今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「少年のころから不思議でならなかったのは、鳥や毛ものが死んだ姿を見せないことだった。ついこの間私はわがアパートのベランダに来る雀や鳩は、何年か前のそれと同じかまたはその子か孫か区別がつかないと書いた。百年前の、千年前のそれとも区別がつかないと思うと多少の感慨がある。雀や鳩のほうから言わせれば、百年前の、千年前の人間も同じく区別がつかないだろうと私は思ったのである。
私が不審にたえなかったのは家畜の、ことに猫の死骸を見た人がないことである。自動車にひかれたのは別である。むかし犬猫を飼っていた人に聞いたら、屋外で飼っているかぎりある日とつぜんいなくなってそれきり帰ってこないという。きっと死期をさとって本能的に知る死に場所に去ったのだろうと、それ以上さがして甲斐ないとその日を命日と思っていると言った。禽獣はみなそうである。生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのである。
これからさきは少年の私が想像したことである。禽獣はある日胸騒ぎがする、それはこれまでついぞ感じたことがない胸騒ぎである。ただごとではないと知って、脚は何ものかに導かれて死に場所に赴くのである。」
(山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)
「少年のころから不思議でならなかったのは、鳥や毛ものが死んだ姿を見せないことだった。ついこの間私はわがアパートのベランダに来る雀や鳩は、何年か前のそれと同じかまたはその子か孫か区別がつかないと書いた。百年前の、千年前のそれとも区別がつかないと思うと多少の感慨がある。雀や鳩のほうから言わせれば、百年前の、千年前の人間も同じく区別がつかないだろうと私は思ったのである。
私が不審にたえなかったのは家畜の、ことに猫の死骸を見た人がないことである。自動車にひかれたのは別である。むかし犬猫を飼っていた人に聞いたら、屋外で飼っているかぎりある日とつぜんいなくなってそれきり帰ってこないという。きっと死期をさとって本能的に知る死に場所に去ったのだろうと、それ以上さがして甲斐ないとその日を命日と思っていると言った。禽獣はみなそうである。生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのである。
これからさきは少年の私が想像したことである。禽獣はある日胸騒ぎがする、それはこれまでついぞ感じたことがない胸騒ぎである。ただごとではないと知って、脚は何ものかに導かれて死に場所に赴くのである。」
(山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)