「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

役にたたない日々 2012・10・01

2012-10-01 07:00:00 | Weblog




今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「役にたたない日々」から。

「骨に再発した時転移と思わなくて、ガードレールをまたいだ時ポキッとしたから、整形外科で
レントゲンをとったら、オッパイを切った医者が顔色をかえた。

 ガン研を紹介してくれた。ガン研は今の病院を紹介してくれた。

 私はラッキーだった。担当医がいい男だったからだ。阿部寛の膝から下をちょん切った様な、
それに医者じゃないみたいにいばらない。いつも笑顔で、私週一度が楽しみになった。七十ババ
アでもいい男が好きで何が悪い。

 初めての診察の時、『あと何年もちますか』『ホスピスを入れて二年位かな』『いくらかかり
ますか死ぬまで』『一千万』『わかりました。抗ガン剤はやめて下さい。延命もやめて下さい。
なるべく普通の生活が出来るようにして下さい』『わかりました』(それから一年はたった)

 ラッキー、私は自由業で年金がないから九十まで生きたらどうしようとセコセコ貯金をしてい
た。

 私はその帰りにうちの近所のジャガーの代理店に行って、そこにあったイングリッシュグリーン
の車を指さして『それ下さい』と云った。私は国粋主義者だから今まで絶対に外車に意地でも乗ら
なかった。
 来たジャガーに乗った瞬間『あー私はこういう男を一生さがして間に合わなかったのだ』と感じ
た。シートがしっかりと私を守りますと云っている。そして余分なサービスは何もない、でも心か
ら信頼が自然にわき上がって来た。最後に乗る車がジャガーかよ、運がいいよナア。

 そしたらやきもちをやいた友達が、『佐野さんにはジャガーが似合わない』と云ってたそうだ。
何でだ、私が水呑百姓の子孫だからか。口惜しかったらお前も買え、早死すれば買えるんだ。私は
七十で死ぬのが理想だった。神は居る。私はきっといい子だったのだ。

 買って一週間たったらジャガーはボコボコになっていた。私は車庫入れが下手でうちの車庫は狭
いのだ。ボコボコのジャガーにのっていて、その上毎日カラスがボンネットの上にふんをする。

 私は今、何の義務もない。子供は育ち上がり、母も二年前に死んだ。どうしてもやりたい仕事が
あって死にきれないと思う程、私は仕事が好きではない。二年と云われたら十数年私を苦しめたウ
ツ病がほとんど消えた。人間は神秘だ。

 人生が急に充実して来た。毎日がとても楽しくて仕方ない。死ぬとわかるのは、自由の獲得と同
じだと思う。」

 (佐野洋子著「役にたたない日々」朝日文庫 所収)


コメント
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