国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

僕の苦手な『マイ・ファニー・バレンタイン』

2011年12月15日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
今年も残すところあと半月となってきた。
年末には毎年恒例の紅と白に分かれて歌を競い合う戦いもある。
特に興味があるわけではないのだが、
毎年同じような歌を歌っている歌手がいるのには少々興味がある。

歌手にとって生涯全ての歌が耳に残るというのは奇跡だ。
だから毎年同じような歌を歌ってしまうのは、
聴くこちら側も「あの人ならこの曲だろう」的な勝手な思い込みがあり、
結果としてそれを歌われると「ああ、やっぱり」と
イメージが更に固定化されていってしまうことに原因があるのだろう。

マイルスは言った。
「昔の曲が聴きたいなら、レコードを買え」と(確かこんな感じだ)
その言は正しい。
この間のエリック・クラプトンのライヴでも近くの人が
「「レイラ」やらなかったね」とクラプトンの名曲をやらないことに残念がっていた。
ミュージシャンはジュークボックスではないから、
別に名曲を演奏する義務もないし、むしろ聴き手に媚びないでやりたい演奏をする
という姿勢には潔さも感じる。

まぁ、それはともかくとして、
「レコードを買え」と言ったマイルスも黄金のクインテット期には、
新しい解釈で昔の曲を演奏していた。
それはアリだろう。
曲がその時期に応じて形や解釈が変わるのはジャズとしては当然のことだ。

その中の1枚、『マイ・ファニー・バレンタイン』
この「ファニー」で「バレンタイン」という甘いタイトルに釣られて
マイルスのアルバムの中では売り上げが高い方だという。

正直言って僕はこのアルバムが好きではない。
別に「バレンタイン」に鼻血が出るほどチョコレートを貰ったことがないからではない。
そもそも「バレンタイン」は人の名前だ。
どうにも静かなのだ。
ジャズだからしっとりと聴くのがいいだろうというのは間違いである。
本来ジャズは燃えたぎるような高炉の如く灼熱の音楽である。
そして時々しっとりとくるのがいい。
そう毎日しっとりときすぎては何を持って
明日へのエネルギーにすればいいのか分からない。

とりあえずタイトル曲は避けたい。
ハービー・ハンコックのピアノソロで幕が開くが「ピロロロン」と優雅だ。
そこにマイルスが更に優雅に「こうやるんだ!」と静かに(もったいぶって)吹く。
悪いはずはない。
だが、それは気持ちがしっとりしたい時だ。
ゆっくりとしたバラードが嫌いな人などいないだろう。
だが、「バラードが好きなんです」と口に出していったらいけない。
そういうものは心にグッと留めて置くものなのだ。
みんな言わなくたってそんなことは分かっているのだから。

B面に当たる「ステラ・バイ・スターライト」から行った方がいい。
次の「オール・ブルース」でどうにか心も盛り上がってくる。

演奏の善し悪しを言っているわけではない。
これはあくまで気持ちの問題なのだ。それがフィットする日だってある。
そういう日に聴きたい場合は生というわけにはいかない。
それこそ「レコード」を買うべきだろう。

サド・ジョーンズは忘れた頃にやってくる

2011年12月13日 | マスターの独り言(曲のこと)
僕は鳥が嫌いだ。
正直、鳥を飼っている場所には近づきたくないし、
卵を生産している工場など近づくのも絶対にイヤである。
これには理由があるようだ。
幼い頃、動物園に行って、たまたま鳥(おそらくクジャク)の大名行列に出会わした。
相手は「斬り捨てゴメン」とは言わなかったけれど、
おそらく僕は襲われている。
つい最近まで自分では夢と思っていたのだが、
どうやらそれは記憶が丁寧にフタをしておいてくれたようだ。
だが、鳥には近づきたいとは身体が思わない。

このジャケットのサド・ジョーンズのような状況になった時、
僕は動くこともままならないどころか、卒倒してもおかしくない状況である。
優雅にタバコを持って吹かしている場合ではない。
今もってサド・ジョーンズが
何故ハトに囲まれる状況のジャケットが作られているのか
そのことにさえ、当事者ではないのに身が固まる思いだ。

まぁ、だから音楽がどうだというわけではない。
時々、取り出して聴いてみたくなる演奏なのだ。
最初にこれを聴いたのは神保町の『BIG BOY』だ。
ジャズは好きだったけれど、どうにもこのアルバムは「う~ん」だった。
ハトの所為ではない。
演奏がたまらなくスローなのだ。

1曲目「エイプリル・イン・パリ」は、名曲であっても
このアルバムではパンチが無い。
「もっとグイグイ来いよ!」というのは若さの性か。
買ってみてからもそうそう聴くわけではないのだが、時々思い出したようにかけてみる。
するとたまらなく胸に迫ってくるのだ。
サド・ジョーンズのトランペットは
瑞々しく、パーシー・ヒースのベースに心地よくのっている。
マックス・ローチのブラシさばきも「ジャッシャ」と主張をしている。
思い出したかのようなバリー・ハリスのピアノもいい。

ああ、良いところが聞こえてくるではないか。
そう、これがジャズの醍醐味なのだ。
たとえ鳥は嫌いでも、ジャズは嫌いになってはいけない。
忘れた頃にきっと心に響くのだから…

ちなみに鳥は嫌いだが、鶏肉は大好物である。

柔らかな歌声が支配する静かな夜の刻

2011年12月12日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
オーディオをいじってみるといろいろな音を聴いてみたくなる。
それはただ単に「音が変わった」という喜びからではなく、
「これをかけたらどうなるのだろうか?」という好奇心の方が強い。
そもそもオーディオの音が変わったとしても、それが果たして良くなったのか、
それともやっぱり良くないのか、なかなか判断の仕様がない。

まぁ、幸いなことに僕には聴こうと思っている音楽が多々ある。
とはいっても夜も更けてきた時間に
ヒップホップの低音を「ズンズン」鳴らすのも気が引ける。
静かな方がいいというわけではないのだが、
とりあえずヴォーカルなどはどうだろうと思い、取り出したのが、
カーメン・マクレイの『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』である。

これは東京の新宿にある(正確に言うとあった)ジャズ喫茶『DUG』で
カーメンがピアノの弾き語りソロで歌った時のものである。
これは僕がオーディオ関連で垂涎の機器の載る
田中伊佐資氏の『僕のオーディオジコマン開陳』に紹介されていて
「オーディオは買えないけれど、とりあえずCDぐらいは…」という
ひねた思いで買ったものである。

録音のエピソードが面白い。
『DUG』でのライヴ前に、カーメンはオーナーであった中平穂積氏に
「ラーメンが食べたい」と所望し、2杯ペロペロッといってから演奏に臨んだと言う。
とてもそんな脂ぎった感じのする演奏ではない。

カーメンの歌い方はゆっくりと音を置くかのように、
それでもジットリと粘り気のあるように歌う。
それこそ時間を十分にかけて、その時間を支配下に置くように…
ピアノはあくまでお飾りかと思っていると、
いつの間にか歌間に流れるピアノにもやられている。
澄んだと言うと月並みだが、耳に抜けるような透明感のある音が歌を彩る。

この柔らかな時間がたまらなく愛おしい。

「魔女」が「大地」で踊る時、その音は変わるのか?

2011年12月11日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
昨日、エリック・クラプトンとスティーヴ・ウィンウッドのライヴに行ってきた。
行くまでの紆余曲折からライヴの印象まで様々なことがあったので
それについて書きたいのだが、
まぁ、今日は実はそれではないことを書こうと思う。

ライヴを聴いていて思ったのが、
「ウチのオーディオはやっぱり生の足下にも及んでないなぁ」ということである。
クラプトンのギターソロがあまりにも素晴らしく、
それこそ「生々しい」という表現があっていたのだが、
一方で事前に聴いていた『マディソン・スクエア・ガーデン』から、
どうにもその「生々しさ」が感じられなかった。

全てが全て「生」をオーディオで再生できるなどあり得ない話ではあるが、
それでも求めるべきは「心にズドンと来る音」なのだ。
口ではなかなか言えないが、「おお、これは!」という音があるわけだ。

今朝、ふと「電源ケーブルを入れかえたらどうだろう?」と思った。
限られたオーディオ設備をホイホイと替えるのは難しい。
電源ケーブルだけは一応純正ではなく、それなりに替えてある。
特にちょっと身の丈に合わないのだが、ヨルマ・デザインというスウェーデンの
「ACランダ」というケーブルをアンプ用に使っていた。
これには「ピン」と来た。
オーディオのイロハも知らないのだが、
「ランダ」というインドネシアのバリ島の魔女の名前と通じ、
「これだ!」と直感買いしてしまったのだ。
(本当は「大地」という意味らしい)

ところが替えたところで「う~ん」という感じであった。
高いケーブルを買ったところで変化が出るかどうかは難しいところなのだ。
それを今日、電源タップに付けてみた。
「おそらく電気が最初に通るところだからそこを一番良くしてみたら…」的発想である。

グッと変わった!
低音がはっきりとしてきて、音も塊からパラパラと少し離れてきたのだ。
エヴァンスの『エクスプロレイションズ』では
スコット・ラファロのベースが少ししっかりと主張を始め、
ウェザーリポートの『スウィートナイター』では、
今まで聴き取りにくかったミロスラフ・ヴィトウスのベースが
「ズンズン」と迫ってくる。

そして件の『マディソン・スクエア・ガーデン』
少しだけ、昨日の演奏に近づいたか?
まぁ、そんな簡単にいくわけではないが、低音がはっきりしてきたのは事実だ。
こんな単純なことで音が変わるのだからオーディオは難しい。
でも、逆に手はいろいろとあることが分かるわけだ。
さぁ、次は何をして音を変えていこうか?

月の欠けるこんな夜には…

2011年12月10日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
月が欠けている。
今日は何年(何十年?)かぶりの皆既日食だそうだ。
たまたま今日は外に出ていたこともあり、
ふっと空を見上げたら丸い月に影が差していた。
村上春樹の『1Q84』のように月は2つにはなっていなかったけれど、
月に不思議なことが起こると、
何かただごとではないような気持ちになってしまう。

自然というのは改めて不思議なものだと感じずにはいられない。
せっかくのこんな夜だ。
安易にジャズの話は無粋というものだろう。
寒空の下、外に出る気持ちにはならないけれど、
そっと欠けて、顔を隠してしまう月を想像するには面白い。

BGMは、そうだなぁ、ビル・エヴァンスの『ムーン・ビームス』では単純だろう。
ミルト・ジャクソンの「ムーン・レイ」でも聴いてみよう。
冷たい金属音のするヴァイブにミルト・ジャクソンが
ホットするような柔らかな温もりを与えてくれる。
それは今宵の空と同様にマジックのように不思議な瞬間なのだ。