「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2012・10・05

2012-10-05 07:00:00 | Weblog



今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「役にたたない日々」から。

「二〇〇四年夏

 ×月×日



 私は役所っぽいところに行くと必ず喧嘩ごしになる。いや役所の玄関から喧嘩ごしで入ってゆく
のである。いつか市役所に何かの証明書をとりに行ったら委任状がないと駄目だと云われた。
『委任状の紙ってどこかで売ってるんですか』『いや、別に何の紙でもいいです』『ハンコは実印
なんですか』『いや、三文判でいいです』『じゃ、私が、ここで書いてもいいんですか』『いや、
それは駄目です』『だったら見えないところで書けばいいんですか?』『そうです』

 何だこりゃ、私は腸(はらわた)が煮えくり返るのである。『じゃあね、私今から、あの柱のかげで
書くからね』『けっこうです』。けっこうですだって?私は柱のかげで委任状を書き、ハンコを押し
た。
『はい、委任状』『はい、けっこうです』
 これで、いいじゃん、とにかくくれるんだから、でも云うの私。

『筆跡鑑定とかするの?』『いいえ』『じゃあ、他の人が私と同じ事してもいいんだ。証明書くれる
んだ』『……規則ですから』『委任状なんて、あってもなくても同じじゃん』『規則ですから』

 役所は混んでいるんだ、窓口でいちゃもんをつけてる人は、他の人に迷惑である。しかし、私は止
めようとしてもだまっていられない。役所を出て来る時は、自己嫌悪の固まりでズーンと落ち込んで
いた。ああ、調布市役所の玄関が目に浮かぶ。

 しかし、私は、自分なりの原則はあるのである。『上の人に代わってよ』と云うことは絶対にしな
い。彼らには、妻も子もあるのである。私だって、そこまではしない。えらいじゃん、私。えらかな
いよ、別に。

 水道局の職員は、『やっちゃいられないよ、更年期のヒステリーババア』と私の悪口を云っている
だろう。悪いね、更年期なんかとっくに過ぎた。老人は攻撃的で機嫌が悪いのだ。」

 (佐野洋子著「役にたたない日々」朝日文庫 所収)





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