国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

「ひさしぶりの美術館へ」紀行 「人々は彼女を目で犯し続ける」

2011年12月23日 | マスターの紀行文
小学6年生のころである。
翌年から中学へ進級するということもあり、何を血迷ったのか
お年玉を使って参考書のセットを買ってしまった。
大半は枕にもならなかったのだが、一冊だけ何度もめくったものがある。
タイトルは失念したが、世界の異人を一挙に集めたものであった。

その中に1枚のヌード画があった。
タイトルは「裸体のマハ」である。画家の名前はフランシスコ・デ・ゴヤだ。
純朴の少年心をあざ笑うかのように裸の外国の女性が
惜しげもなくその裸体をさらしている絵に少なからず興奮を覚えた。
何も中学生の参考書に裸の女性の絵を使う必要性はないと思うのだが…

後のその絵と対になるものがあることを知った。
「着衣のマハ」である。
その絵が今、上野の国立西洋美術館に来ているとなれば、行かないわけにはいかない。
加えて今年の4月頃に堀田善衞の『ゴヤ』を読んだからなおさらだ。
この本はただの伝記ではなく、堀田氏が実際の絵を見て、そこから感じるゴヤの人柄を
時に激しく非難し、時に同情的になり、時に優しいながらも冷静に
書き起こした名著である。

ゴヤとは何かと物議をかもし出す画家でもある。
出世のために他人を蹴落とし、一方でお役所仕事では禁じられている戯画を描き、
身分の高いものに媚びへつらい、破滅を象徴しそうな「黒い絵」を描く。

「着衣のマハ」と「裸体のマハ」は
時のスペイン宰相であったマヌエル・ゴドイの邸宅に飾ってあったという。
この宰相もひと癖ふた癖あり、ゴヤ好きではなかったと言われている。
頼まれれば絵を描くのが画家の仕事である。
まず「裸体のマハ」を描き、その後に「着衣のマハ」を描いている。
普段は「着衣のマハ」が飾られ、
からくりで「裸体のマハ」が表れるように飾られていたという。

実は2つの絵を見比べてみると「着衣のマハ」の方が目元が柔らかい。
ソファーに軽やかに身を横たえ、目はどこからでもこちらをとらえている。
グッと伸ばされた両腕は、胸元を強調し、その白い布地の向こうのある
健康的で挑発的な肉体を想像させる。

当然ながら今回の「ゴヤ展」の目玉である。
多くの人はそれを見ることをめあてに来館してくる。
だが、見ていたのはあちらのはずなのに、
いつの間にか見ているこちらが「ジロジロ」と
否応なく件の絵の上の女性に目を這わせる。
絵の中の女性は嫌がっているようには全く見えない。
むしろこちら側が目を這わせるのを待ちわびていたかのように嘲笑しているようだ。
その後ろにはゴヤという画家が、馬鹿笑いをしてこちらを見ているようにも思えてくる。

ゴヤは宮廷画家でありながら、人間の本性をも描き出したいと願った画家である。
己も欲深く、しかし他人も欲深い。
美しい絵の前では己が静かに映っている。

彼女はそっと囁いたようだ。「今度はスペインで会いましょう」と。
真に怖ろしい女性の誘惑だ。
スペインへ行けば、彼女の全てを見ることはできる。
だが、彼女の全ては手に入らない。

有名曲が僕らに魅せる灰色の夢

2011年12月21日 | マスターの独り言(曲のこと)
あまりにも有名であるとなかなか手を出しにくいアルバムがある。
特にこの1曲目はそうだろう。
「クレオパトラの夢」
きっと曲名は聞いたことがなくともメロディーを聴けば
すぐにラジオやテレビで聞いたことがあることに気が付くだろう。
そう、バド・パウエルの『ザ・シーン・チェンジズ』の1曲目である。

このアルバムはバド・パウエルのブルーノート最後の作品であり、
日本人が最も聴くと思われるパウエルのアルバムである。
だが、どれほどの人がこのアルバムに流れる
パウエルの業を聴き取ることができただろうか。
正直僕にはできていない。

このアルバムは名曲である「クレオパトラズ・ドリーム」が入っているため
その心地よいテーマに耳を眩まされてしまう。
その根底にあるパウエルの凄みを味わうには何度も向かい合う必要がある。

このアルバムを録音した頃のパウエルは最絶頂期を過ぎたと言われており、
この後にフランスへと渡ってしまう。
確かにジャケットに写るパウエルは
「灰色の脳細胞」を十分活用できるというエルキュール・ポアロのような
卵のような丸顔に口髭で、神経過敏なところを感じさせる。

うめきながらピアノを弾く彼は、実は鍵盤の上を動く指が
彼の思考と一致させることができずについついメロディーをうなりながら
弾いてしまうのだと言われている。
確かに最絶頂期を越えたとはいえ、パウエルのピアノは速い。

不思議なことにパウエルの音というのは明るさがない。
ピアノはどれも同じ音がするだろうと思っていてはいけない。
パウエルの弾く音はどれも暗く、マイナー調になってしまうのだ。

「クレオパトラズ・ドリーム」では、
テーマのあとにパウエルの軽やかにメロディーを流す。
だが時折落ちる和音が要石の如く重い。
跳ねるような音ではなく、横に連なるようなメロディーは艶やかで美しい。
しかし明るさはなく、音に濁りがあり、どこか忙しなさを感じさせ、
深くどこまでも落ちていくような陶酔感を与える。
「クレオパトラの夢」と情調的タイトルは付いているが、
それもあくまで雰囲気的なタイトルであり、意味があったわけではない。
それでもその灰色の夢は悲劇的で美顔の女王が見た夢の印象を与えてくる。

最後にひとつこぼれ話。
パウエルから影響を受けた秋吉敏子はずいぶん後になってこの曲を知ったそうだ。
初めて聴いて「なかなか良い曲ね」と感想を言った。
パウエルの曲はこれ一曲では決まらないし、
この曲だけではパウエルの凄みにははまれない。

エリック・クラプトンとスティーブ・ウインウッドのライブが始まると、僕はかなり前のめりに…

2011年12月20日 | マスターの独り言(ライブのこと)
この日は気分的なものもあり、オペラグラスも用意をしていなかった。
最近は歌っている人を見るというよりも
その人が歌っている歌を聴くという方に集中するということもあり
クラプトンが見えようと見えまいとあまり大きな問題ではないとも思っていたからだ。

会場は始まる前から異様な雰囲気だった。
往年のクラプトンファンたちはそれなりの年齢を重ねていたし、
若めの人や外国からの来訪者たちは雄叫びを上げ、コンタクトを取り合っていた。
僕は少々窮屈な席にぐっと身を縮めるととにかくその時を待った。

クラプトンとウインウッドが出てくると会場が一気に沸いた。
1曲目は『マディソン・スクエア・ガーデン』と同様に
ブラインド・フェイスの「ハッド・トゥ・クライ・トゥデイ」だった。
最初から超絶的なクラプトンのギターのテクが冴える。
CDで聴いていると実感がわきにくいのだが、
実際に演奏をしているのを聴いてみるとクラプトンのギターは半端じゃなくカッコイイ。
稚拙な表現かもしれないが、巨大な蛇がのたうち、身を地面に叩きつけるような
全然へこたれないような強さとともにシュルシュルと地を這うような素早さがあった。
それがより感じられたのが中ごろにあったアコースティックでの演奏である。
ちょうどライヴも中だるみをしてくる頃だが、
クラプトンのギターの凄みが感じられる演奏だった。
次々に紡ぎ出されるフレーズは丁寧に積み重ねられていき、徐々に熱を帯びてくる。
そこにウインウッドも加わり、
演奏している2人がまるで別世界で興じているかのような空気へと変わっていく。

今回のライヴで楽しみにしていたのが、ドラムのスティーブ・ガットだ。
ジャズ・ミュージシャンとも共演の多いスティーブのドラミングは的確で
かつ曲の鼓動のように生き生きとしたリズムを与えていた。
同時にキーボードのクリス・スタイントンがかなりキテいた。
長髪でその表情は見えなかったが、クラプトンとウインウッドを刺激し続けるような
挑発的で高揚感のある演奏を繰り広げていた。
正直、彼の働きは大きかったと思う。

2時間半近く、MCが入るわけでもなくひたすら演奏が続く。
ジミヘンの「ヴードゥ・チャイルド」もお約束のように演奏をして
武道館を一気に異空間へと変容させていた。

ノリたい人は多かっただろうが、席に座っての武道館ライヴだ。
立ち上がる人もいないで静かに聴くという雰囲気があったが、
それでも最後は立ち上がって熱烈な拍手となった。
最終日だからアンコールが2度ぐらいはあるかなと思っていたが、
通常通りの1回で終わったが、終わった後もスタッフの人がアリーナに
様々な物(おそらくピックだと思うが)を投げ込んでいて
それに人が群がっているという光景も見られた。

最初は躊躇もあったが、結果として聴いておいてよかったと思う。
ライヴにはライブでしか味わえない興奮と感動がある。
たとえそれが一時的であれ、身体に流れた熱は一生静かに燃え続けるものなのだ。

エリック・クラプトンとスティーブ・ウインウッドがやって来たが、僕はかなりの後ろ向き…

2011年12月18日 | マスターの独り言(ライブのこと)
先週の土曜日のことである。
12月10日に日本武道館へエリック・クラプトンとスティーブ・ウインウッドの
ライブを聴きに行ってきた。
正直行くか行くまいかをかなり悩んだ。
11月の末ぐらいに「行こう!」と思ったら、
仕事の忙しさでチケットを取ることができなかった。
「まぁ、ギリギリまで残ってるから当日券でも大丈夫だろう…」と思い、
当日になったら「う~ん、高いなぁ~」となった。

とりあえずお茶の水まで出て悩む。
「九段下まで歩くか…」
歩きながらも「まぁ、ダメだったらいいし、ダメじゃなかったらせっかくの機会だから」
などと後ろ向きな考え方だった。
僕はロック畑ではないため、エリック・クラプトンだって名前を知れども
演奏もそんなに聴いたことがない。
一応『ブラインド・フェイス』のアルバムは持っているが、
それだって聴いていないに等しい。
有名だからという理由で行くには少々チケットも高い。
だが、「もしも」がある。
エリック・クラプトンが今後体調を崩しでもしたら最後の来日だって考えられる。
そう思うと今後の話のネタに聴いておいた方がいいのかも…

武道館に着くまで永遠と堂々巡りが続く。
武道館に来たのは大学の卒業式以来である。
当日券の場所にも人の数が少ないのを見て、意を決した。
「一応、聴いておこう」(この時点でもまだ後ろ向きだ!)

無事に当日券を入手できたが、実はこのあと一度新宿にまで出る用事があった。
頼んでおいたレコードを取りに行かなければならないのだ。
時計を見ると開演まであと2時間もない。
慌てて九段下の駅から新宿まで出て用事を済ます。
もうチケットを入手してしまったので、迷いもできない。
とにかく急いで武道館へと戻る。
手に持ったレコードが今度は邪魔になったがいたしかない。

先ほどまで人の列もなかったのに武道館前は人だかりである。
これも「まぁ、あとでか…」と思っていた物販場にも人が並んでいる。
「しまった!」と思い、すぐに並ぶが目当てのタオルを売り切れで買い逃してしまった。
涙をのんでTシャツを一着買い、いよいよ会場へと入る。

当日券というのはよろしくない。
1階とあったから「良かったなぁ」と思っていたら、武道館はアリーナ席があったのだ。
しかも席はほぼステージのバックに近く、前を見るとアリーナのお客が見える。
まぁ、よく言えばステージ脇からよく見える歌舞伎で言う桟敷席なのだが、
ちょっと距離がありすぎた。
しかしそんな難もライブが始まると消えるのである…

『いーぐる』連続講演の年終わり

2011年12月17日 | 他店訪問
今日はひさしぶりに『いーぐる』に行ってきた。
今年最後の連続講演があるためだ。
『いーぐる』の年終わりの講演は、その年のベストアルバムをかける企画になっている。
連続講演の講演者たちがそれぞれに選んだアルバムを持ち寄り
今年のジャズの傾向などを知ることができるわけだ。

僕は今までこの講演には参加したことがない。
なかなか新しいジャズまで手が届かないし、
この時期は仕事も忙しいからどちらかというと行かない講演なのだ。
だが、今年は違う。
今年は『いーぐる』ではヒップホップやワールド・ミュージックへと
楽曲の幅を伸ばした講演が多く行われた。
そうなるとアルバムも意外にジャズの他からも出るのかも…と考えたからだ。

結果から言えば基本的はジャズ路線だった。
だが、今までほとんど新譜に目を向けていなかったため
現在のジャズの勢いのあるアルバムを知るには良い機会だった。
やっぱりヴィジェイ・アイヤーは追わなくてはダメだなと思った。
どうやらインド系のジャズ・ミュージシャンたちが今は台頭してきているようだ。
演奏もどこかエスニックでありながら、即興もあり、個々の演奏技術も高い。

あと気になったのはマイルスの『スケッチ・オブ・スペイン』の新解釈をしたアルバムと
ハル・シンガーのアルバムである。
ポール・モチアン系も多かった。
それぞれの選曲者たちが個性豊かにアルバムを紹介するのはなかなか面白かった。
一方でどうしても長くなってしまうから、聴きながらも疲れが出てくる。

ローランド・カークやチャーリー・パーカーの未発表の演奏も紹介されたりして、
ジャズもまだまだ新たに見つかるものが多いと思った。
まぁ、最近いろいろと浮気をしているが、
やっぱりジャズを浴びるのは気持ちがいい。
どうやらこれからまた「密林」に迷い込まなくては…

※今日の写真はヴィジェイ・アイヤーの『リイメージニング』
 これは2004年の録音である。