ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

浄専寺

2011-06-02 05:00:00 | 大阪にて
興禅寺の前にお墓があり、その前になにやら説明文が書かれた案内板が立っています。浜田川水論牢死者墓碑とあり、1751年~1771年の20年間に浜田村と西難波村との間で田に引く水の件で争いがあったのでしょう。

浜田は旧武庫郡、西難波は旧川辺郡と統治が違い、そのために農業用水を巡っての争いだったようです。しかし郡が違えど隣町、水ぐらい仲良く分け合えばいいと思いませんか。そんなに意固地にならなくても良さそうなものですが、水量が少なかったのでしょうか。

             

明和元年に旱魃があり、そのために浜田西側の田に水を引くための分水路を夜半に淨専寺の境内北側に造ったのが原因で、村の役職者10名が捕えられ、全員牢死したというわけです。

安永年間にその碑を淨専寺境内に建てたそうですが、戦後現在地に移したと書いてありますが、淨専寺とここは目と鼻の先です。ところがここの何処に碑が建っているのか私は判りませんでした。

             

その淨専寺は松原神社のすぐ傍にあるので、行ってみました。でも玄関が見つけられません。

             

山門は見えるのですが、フェンスが貼ってあり、庭木を植えているので、何処から入るのか部外者には分らないようにしてあるのかも知れません。

             

これが道意線上の橋から撮った浜田川、興禅寺や松原神社の北側を通っています。川というより用水路ですね。この川を辿っていくと先々月に行っていた武庫町辺りの用水路を抜けて、養専寺の横を流れる水路に行き当たります。きっとその先は武庫川と繋がっているのでしょう。

             

浜浦町の交差点北東角にあった橘瑞泉郷と大きく掲げられた看板、何なん?と思ったけど、入っていったら小さな公園でした。

             

この辺りにはJRの立花駅があり、私の受け持ちは西立花町、なのにこの公園の名前には橘の文字が使われていますし、東西の通りも橘通りと書かれています。同じ“たちばな”でも違う意味で使われているのかも知れません。

                  

職場から西立花町まで歩いていくと東難波の街並を通るのですが、電柱には悉くこの和歌が貼られています。“難波津に咲くやこの花冬ごもり 今や春べと咲くやこの花”と有名な歌のようです。でも難波津は尼崎の難波地区ではなく、大阪市の中央区にあったという説が有力で、この地の電柱にいっぱい貼っても、難波津がここにあったという誘致運動にはならないでしょう。

             

この東難波町で盛んに行われている(私がよく目にするだけ、他の地域では見たことがないと言う意味)このゲーム、卓球のラケットより大き目のラケットで、テニスの半分ぐらいのコートでテニスのルールで行われているようです。

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