「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

証拠より論の時代 2005・12・04

2005-12-04 06:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「いま新聞に愛用されている言葉なら、みんな胡乱だと私は思っている。したがって用いない。唾棄しているものもある。『話しあい』『民の声は神の声』『正直者はバカをみる』『千万人といえども我往かん』などである。
 『話しあい』と聞いただけで私はぞっとすると言うと『なにッ』と新聞の読者は気色ばむ。戦後三十年話しあいはいいことの極になっているからである。
 どういう間違いか、拙宅へ北朝鮮の新聞が送られてくる。この新聞によるとビルマにおける韓国閣僚の暗殺事件は『北の仕業』ではあり得ない、あれは全斗煥自作自演の芝居で、全斗煥ひとり助かったのが何よりの証拠だと連日書いているから、北朝鮮人民がこれを信じること、韓国国民が北の仕業だと信じるが如しである。
 イデオロギーの相違は深刻かつ根本的で、到底話しあいなんかで片づくものではない。すなわち『暴力』が出る幕である。
 大衆社会は大衆に世辞をつかう社会で、大衆を批評することがタブーである社会である。したがってよしんば信じてなくても、何事も話しあいで解決できると言わなければならないから、新聞は言い続けているうちに怪しや自分も信じるようになって、話しあいを嗤う閣僚があらわれると真顔で辞任を迫るに至るのである。
 正直者はバカをみるというのも大衆に媚びる言葉で、読者大衆は正直だからながく下積みでいた、うだつがあがらなかったと言えば読者を喜ばすことができる。しかもタダである。なにうまく立回ろうとして仕損じただけかもしれないのである。民の声は神の声というのもとんでもない迎合である。大衆は一時は欺くことができても、ながくはできないというのも世辞である。
 それでいて政治家に千万人といえども我往かんと言えというのは矛盾である。万一気にいらぬことを言ったら袋だたきにするのが大衆であり新聞である。だからこの金言は、千万人も往くならオレも往こうと訳すべきで、もし真の政治家がいたらオレも往くふりをして大衆を自在に操ってあらぬ処へつれ去る。大衆は欺かれるためにいると古人は言っている。」

 「論より証拠というのは昔のことで、今は証拠より論の時代だとは何度も言った。論じれば証拠なんかどうにでもなる。」


  (山本夏彦著「不意のことば」-夏彦の写真コラム-新潮社刊 所収)
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