えるその人体の外面的イメージと統合して、その人体が内面に内蔵する駆動力としての欲望、意志、意図として捉える上位の認知機構が作られている。たとえば、テレビでシュートを見るとき、自分の筋肉が緊張してしまう体内感覚から選手がゴールを狙う気持ちが分る。このように、私たちの脳内では、仲間の動作の内面的要因が、自分の体内の体性感覚フィードバックとして表現されている。

私たちは、視覚聴覚で感知した仲間(たとえば、テレビに映る選手の映像など)の行動を、仮想運動シミュレーションによって捉え、その仮想運動が自分の体性感覚にフィードバックしてくる信号(たとえば、筋肉の緊張感)をその仲間の体内にある意志、欲望と捉えて、それをその行動(たとえば、シュート)の原因として感じ取る。因果関係を認知するそのシミュレーションの表現形式は、「仲間のXX(たとえば、テレビに映る選手の名前)の内部にある意志、欲望を原因として○○という行動(たとえば、シュートなど)が起こった」という図式になる。脳神経機構における因果関係のこの表現が、XXを主語、○○を述語とするセンテンス「XXが○○をする」という言語表現の基盤になっている。

目の前で動くものが、仲間の人間の場合も、動物の場合も、無生物の場合も、私たちがその動きを認知する場合、(拙稿の見解では)擬人化によって、同じ仕組みが使われる。つまり、私たちが物事の動きを認知する場合、注目する物事XXの内部に○○をしようという欲望、意志、意図が湧き起こり、それが原因となって身体が動いて○○という行動が起こる、と感じる。○○という動きの存在感は、そのときの自分の(感情運動など)身体反応で表現される。逆に言えば、物事の変化を見て、それがこの体内プロセスで捉えられるとき、私たちはその物事を意識的に認知する。

ロケットが、怒り狂って、天に昇る。打ち上げを目撃してそう感じる原始人は、そのとき(拙稿の見解では)ロケットに乗り移って、ロケットになった自分の身体を駆動して空中を駆け上がる。そういう仮想運動を脳内で形成する。その仮想運動の信号は、アドレナリンを分泌して、彼または彼女の心拍数を上げ、両脚の伸筋を緊張させる。その(内臓感覚、筋肉感覚など)体性感覚が脳にフィードバックして、怒りの感情を引き起こす。その感情をロケットの行動の原因と捉える(擬人化)神経機構の働きで、原始人は「ロケットが、その内面で怒りの感情を発生させ、それが原因となって天に昇るという行動を起こしている」と思い、「XXが○○をする」という言語表現を使って「ロケットが天に昇る」と言う。

原始人ばかりではなく私たち現代人も、日常生活では、いつも無意識のうちに、この擬人化を使っている。この仕組みが脳内で働いていることに、私たちは気づかない。この擬人化の仕組みは、無意識の脳の働きで、(拙稿の見解では)物事の動きを感知すると同時に作動する。動きの認知に伴う自分の感情機構からのフィードバック信号をその物事が内蔵する変化の内因と感じとることで物事の変化を予測する。

物事を判断するのに、この仕組みのように、進化によって洗練された身体の無意識の感情反応を利用するのは、なかなか巧妙な戦略です。これは、私たちの身体がうまく物事に対応するように進化している限り、うまく成功するはずです。さらに、この仕組みは、感情を土台として(その上位構造として構築されて)いるので、情報処理速度が速いことに加えて、その情報の価値判断をも高速に実行できる利点を持つ。物事の変化の予測は、それを自分の感情変化(たとえば、そうなったら怖いと感じて心臓がどきどきする、とか)として感知できるから、その予測の重要性が瞬時に分る。また、感情で重要なものと感じられる物事に関しては、感覚神経の感度が高まり、その情報はしっかり記憶できる(二〇〇二年 レイモンド・ドラン感情、認知、行動』、二〇〇七年 ヴィルジニ・ステルペニック他『感情的記憶想起時の睡眠関連海馬皮質相関)という利点もある

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私はなぜ言葉が分かるのか(7)

2008-07-26 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

物体の運動を観察するとき、速度が急に加速される、あるいは減速されると見られる場合は力が加わったことを示す。加速度は力に比例する、という物理法則はニュートンが発見した(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』)と言われていますが、物理学など知らない幼稚園児もこのことは分っている。身体で分かっている。

この法則を知らなければ、ボールをうまく投げることもできません。私たちが力の法則を理論として知っているのは、ニュートンのおかげですが、それ以前に身体がその法則を知っている。これは(拙稿の見解では)、人間が、たぶん、生れつき持っている脳の運動制御機構による働きだと思われます。たとえば、路上の紙くずが転がっていくのを見ると、私たちは、風が紙くずを押す力を加えていると感じる。これは、ニュートンの法則を教科書で学んだからではなくて、子供のころから身体で知っているのです。

ボールや紙くずに限らず、あらゆる物質が動くときは、それに加わる力に比例した加速度が働くことで運動が変化する。これが自然法則です。その物質が動物であろうと人体であろうと同じことです。自然の物質法則が働いて、物理方程式のとおりに動く。その動く物質が無生物の場合、幼稚園児もこの法則を身体で知っている。

ところが、動いているものが無生物ではなく、生きた人体である場合、私たちは、ふつう、それが風力などの外力で動かされているとは思わない。私たちは、無生物の動きは物理法則どおりと感じているのに、生きている人間や動物などの手足や表情や言語器官の動きは物理法則どおりとは思わない。ここは重要な違いです。

生きている人体は自力で動いている、ように見える。人間の運動は、その人が内面に持っている意志や意図、あるいは感情によって加速される、と感じる。動物の身体の動きも人体と同じように、その動物の内面にある感情や意志で動くように思える。無生物の動きはそうは見えずに、物理法則によって動かされているように見える。

幼稚園児より小さい幼児の場合、ボールがうまく投げられないと、ボールに怒ったりする。赤ちゃんは、おもちゃなど無生物にも人間にも、同じように行動するところがある。無生物も、人間と同じように、感情や意志のようなもので動くと思っているかのようです。赤ちゃんがそういう気持ちを持っているらしい、ということは、私たち大人も分かるような気がする。つまり私たちも物事をそう感じる感覚がある、ということでしょう。注目する対象が人間でない無生物の物質であっても、物質が変化する原因をその物質が内部に持つ感情のようなものとみなして感じ取る感覚が、私たち人間の脳には、もともとあるようです。たとえば私たちは、空をにらんで「雨がやんでくれない」などと言いますね。

ニュートン以来の科学の目覚しい発展を見て、私たち現代人は、人体も脳も神経細胞も、ふつうの物質と同じように科学が明らかにした物質の法則だけにしたがって変化していくことを、よく知っています。現代生物学はこれを徹底している。人間の心の動きを作り出す脳の働きの解明が、現在、科学の最後の領域と言われていますが、ここでも最近の進展はめざましい。私たちが精神的なものと思っている人間の行動が、次々に、物質現象として説明されていく。

しかし、おもしろいことに、科学の知識があってもなくても、私たちの行動は変わらない。日常の生活では、先にあげた幼稚園児が身体で感じるレベルの、直感的な物事の法則を使って、私たちは行動している。科学の方程式を計算して、物事を予測したり、自分の動きを決めたりしている人はあまりいません。これは、なぜでしょうか? この問題を考えるには、私たちの直感が物事の変化をどう予測しているか、その仕組みをよく調べる必要がありそうです。

私たちは、目の前の物体が、外力が働いていないのにひとりでに動き出すのを見ると、視線がそれに引きつけられる。動き出す物体の変化に、無意識のうちに注目する。注目すると、それが(人体、動物、無生物の)どの領域の物体であっても、(拙稿の見解では)無意識のうちに、まずは擬人化する。逆に言えば、そのものの動きに注目する、注意を向ける、ということは、(拙稿の見解では)無意識に擬人化するということです。それが人間であろうと動物であろうと無生物であろうと、擬人化される場合は、人間のように感情を伴って運動するとみなす。

なぜ、私たちの脳では、この、無意識の擬人化が起こるのか? 脳のこの仕組みは、(拙稿の見解では)たぶん、群棲霊長類の集団共鳴運動から進化したものでしょう。物事に対応して仲間が動き出すと、それにつられて無意識のうちに自分の身体が追従してしまう。そういう仕組みです。

私たちは、脳のこの仕組みを使って物事に注目する。つまり(拙稿の見解では)人間が物事に注目するときは、仲間の動きを見つめるときに使う神経回路を使って認知している。仲間を見ている人間は、仲間の身体の動きが自分の身体に乗り移って、自動的に動いてしまう。身体は実際に動かなくても、(拙稿の見解では)脳内では運動形成神経回路が働いて仮想運動が起こっている。そのとき、私たちは、仲間の人間の動きを自分の身体の動きとして感じる。

それと同じ仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは、注目している物事が自分の身体に乗り移ってくることで、その物事の動きが自分の身体で分る。そうであるとすれば、私たち人間の感性にとって、物事の動きというものは、仲間の身体の動きと同じように捉えられるものであり、それは同時にそれにつられて動く自分の身体の動きとして捉えられる。つまり物事は、擬人化されることで注目される。

ちなみに、注目という動物の行動は、首と目玉を旋回してある視覚対象を視野の中央に持ってくる無意識の筋肉運動です。これは、視覚や聴覚その他の感覚の情報を処理して運動神経に指令を送る神経活動の仕組みで実行される。私たちが自分の身体の動きとしてこれを自覚するとき、注意という心的現象として感じる。

注意という心的現象については、現代心理学の初期から研究考察の対象になっている(一八九〇年 ウイリアム・ジェームス 心理学の原理)にもかかわらず、客観的な物質現象としてはなかなか捕捉できない。私たちが自分の行動を自覚するときには、明確に、自分が何に注意しているかが分るのに、脳神経系の働きとしてそれを客観的に記述できない。最近、脳科学的実験によって、ようやく大脳前頭葉前野皮質の脳細胞群がこの神経活動の中心になっているらしいことが見えてきた(二〇〇四年 レベーデフ、メッシンガー、クラリック、ワイス『前頭葉前野皮質における注意対記憶位置の表現』)。

これらの研究がさらに進んで、拙稿の提唱している擬人化がどういう脳神経現象なのか、科学的に解明されることを期待したいが、残念ながら現代の実験計測技術では、無理でしょう。脳計測の技術は急速に進歩しているとはいえ、感覚情報の複雑な処理を神経細胞間の連携活動として捉えるにはまだまだ精度が足りない。

さて、擬人化された物事は、(拙稿の見解では)それが私たち自身の身体であるかのように運動し、運動の加速に伴った感情を持つことによって一つの身体運動‐感覚受容シミュレーションとなり、過去の現実として私たちの脳に記憶される。それが人間であろうと動物であろうと無生物であろうと、あるいは集合的なものや抽象的な概念であろうとも、私たちの脳内では同じ仕組みで擬人化される。注目された瞬間、その物事は、実際に人間であるときもそうでないときも、仲間の人間の身体であるかのように、さらにまた、仲間の動きにつられて動く自分の身体であるかのように、意志あるいは感情、のようなものを内部に持っている、と私たちには感じられる。

幼児向けのマンガなどでは、木も草も風も時計も自動車も、顔が描かれていて、ときには手足がついていて、笑ったり怒ったりする。未開人が感じる、森の精霊たち、ヤオヨロズの神、ランプの精、花の精、などなども、諸々の物事が擬人化されたものでしょう。(英語以外の)西洋語の名詞についている男性、女性などのジェンダーも、未開人があらゆる物事を擬人化していた名残だという理論が、現代哲学の開祖の一人によって唱えられています(一八七三年 ショーンシー・ライト自意識の進化』既出)。

逆に言えば、私たちは、人体やその他の物事の動き、あるいは変化、を見るとき、(拙稿の見解では)それらの内部にそれらに動きや変化を与えるような内的要因の存在感を感じて、それをその物事が内蔵する感情であると思っている。物事が変化するときは、それが人間であろうと、そうでなかろうと、その内面にある内的要因=感情によって動く、と私たちは感じる。この図式は、(拙稿の見解では)人間や物事のシミュレーションとして私たちの脳に記憶されていて、連想によって無意識に想起される。

ところで、拙稿では、物事の認知に関するこの脳内現象を、(適切な用語が作られていないようなので科学用語にも哲学用語にもなっていない)擬人化という言葉で説明したが、これが、拙稿が命名したい脳内現象を名づけるのに適切な用語であるかどうか、筆者は自信がない。ふつう、擬人化とは、詩歌など文学やマンガなどに使う修辞的な技法とされている。現代のマンガ文化では、六法全書がキャラクターの絵を添えられて擬人化されている例がある。これら、一般にいわれる擬人化は、修辞法や子供向けに親しみやすくする目的で使われるものとされる。拙稿の用語法によれば、擬人化はずっと強い意味になって、人間の脳が物事を理解する仕組みは、すべて擬人化と呼ぶことになる。したがって、(拙稿の見解では)いわゆる修辞法の擬人化は、無意識の認知の過程を、意識の表面に引き出すことで強く感性に訴える技法といえる。

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私はなぜ言葉が分かるのか(6)

2008-07-19 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

人間は、興味を引かれる物事に注目する。物事に注目すると同時に、自動的に脳内の身体運動形成回路でそれに対応する仮想運動が実行される。目に入った物事に対応して必要な身体運動が、無意識のうちに準備される。逆に言えば、視線が引きつけられるなど、無意識にその物事に対応する仮想運動が起こることで、興味を感じる。

たとえば、矢印を見ると、私たちは無意識のうちに矢の方向に視線を向けてしまう。たとえば↓こうです。ね、矢印の図形を見ると、目玉が↓の方向へ運動するでしょう? これは、無意識の運動です。こうなると、矢印の先にあるものに興味が出てきてしまう。私たちの脳の神経回路は、こうなっている。こうなるようにできている身体が、原始生活では必要だった。矢印のように方向性のある物体を見たときは、その先に重要なものがあることが多い。それを無視するような身体は子孫を残せなかった。だから、私たちは矢印の先に目が走る。

私たちが物事に注目するとき、その物事に対応する仮想運動が、脳内で実行されることで、物事は感知される。物事が注目された場合、それが無生物か、生物か、人間か、どの領域に属する物事かによって、脳内の別々の無意識的認知機構で処理されて、その運動が予測されるという最近の仮説があります(二〇〇四年 ローラ・シュルツ、アリソン・ゴプニック『領域横断的な原因学習.)。この仮説によれば、四歳くらいの幼児はすでに領域ごとの原因結果の予測機構を持っていて、ママが消えたのは別の部屋に行ったからとか、ママが笑っているのはご機嫌がいいからとか、ママが咳き込んでいるのは具合が悪いからとか、分かるわけです。幼児は、ただ漠然と物事を見ているということはない。その物事に対して、自分がどう身体を動かしていけばよいか、を瞬時に判断して仮想運動を準備している。その仮想運動が、物事を注目するということであり、幼児にとっては、その仮想運動が、その物事が存在する、ということの意味です。

哺乳動物は、身体の周辺で起こる物事の動きを感知すると、その情報を分類して、次に起こることを予想できる。何がどうだからどうなるのか、そうしたらどうすればよい、などと予測する能力を持っている。人間以外の動物の場合、この働きは無意識でなされて、きちんと記憶されない。たいていは、数分先の予測しかしません。それにしても、爬虫類や鳥に比べれば、哺乳類の将来予測能力は格段に優れている。犬や猫などの動きを観察すると、何事かが起きたことを感知した場合、現時点のことをその場で理解して、次の瞬間に起こる事態に対応する能力はしっかりあるようです。

このような働きをする脳神経機構の出現は、たぶん、霊長類が出現した頃よりずっと古く、哺乳類に広く共通の仕組みとなっているらしい。比較的初期の哺乳類において、嗅覚を中心とした感覚信号を処理する脳幹、辺縁系、基底核と、それらにつながる小脳と大脳皮質からなる連携回路で作られた仕組みでしょう。それが霊長類共通の機構として視覚や眼球、手指の運動機構と共進化した。特に群棲の霊長類では、物事の感知と予測は群の集団運動に連動し運動共鳴による共感を起こす。たとえば、猛獣の出現に際して、猿の群れがいっせいに悲鳴を上げる場面、などです。

霊長類の脳のこの仕組みが人類の世界認識に進化していく過程については、とても興味深い。しかし残念ながら、その具体的な過程は、現在の科学では、よく分かっていません。

拙稿の見解にもとづけば、多くの霊長類では、この仕組みで、物事の認知と予測が集団運動の共鳴による脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーションとして経験され記憶されている。人類では、物事の認知と予測にかかわる共鳴運動は身体運動‐感覚受容シミュレーションを使った憑依を引き起こすことで、「XXが○○をする」という形式で認知される。さらに(拙稿の見解では)それら仮想運動が音節列との対応によって言語構造に埋め込まれることで、安定した客観的世界の経験を作り出すものと思われます。

人類では、脳のこの機構により、感覚で受け取るすべての物質現象は、それが引き起こす集団的運動共鳴の経験として分類され、同じとみなされたものは同じように擬人化され、それにふさわしい運動をするものとして、記憶される。(例―枯葉がひらひら散る) 逆に言えば、同じように運動するものが同じものとみなされ、同じ名で呼ばれるのです(例―ひらひら散るのは枯葉)。抽象概念もまた、(拙稿の見解では)比喩などを使って分類され、それぞれに擬人化された運動をする。これらの経験は、仲間との仮想運動共鳴の経験(例―枯葉がひらひら散ることは、だれもが知っている)として記憶されるところから、客観的な存在感を伴うことができ、言語形式に表現されることで客観的世界に定着される。

要約すれば、言語は、話し手と聞き手とが、指差しなどによって客観的な同じ物質現象に注目しながら、「XXが○○をする」という形を、憑依と共鳴運動を使う身体運動‐感覚受容シミュレーション表現として共有することで、生活に必要な協力を行うシステムです。これがさらに拡大されて、人間どうしは、(拙稿の見解では)物質現象に限らず、言葉を発すれば分かり合えるさまざまなXXという認知対象を共感して同時にそれに共鳴運動によって表わされる仮想運動「○○をする」を対応させる形式で言語として表現し、それによって世界で起こる物事を共有するようになった。

私たちのご先祖が、「XXが○○をする」という言語形式を発明してくれたおかげで、(拙稿の見解では)国語や英語の先生が仕事を持てるばかりでなく、現代の文化文明があり、社会経済があり、哲学があり、私たちの世間話がある。しかし、この言語形式は、原始時代のジャングル(あるいはサバンナ?)の中で精霊や悪霊に取り巻かれながら狩猟採集生活を送っていた人類のご先祖が発明し、自分たちが生き抜くために便利だったから子孫に伝わったものです。原始生活での自然環境と社会環境で、特に役に立ったから人類の宝として今に伝わってきた先祖伝来のありがたいアンティークな道具です。しかし、数万年以上も前に作られて、そのころの環境で最高に便利だったこの古い道具を、現代の私たちが、現代科学や哲学の問題を解くために使って大丈夫なのでしょうか? こういう疑問は、拙稿が思いつくまでもなく、百年以上も前に提起されています(一八七三年 ショーンシー・ライト自意識の進化)。

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私はなぜ言葉が分かるのか(5)

2008-07-12 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

「XXが○○をする」という形式の言語表現に対応して、(擬人化された)XXが、○○という運動をその(擬人化された)脳内で形成しているという仮想運動のシミュレーションが、私たちの脳内で起こる。(仮想運動→拙稿2章「言葉は錯覚からできている」)この自動的な神経活動は、群棲動物が群れの集団的な運動に共鳴して身体を追従させていく神経機構から進化したと(拙稿の見解では)思われる。

拙稿でいう仮想運動は、過去の運動経験で学習した身体運動とそれに伴う感覚受容との脳内シミュレーションを組み合わせて作られる。「走る」、「立つ」、「立てる」、「ふるえる」など筋肉を使う運動はもちろん、「見る」、「聞く」、「忘れる」、「憎む」、「眠る」、「病む」、「遅れる」、「負ける」など、筋肉を使わない感覚情報の受容や状況変化の認知なども、比喩を使った仮想運動のシミュレーションで表現される。つまり、(拙稿の見解では)あらゆる述語に対応する脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーションは仮想運動として行われる。逆に言えば、仮想運動による脳内シミュレーションがうまく作れて、多くの人がそれに共鳴できる場合に限って、述語が作られる。

たとえば(比喩による仮想運動形成の例を、ごく単純化して挙げれば)、「見る」という述語に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションは、仮想の眼球運動とそれによる仮想視覚のフィードバックによる比喩で作られる。同様に、「聞く」は、仮想の耳振り向け運動とそれによる聴覚のフィードバックによる比喩。「忘れる」は置き去り運動とそれによる存在感の喪失感覚による比喩。「憎む」は顔をしかめる運動とその体性感覚へのフィードバック、「眠る」は目つぶりや脱力とその体性感覚フィードバック、「病む」は仰臥など、「遅れる」は追尾運動など、「負ける」は防御運動などとそれによる仮想の体性感覚へのフィードバック。というように筋肉運動を使う仮想経験の比喩で表現される。もちろん、実際の脳内シミュレーションの構造は、この例のように一言でいえるような単純なものではないでしょう。ただ、その基本構造は、このような身体運動と感覚フィードバックの連結でできているものと思われます。この脳内シミュレーションの構造とその形成プロセスの具体的な解明は次世代の科学の課題でしょう。

人類の進化の過程で発生してきた言語システムが脳神経系のメカニズムとして解明される時代は、(拙稿の見解では)そう遠くない。物質現象として記憶が形成され再生されるメカニズムは、神経細胞間結合の分子構造変化として、現在、詳細に解明されつつあります。ただし、実際の言語システムは、神経細胞間結合から組み上げられる神経回路網の上に、さらに何層もの上位システムが組み上げられてできている。

身体運動と言語を通じて、これら各層の神経システムを仲間の身体運動と共鳴させることで、私たち人類は言語システムを操作し仲間と世界を共有する(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。これら言語システムの階層構造全体の解明には、まだまだ多くの発見と理論の構築が必要です。

さて、現代の言語では、抽象的な述語が多く使われる。たとえば、「発表する」、「増加する」、「決定する」、「参加する」、「酸化する」。しかしそれらも、もともとは、人間の身体運動の比喩によって作られている。たとえば、(極端に単純化してみれば)「発表する」は、人々に見せる運動、「増加する」は、同一運動が繰り返されること、「決定する」は、ふらついている運動を止めて停止すること、「参加する」は、仲間の運動に同調すること、「酸化する」は、酸化という科学で決められた形の物質変化を起こす運動、によって比喩される。

聞き手が文を聞き分けると、(拙稿の見解では)文と対応する仮想運動のシミュレーションが、無意識のうちに、脳内で実行され記憶される。文は忘れてしまうが、仮想運動シミュレーションは、記憶としてきちんと保存される。つまり文そのものではなくて、文の内容が、身体運動‐感覚受容シミュレーションの表現形式で脳内に記憶される。そして、それはいつでも再生できる状態に保たれる。そのとき、言語の内容が分かる、という。

日本語が分かる人の間では、一つの日本語の文はだれの脳にもだいたい同じような身体運動‐感覚受容シミュレーションを引き起こす、と思われる。このことの科学的な実証は、残念ながらできていません。脳内シミュレーションを見分けるには、現在の脳神経科学の測定技術では、まったく精度が不足する。理論も完成していない。したがって、この判定には外的な身体反応を観察するしかない。文を聞いたときの、言語的返答、抑揚、間の空き方、表情、その後の行動などで判定するしかありません。それでも、このことは推測できる。つまり、文を聞いたとき、だれもが、無意識のうちに、同じようなその仮想運動シミュレーションを脳の中で実行する。「雨が降りそうだ」と聞けば、傘を持って出る。言葉が分かるということはそういうことです。

身体運動‐感覚受容シミュレーションが、言葉の感知によって活性化されると、仮想的な感覚の経験が付随して引き起こされる。それによって(拙稿の見解では)言語を理解する人間は、主語で表現される(擬人化された)人物等のモデルが述語によって表現される運動をすることによって得られるはずの経験を、自分の運動回路を使うシミュレーションを自動的に実行することで疑似体験する。つまり、この疑似体験によって、私たちは言語を理解する。

この疑似体験は、もともと、群棲霊長類が、仲間の行動を、追従する、身体を動かして実際に真似る、という運動共鳴行動(まさに猿真似)から発展したのでしょう。仲間の身体運動を見て自分の身体を連動させてなぞる行動が進化して、脳内で自分の身体を動かす仮想的な身体運動‐感覚受容の経験としてそれをなぞるシミュレーション機構が発展した。

幼児や未開人は物真似、憑依、集団遊戯、歌、踊りなど共鳴動作が大好きです。人類は、たぶん、言語以前から集団運動によって、シミュレーション機構を共鳴させていた。そこにたまたま、発声運動が関与するようになり、「音節列→シミュレーションの共鳴」という条件反射が成立して、なぞり運動のシミュレーションが同時に音声を発声する運動と連動するようになったのではないでしょうか? 踊っているうちに掛け声を掛け合うようなものでしょう。脳内でのそれらの仮想運動シミュレーションと発声運動との条件反射による連結、さらに視覚聴覚を通じての仲間の人間とのそのシミュレーションの共鳴、を土台にして言語はできてきた。

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私はなぜ言葉が分かるのか(4)

2008-07-05 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

言語能力は人類共通のものである、という仮説(たとえば一九九四年 スティーブン・ピンカー言語本能」)は、現代、広く受け入れられている。日本語を話すか、中国語を話すか、とかかわりなく、人間の脳は言語を操るための、同じひとつの仕組みを持っている。

人類の言語の規則は簡単です。現在、地球上には数千の自然言語があるが、いずれも、数十個の要素からなる音声、あるいは文字(あるいは手話の単位)を一列に並べて表わされる。音声も文字も言語ごとに違う伝統的な決まりごとにしたがって、一列に並べられる。どの順番で並べるかで、意味が作られる。並べ方の規則が、語彙文法です。この規則も言語ごとにすこしずつ違うが、その基本構造は同じです。形式的には、数少ない有限個の単位要素から構成される美しい構造を持っている。どこの国の言葉でも、それが書かれた文章を紙に印刷してみてください。伝統的な日本語の書き方ならば縦書きです。最近は、急に横書きが多くなっている。外国の文は、ほとんど横書きです。いずれにしても、一列に並んでいって、紙の幅に制約されて折り返す。ながめてみると、模様として美しい絵柄になっている。まったく知らない国の言葉でもインテリアとして壁紙に使えそうでしょう?

言語は、有限な音節を直列に連結して作られる。たとえば日本語は五十くらいの音節の並び方で表現される。「あだだ」とか、「あいあかう」とか、語はいくらでも作れる。いくつかの語をつなげると、また語になる。たとえば、「あだだあいあかう」も語です。末尾に「。」をつけた語は文と呼ばれる。「あだだあいあかう。」は文です。

数学で半群と呼ばれるこの構造は、実質上、無限の語や文を作り出せる。自然界のDNAも、コンピュータのプログラムも半群の構造を持っています。少数の記号を一列に並べて無限の表現を作り出すには、この半群構造が便利だからでしょう。自然言語も、コンピュータのプログラム言語も、DNA配列の遺伝情報も、記号列を操作に対応させる。つまり、ある記号列が読み取られると、それに特有な機械的操作が起こる。昔のオルゴールや、自動工作機械の制御テープも、こうなっています。DNAの記号列は、細胞で製造されるたんぱく質の種類を指定する。

人間の言語では、(拙稿の見解では)語や文は、脳内シミュレーションによる仮想運動の種類を指定する。コンピュータプログラムでは、記号列は、論理回路が行う演算の種類を指定する。ただし、DNA配列と違って人間の語やコンピュータプログラムは、記号列と行為との対応関係が恣意的です(一九一三年 フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』)。つまり最初は、その言語の設計者が、記号列と行為との対応関係を勝手に決めてかまわない。

往来の通行なども、最初にたまたま、左側に寄る人が多かったら、その後ずっと左側に寄ることと決まってしまう。東京のエスカレータがそれですね。日本全国、大阪を除いてほとんど左寄りらしい。ちなみに大阪は右寄り、ニューヨークもロンドンも右寄りです。

さて、人間の言語の場合、それぞれの民族言語の設計者、つまり最初にその語彙と文法を作った人は、エスカレータの乗り方の場合と同じく、歴史に残らない無名のだれかさんでしょう。音節列で語を作って、それで何かを意味したい場合、音節の配列は、どう決めてもよい。「あいあかう」といって、それが、空腹だという意味でもよい。代わりに、「はんぐり」といってそれが空腹という意味にしてもよい。「ひもじい」といって空腹をあらわしてもよい。最初は、何でもよいから決めればよい。言葉を使う皆が、その音節列が何を指すかという知識を共有すれば、それでよいわけです。

実際、皆が勘違いすることで、言葉の意味は、変わっていきます。たとえば「キリギリス」という語は、古くはコオロギを指していたのに、いつのまにか、キリギリスのことになってしまった。それでも、ふつうの人は全然困らないわけです。

人間が身体運動をする。あるいは物質に運動を加える。仲間どうし、集団でその身体運動を共鳴させる。つまり、皆がいっせいに、その身体運動のイメージを感じる。脳の運動形成回路が、その運動を組み立て、そのイメージ信号が脳の各部に配布される。それがその運動のシンボルに結びついていく。(拙稿の見解では)共鳴できるその運動、その状況、その物質現象、の脳内シミュレーションに対応させるシンボルとしての音節列が語です。

この対応は、最初に、その語の創始者によって勝手に決められてしまう。それを、その言語集団の皆が学習して身につける。学習は、ふつう無意識に行われるが、ときには意識的に行われる。(拙稿の見解では)群棲動物に共有されている古い脳神経回路による集団運動の共鳴として、言語は学習される。人間は、個々の語や文を感知すると、それを、仲間がする集団運動として、無意識のうちに、追従して発声する。発声しない場合も、脳内の運動形成神経回路は、発声運動の信号を仮想運動として形成している。そうしてできあがる運動共鳴を繰り返すことで、条件反射として、私たちは言語の意味を習得する。

条件反射による言語の習得という理論は、初期の行動主義心理学として唱えられた(一九五七年 バラス・スキナー言語行動』)。言語生成理論の学説として、この理論は、言語発生機構の生得性を強調する生成文法理論(一九五六年 ノーム・チョムスキー言語記述の三モデル』)と二論対立するものとされる。拙稿の見解では、この二論は対立関係ではなく、補完的関係にある。発音運動と集団運動の共鳴を対応させる神経回路の発生は生得的(人類共通)であって、その集団共鳴の神経回路を使う語彙と文法の学習は後天的(言語集団特有)である、と素直に考えることが常識的と思うが、いかがでしょうか?

さて、拙稿の見解によれば、文法は、話題にする人物(や動物や擬人化された物事や概念)を脳内で表す身体運動のシミュレーションに語の連結を対応させる脳内プロセスです。これはスポーツのように反復的な条件反射によって形成された手続き記憶の一種です。たとえば、自転車の乗り方のように、反復練習によって、無意識のうちに身についてくる。自転車にまたがったとたんに身体がうまく動いて乗れる。自転車にまたがった身体からくる筋肉や平衡器官などの体性感覚が引き金になって、記憶から自転車でバランスを取る運動シミュレーションが呼び出される。それで運動を実行すると、それがまた引き金になって次の運動シミュレーションを記憶から呼び出す。そういう連鎖反応が、無意識のうちに起こって、じょうずに自転車に乗れる。

言語の場合、(拙稿の見解では)言葉が耳に入ったとたんにそれが引き金になって対応する運動シミュレーションが記憶から呼び出される。それで、文法の上でのその語の位置関係が分かる。そのように、言語の使い手が身体運動の記憶として覚えている語の連結手続きの集合が文法です。

文法は、いくつかの語を一列に連結して、「XXが○○をする」という形に並べる。これを文という。

文は主語と述語からなる。「XXが」が主語で「○○をする」が述語です。主語―述語、という言語の捉え方は、古代ギリシア哲学から始まる伝統的な定式化ですが、人類の言語の本質をうまく捉えている(二〇〇三年 ケイト・アレン『言語学界におけるアリストテレスの足跡)。実際、どこの言語も、人類の自然言語は例外なく、この形で作られている。これは、人類共通の、たぶん生得的な法則でしょう。拙稿も、この形式を言語の基本と考えます。(正確に言うと、主部と述部という。主語の役を果たす複数の語の連結を主部という。同じように、述語の役を果たす語の連結を述部といいます。しかし拙稿では、簡単のため、主部と主語、述部と述語は、それぞれ同じもの、ということにします)どれが主語でどれが述語かは、どの言語でも、それを母語にしている人は、無意識のうちに、見分けることができる。それが見分けられなければ、言葉の意味は分かりません。

主語と述語は、どのようにして見分けられるのか? それは、言語の使い手の脳内で、(拙稿の見解では)次のようなプロセスが無意識のうちに実行されるからです。

―まず、主語が表わす人物(や動物や擬人化された物や概念。以下「人物等」という)への注目が起こる。脳内でその人物等のモデルに憑依する仮想運動が起こる(憑依→拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。続いて、脳内シミュレーションでその人物等の内部に入って述語が表わす仮想運動を実行する。人間以外の動物や非生物についても、それが言葉で表されるときは、擬人化されるという点が重要です。

逆に言えば、主語で表されるものは、それが人物等として憑依できる擬人化された物事です。つまり、主語になる物事は擬人化されている人のようなものと感じられて、それが「何かをしようとしてする」、と感じられる。私たちは、ある文を思い浮かべると同時に、無意識のうちに、主語になる人物等に憑依して、それがする運動形成過程を私たちの脳に共鳴させて体感する。つまり、主語になる物事を思い浮かべることで、自動的に、私たちの脳内で、それに対応する運動形成回路が活動する。その活動が感情回路を活性化し、その物事の存在感を作り出す。それに続いて、主語に続く述語の表す運動のシミュレーションが起こってくる。

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