皇大神社の案内板、創建年月日は不詳とあり、なかなか正直でよろしい。見佐神社云々とある記事はなかなか興味深い、見佐村が武庫川の氾濫で流出したので、この皇大神社に合祀したとあります。武庫川の対岸に美座という街があったことを紹介しましたが、その辺りが旧の見佐村だったのではないかと思うのです。
神社の前に立てられた案内板、きれいな絵が描かれています。絵には有馬街道(首地蔵)とあり、首地蔵へ行く道が有馬街道だという意味でしょうね。その下には兵庫西宮街道、そしてその下に京伏見街道と並べられていますが、どの道がそれに相応するのやら少し解り辛いですね。
古い道標です。
案内板の横に建てられたこれも道標でしょうか。『とんかち館』の方角が示されていますが、この矢印は2枚の板によって方角が示されています。少し工夫したのですね。
ところがその『とんかち館』を見つけることが出来ませんでした。この小浜は大工街としても栄えたことがあったとか。
道標にあった『いわし坂』という所を目指して歩きましたが、坂の様子を見ると何の変哲もない坂なので、めんどくさくなって坂の手前で引返したのです。
坂の手前にこのような祠があって暫く眺めていたのですが、ここが宿の北門であることが判りました。
ホラね、案内板の裏に北門跡と彫られた碑が立っていました。この案内板は立てた位置が悪いです。
それなら南門の跡もあるのではないかと歩いていると、一番最初に小浜宿と書かれた看板の裏に南門跡があったのです。どうやら私は歩いた道順が悪かったのかも知れません。
小さな公園内に立っていたマップ、私は左下の右上へと伸びるループ状の道を上がっていき、3本目の角を右に曲がったのでした。
神社の前に立てられた案内板、きれいな絵が描かれています。絵には有馬街道(首地蔵)とあり、首地蔵へ行く道が有馬街道だという意味でしょうね。その下には兵庫西宮街道、そしてその下に京伏見街道と並べられていますが、どの道がそれに相応するのやら少し解り辛いですね。
古い道標です。
案内板の横に建てられたこれも道標でしょうか。『とんかち館』の方角が示されていますが、この矢印は2枚の板によって方角が示されています。少し工夫したのですね。
ところがその『とんかち館』を見つけることが出来ませんでした。この小浜は大工街としても栄えたことがあったとか。
道標にあった『いわし坂』という所を目指して歩きましたが、坂の様子を見ると何の変哲もない坂なので、めんどくさくなって坂の手前で引返したのです。
坂の手前にこのような祠があって暫く眺めていたのですが、ここが宿の北門であることが判りました。
ホラね、案内板の裏に北門跡と彫られた碑が立っていました。この案内板は立てた位置が悪いです。
それなら南門の跡もあるのではないかと歩いていると、一番最初に小浜宿と書かれた看板の裏に南門跡があったのです。どうやら私は歩いた道順が悪かったのかも知れません。
小さな公園内に立っていたマップ、私は左下の右上へと伸びるループ状の道を上がっていき、3本目の角を右に曲がったのでした。
前に見た日曜日にやっていた方が町民の立場で詳しかったですね。その時の映像も使っていました。あの時は確か、樫野の灯台での話は出てきませんでした。今回は国家的な規模での検証でした。
今から120年前って明治23年ですか、私が幼い頃なら、この海難事故を直接知っていた人も生きておられたんでしょうね。
『十三人の刺客』見ましたよ。これは今から165年前の出来事ですね。ちのとさんは若い俳優の名をどんどん挙げておられましたが、私は古い人ばかり知っていました。
さすが、役場も知らなかったのか「見てください放送」はなかったし、私もぼんくらさんと同じ、前の放送の方がよかったと思うし、今回の放送だけで、わざわざ映画化なんてことしなくても・・と感じましたね。というか、今度の放送は役場はあまり、タッチしなかったのでしょうね。
わぁ、『十三人の刺客』を観たのですか!そうか165年前のことですか・・。ただ漠然と映画見てる私と違いますね、歴史好きのぼんくらさんは。どうでしたか?またブログの方で書いてくれるんでしょうね、古い人って平幹二朗?
斬られ役の福本さんも出てましたね。ぼんくらさんの感想が楽しみだ!