今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「私は人間とそれに準ずるものにしか興味をもたない。俗に景を叙して情を述べるというが、私が景を叙すのは情を
述べるためで、人事に関しない景色なら私は見ない。見れども見えない。その代り人間なら老若男女どんな人でも見る。
それに準ずる禽獣も、人間と同じレベルで見る。どんな美人も例外ではない。むろん美人として注目するが、べつに
老若男女の一員として、また禽獣の一員としても見る。
その目で見ると美人は、現美人ともと美人に分れる。もと美人たちは残念に思っている。もと美人には、若いときは
さぞかしと察しられる美人と、察しられない美人とがある。顔だちがよかったり姿がよかったりすることによって美人
だったひとは、二十年たってもその面影があるから、周囲がそれを言ってくれる。
言われて改めて見れば、いかにもそうだったろうと若者たちにも思われて、うなずくものがあるからもと美人は満足
するのである。いっぽう今は全くその痕跡をとどめない美人は、水分によって美人だったひとで、このたぐいは水分が
蒸発してしまうと美人だった面影をとどめない。
自分がもと美人だったことは、他人が言ってくれて自分が打消して、はじめて体裁がととのうのである。水もしたたる
というから水分といったが、ホルモンといってもいい。ホルモンがみなぎって、あふれて、美しいひとがある。それは
男にも女にもあるが、ながくは続かない。せいぜい四、五年である。昭和五十四年現在、私たちはそれを大竹しのぶと
いう女優に見る。彼女はぴかぴか輝いている。
以下は一般論で、大竹嬢のことではない。ホルモンによる美人は、その輝きが去ると、、もうだれも彼女が美人だった
ことを知らない。知っているものは言ってくれない。言っても誰も信じないから言わないのに、意地悪して言ってくれない
と彼女は思う。たいていの女は、それを忘れようとして忘れるが、忘れかねて若いときの写真をいつも胸に秘蔵している
老女がある。機会をうかがって見せるのである。見せられた客は、実物と見くらべてあっけにとられ、あとで仲間とざん
こくな笑いを笑う。けれども、彼女は女のなかの女なのである。それを笑う資格あるものは男にも女にもないのである。
『欲望という名の電車』という映画は、タイトルの意味がよく分らないのでかえって記憶されている。ヴィヴィアン・
リーの扮した女主人公はもと美人で、思う男と逢引きするときはいつもきまって夜である。その容色の衰えを見せまいと
して、暗い席を選んで坐る。あとで男に捨てられるとき、『お前がおれと、いつも夜しか会わなかったわけがわかったよ』
と女は言われるのである。
ヴィヴィアン・リーが、いま美人からもと美人に転じたのはいつだったのだろうか。まだ若い彼女の顔の下にひそかに
老女の顔の準備がととのって、それが表面に出たがって、せめいでいるのを見て監督は彼女を選んだのだろうか。」
(山本夏彦著「恋に似たもの」文春文庫 所収)

「私は人間とそれに準ずるものにしか興味をもたない。俗に景を叙して情を述べるというが、私が景を叙すのは情を
述べるためで、人事に関しない景色なら私は見ない。見れども見えない。その代り人間なら老若男女どんな人でも見る。
それに準ずる禽獣も、人間と同じレベルで見る。どんな美人も例外ではない。むろん美人として注目するが、べつに
老若男女の一員として、また禽獣の一員としても見る。
その目で見ると美人は、現美人ともと美人に分れる。もと美人たちは残念に思っている。もと美人には、若いときは
さぞかしと察しられる美人と、察しられない美人とがある。顔だちがよかったり姿がよかったりすることによって美人
だったひとは、二十年たってもその面影があるから、周囲がそれを言ってくれる。
言われて改めて見れば、いかにもそうだったろうと若者たちにも思われて、うなずくものがあるからもと美人は満足
するのである。いっぽう今は全くその痕跡をとどめない美人は、水分によって美人だったひとで、このたぐいは水分が
蒸発してしまうと美人だった面影をとどめない。
自分がもと美人だったことは、他人が言ってくれて自分が打消して、はじめて体裁がととのうのである。水もしたたる
というから水分といったが、ホルモンといってもいい。ホルモンがみなぎって、あふれて、美しいひとがある。それは
男にも女にもあるが、ながくは続かない。せいぜい四、五年である。昭和五十四年現在、私たちはそれを大竹しのぶと
いう女優に見る。彼女はぴかぴか輝いている。
以下は一般論で、大竹嬢のことではない。ホルモンによる美人は、その輝きが去ると、、もうだれも彼女が美人だった
ことを知らない。知っているものは言ってくれない。言っても誰も信じないから言わないのに、意地悪して言ってくれない
と彼女は思う。たいていの女は、それを忘れようとして忘れるが、忘れかねて若いときの写真をいつも胸に秘蔵している
老女がある。機会をうかがって見せるのである。見せられた客は、実物と見くらべてあっけにとられ、あとで仲間とざん
こくな笑いを笑う。けれども、彼女は女のなかの女なのである。それを笑う資格あるものは男にも女にもないのである。
『欲望という名の電車』という映画は、タイトルの意味がよく分らないのでかえって記憶されている。ヴィヴィアン・
リーの扮した女主人公はもと美人で、思う男と逢引きするときはいつもきまって夜である。その容色の衰えを見せまいと
して、暗い席を選んで坐る。あとで男に捨てられるとき、『お前がおれと、いつも夜しか会わなかったわけがわかったよ』
と女は言われるのである。
ヴィヴィアン・リーが、いま美人からもと美人に転じたのはいつだったのだろうか。まだ若い彼女の顔の下にひそかに
老女の顔の準備がととのって、それが表面に出たがって、せめいでいるのを見て監督は彼女を選んだのだろうか。」
(山本夏彦著「恋に似たもの」文春文庫 所収)
