寅の子文庫の、とらのこ日記

本が読みたいけど本が読めない備忘録

今年初の古書出張買い取りは熱海市まで。

2008年01月25日 17時44分58秒 | 買い取りと配達の現場から

今年初めての古本出張買い取りは片道1時間のドライブで熱海市まで。前日の道路交通情報では積雪のため県道20号線(熱函道路=ねっかんどうろ)は熱海峠付近でチェーン規制を敷いていたが一夜明けて低気圧は去り風は冷たいものの天気快晴、万一に備えて購入したタイヤチャーンは取り越し苦労となった。



待ち合わせの時間より30分早く1時現着。空家になったマンションに残された故人所縁の全蔵書を処分したいとのお話は軽トラック1台分(積載350kgまで)では到底積みきれぬ。パート帰りの母さんの車に応援を頼もうかとも考えたがチャイルドシートに赤ん坊を乗せているので土台無理。また暮れに続いた買い取りで倉庫はパンク寸前。事情を話して本棚から荷台1台分に絞ることで了解を得た。後に日をあらためてもう一回戦というお誘いは勘弁して貰う。査定で2時間、台車に目一杯を3回運んで1時間、もう陽は西に傾いていた。



運転席はズシリと沈み、帰りの峠越えはノロノロ運転。50kmの法定速度を守ったので?後続車両に行列ができてしまった。路肩で小休止して後ろの車に道をあけた。昨日の雪がまだちらほらと名残を見せている。



反対車線に目を遣れば丹那盆地の向こうに愛鷹山塊と霊峰富士が見える。路面が滑る前に山を下らないとー。



午後6時無事帰還。走行距離往復で60キロ。荷台の帆布シートはもう夜露で濡れている。母さんが鰻を焼いて待っててくれた。さあ倉庫へ運び入れるまでもうひと踏ん張り、今日やる仕事を明日に延ばさない!



一年半前に建てた7畳半の倉庫は既に足の踏み場もないほど。分類整理と新着UPを怠るな。

一期一会の思いで誠心誠意、買い取りに向き合う。
ニ往復できずすみません、
つい余計な話をして長居をしました。
横浜から遠路立会いに来てくださったUさん、
ほんとうに有難うございました。

バラエティ番組当分見ない!

2008年01月22日 21時32分49秒 | 生活手帳
たった今の話・・・

お茶が入りましたー、と母さんの声。
パソコンの手をとめて階段を下りる。
バアバもコテツもケーキを食べながらテレビに見入っている。

16才だけど背の高さが50センチしかないんだって!
・・・・・
こないだもやってたよね、
17才の姉妹で体は90才とかー。
・・・・・
茶の間のテレビはいつから見世物小屋になったのだ(怒)
勘助も終わったしもう当分テレビは見ない!!

『山本重爆撃隊の栄光/陸軍航空戦記』粕谷俊夫著

2008年01月21日 04時47分36秒 | 15年戦争
15年戦争の本棚には行き場のない故人の蔵書処分で買い取りに出した(売りに出した)と思われる本が不思議とよく集まる。予めその趣旨をメールで話してくださる方もいれば届いた梱包を解いた瞬間、鼻をつく経年独特の古本臭さでそれと気付くときもある。初めの頃は一冊一冊、何処の何方から買い取りした本などと丹念に記帳もしたが今ではそれも詮無いこと、いずれの本たちも売場本棚からまた何処かへ引き取られていく・・・


《山本重爆撃隊の栄光・陸軍航空戦記/粕谷俊夫著/二見書房昭和45年12月12日初版》

本書は陸軍飛行第十二戦隊(九七式二型重爆撃機)の戦記だが航空機(この場合爆撃機)の用法・操縦が随所に詳しい。また貴重な爆撃時の証拠写真(高高度撮影航空写真)が掲載してある。
・S16/12/08 スンゲイパタニ飛行場攻撃/高度3,500m
・S16/12/11 ペナン島埠頭攻撃/高度不詳
・S17/02/11 シンガポール港付近船舶攻撃/高度7,000m
・S17/04/28 ロイウイン東飛行場攻撃/高度4,500m
・S17/04/29 シウエボ市街攻撃/高度4,400m
・S17/05/05 保山市街攻撃/高度5,200m
・S17/05/09 チタゴン飛行場攻撃/高度5,000m
・S17/05/10 インパール市街攻撃/高度5,500m
・S18/04/11 敵艦船攻撃/高度3,000m
・S18/05/15 昆明在支米空軍施設攻撃/高度7,200m
・S19/不詳  アキヤブ飛行場攻撃/高度6,500m

著者の粕谷俊夫氏は大正4年東京生まれ。早大国文科卒、昭和15年3月入営、翌16年飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)付となり終戦まで所属、階級は陸軍少尉。本人あとがきによれば、本書は収録テープ「飛行第十二戦隊の懐古」及び昭和38年8月から44年9月まで発行された部隊機関誌ともいうべき『無題の便り』22冊に因るところが多いとしている。またその当時には毎年建国の日(2月11日)に東京市ヶ谷駅裏手の偕行社に有志が集うとあった。在隊戦没者や在隊者の所在にはまだ消息不明が多く、本書巻末付録にある16頁、計318名の同隊戦死者名簿(S13/9~S22/1)についてもその整備を急ぎたいとして、本文中に実名登場している新阜洲賀夫氏(西宮市笠屋町17-30/当時住所)を連絡先に読者諸兄のご協力を賜りたいとあった。さらにはビルマ在隊戦没者山口文治少佐以下50柱が茨城県土浦市乙戸町の仏照寺釈迦堂に祭ってあるから最寄の方はお詣り願いたいと記している。あとがき日付けは昭和45年12月12日、月日は経ても戦友への思いは強い。ご存命であれば粕谷氏は今年94歳になる。襟を正して今日この良書を発送する。

『太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑』池田貞枝著

2008年01月18日 04時36分12秒 | 15年戦争
年が明けて初めての新着UPは15年戦争の本棚から~
『太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑/池田貞枝著/戦没遺体収揚委員会』は昭和52年7月10日、限定3000部で刊行された。著者の池田貞枝氏は元戦艦武蔵航海長にして海軍大佐、エリート軍人でありながら何の栄誉も求めず戦後30年の余生を只実直に戦時遭難した沈没艦船の記録収集に努められたが惜しい哉、出版を目前に昭和50年10月3日病没した。本書には戦艦大和以下連合艦隊戦闘艦艇688隻、商船等戦時徴用船舶2,956隻、合計3,644隻の沈没経緯(沈没年月日/原因/沈没位置)が収録してある。徴用船等については100トン以上の船を精査したが、海軍徴用船で100トン未満であっても最前線で稼動したものについては、わずか10数トンの雑用船舶に至るまで取り上げている。軍艦・徴用船の分け隔てなく一冊に収められたことに本書の価値は大きい。正にこれは戦争で沈んだ艦船たちの忠霊録に他ならない。


A4(296X210)判上製本ホローバック、表紙は豪華クロス巻きで本文は全て上級厚紙を使い534頁、重さ4kgにもなる。付属として沈没艦船の位置精密図が別途函入りで5枚付いている。


◎精密位置図は次のとおり
・捷一号海戦図(560X420)
・ガ島北、彼我艦隊沈没位置図(560X420)
・海軍艦艇の沈没位置精密図(1060X740)
・日本商船隊沈没位置精密図(1060X740)
・終戦時の各地戦力数および戦没者数(1060X740)

◎沈没艦艇種類と隻数
【一】艦艇
(1)軍艦
・戦艦 12隻(478,900t)
・航空母艦 22隻(445,710t)
・一等巡洋艦(主砲口径15,5糎を越えるもの)20隻(165,200t)
・二等巡洋艦(〃15,5糎以下)22隻(118,455t)
・水上機母艦 3隻(26,950t)
・潜水母艦 2隻(6,290t)
・練習巡洋艦 2隻(11,800t)
(2)駆逐艦
・一等駆逐艦(基準排水量1,000t以上)133隻
・二等駆逐艦(〃1,000t未満)9隻
(3)潜水艦
・一等潜水艦(基準排水量1,000t以上)98隻
・二等潜水艦(〃1,000t未満)47隻
(4)砲艦 6隻(3,985t)
(5)海防艦 88隻(70,225t)
(6)輸送艦 
・一等輸送艦(基準排水量1,000t以上)16隻
・二等輸送艦(〃1,000t未満)30隻
(7)水雷艇 10隻(5,790t)
(8)掃海艇 31隻(20,500t)
(9)駆潜艇 49隻(19,050t)
(10)敷設艇 20隻(11,921t)
(11)哨戒艇 16隻(16,043t)
※以上小計 644隻(2,051,425t)

【二】特務艦艇
(1)特務艦
*工作艦 2隻(20,440t)
*運送艦
・給油艦 17隻(217,530t)
・給炭艦 2隻(16,430t)
・給炭油艦 1隻(14,050t)
・給兵艦 1隻(10,360t)
・給糧艦 5隻(29,320t)
*砕氷艦 0隻
*測量艦 2隻(2,940t)
*標的艦 2隻(23,210t)
*練習特務艦 2隻(16,260t)
(2)特務艇
*敷設特務艇 4隻(1,570t)
*哨戒特務艇 0隻
*駆潜特務艇 0隻
*掃海特務艇 10隻(2,035t)
*電纜敷設艇 3隻(4,692t)
(3)雑役船   0隻
※合計 688隻(2,409,765t)
 
◎商船隊沈没(輸送船他)2,956隻(8,864,150t)は全て次の種別に分類される。
*陸軍徴用船
*海軍徴用船
・自営船
・貨物船
・貨客船
・敷設船
・特設監視艇
・漁船
・特設巡洋艦
・特設水上機母艦
・特設航空母艦
・特設潜水艦母艦
・海底電線敷設船
・特設兵器運搬船
・貨物運搬用雑役船
・潜水艦捕獲網運搬船
・救難船
・掃海船
・水雷兵器運搬船

海上で戦死戦没した者には墓標は立たない。今なお広大な太平洋の海原深く数千隻の大小船舶艦艇が傷ついた姿で横たわり、幾十万の英霊は収揚も叶わぬままその船内に閉じ込められている。池田氏はこうした英霊に対し沈没艦船の所在を突き止めることで哀悼の意を表し、それが戦争で死ななかった職業軍人としての責務であると考えていた。「若い世代の人々が戦没した父や兄の終焉の地をこの書により知得できれば本書刊行の大半の意義は達することになる」と氏は結んでいる。戦後60余年を経て戦争の記憶は風化の一途を辿る。本書を頼りに一体でも多くの遺骨収揚が望まれてならない。

寅の子文庫の、15年戦争の本棚から

どんど焼き・2008年

2008年01月15日 07時18分02秒 | 生活手帳
歳月人を待たず・・・
13日の日曜、子ども会の恒例行事である「どんど焼き」がまた巡ってきた。呑気にお汁粉をすすり豚汁に舌鼓を打つのも今年が最後。来年度はコテツが小学校に上がるのでお手伝いする側に就かなくてはいけない?前日より降り続いた雨は止んだが陽は依然として顔を見せず寒い朝を迎えた。午前8時の点火式にも当の主役=こどもたちはまばら。



「起きろー」の一声で飛び起きたコテツもほんとはまだ眠い。


冬寒の曇天に笹竹の弾ける音がこだまする。


つばくろさんの訃報からちょうど一週間、お父さんにはどんど焼きと言うよりは野辺送りのように見えた。南信州でもここ駿東(すんとう)と同じようにどんど焼きの煙が天に昇っているに違いない。三連休も終え、さあ気持ちを切り替えて今日からまた普通の生活に戻っていく。


鎮んだ火の中へ一斉にアルミホイルで巻いた団子をくべる。団子は竹の先に付けるよりは生木の枝のほうが良い。竹の柄では火力に負けて燃え落ちてしまう。

昔より人はムラを作りノラを耕して暮らしてきた。ムラで産声を上げ一生をノラ(野良)に汗水垂らして働き、死んでまた土に還る。誰が号令をかけるともなく小正月の朝には全国でどんど焼きの炎が天に昇り家内安全と無病息災、五穀豊穣を願った。今ではほとんど形だけの年中行事になったがその意義をよく胸に留めておきたい。


《サイト内関連記事》
いつまでも残したい風景~どんど焼きに行く。(07/1/15)
どんど焼きを見た。(06/1/17)

初めての発送ミスは2件連続で。

2008年01月14日 19時44分36秒 | オンライン古書店
人の上に吹く風、我が身に当たる・・・

とうとうやってしまった。一昨日、飯田市のUさんから注文と違う本が届いたとお電話を頂戴した。すると今朝は東京のSさんから函と中身が違うとお叱りの電話を貰う。オンライン古書店4年目にして初めての失態はなんと連日の発送ミス。「しっかりなさいっ」ふと天国に居るつばくろさんの声が耳に触れたような気がしたー。ほんとうにどうかしている、思わず両頬を平手で叩いた。

無言館への旅/戦没画学生巡礼記

2008年01月12日 18時20分55秒 | オンライン古書店


現代洋画家の重鎮、野見山暁治氏は戦時中、東京美術学校(現東京芸術大学)を繰り上げ卒業させられ学徒動員で満州牡丹江省へ出征した。ほどなく戦地で肋膜を患い昭和19年2月に復員したが、日本中が狂っていた遠い15年戦争のあの時代、若い命がまるで草でもむしり取られるかのように戦地へほうられ、同級生であった画学生の多くも絵筆を銃に持ち替えて戦場の露と消えた。戦後30年の節目に日本放送出版協会の企画で野見山さんは、生徒の代表のような形で全国に散らばる同級生の遺族を訪ねる旅に出る。それは昭和52年『祈りの画集』として出版されたが、級友が遺した画作を収集する旅は一時で終わるはずもなく、戦後50年を経て再開した。信濃デッサン館館主の窪島誠一郎氏は野見山さんの手伝いをしながら平成9年5月2日、信州上田市に「無言館」を開館させる。無言館には野見山さんと窪島さんが巡礼の旅で収集した戦没画学生の遺作が一同に展示してある。窪島さんは自らを戒めて言う~私は野見山先生たちが50年間沸かしてきたお湯で、インスタントラーメンみたいにたった3年間で美術館をつくろうとしている人間なのだと。そして無言館は野見山さんのような体験を持つ人たちが戦後50年間悶々と抱き続けてきた熱い希いであり、心の中に既に建てられていた美術館なのだと。1999年1月15日に聞いたNHKラジオ朝の談話室で窪島さんはとある礼状からこんな話を披露している~自閉症で3年間親と口を利かなかった24歳になる娘さんが手首を切って自殺を図り、退院したその足で母親に付き添われて無言館を訪れる、約2時間半ほど戦没画学生の遺作遺品と対面して回り、館を出て母親に開口一番、わたし明日から頑張ると言った・・・無言館は戦争・反戦・平和のためにあるだけではない、命のためにあるのだ、そして命という窓から戦争とか平和を見つめ直さなければいけないのではないかーと。

今年4年目を迎える寅の子文庫はまたコツコツと「15年戦争の本棚」に命の本を集めたい・・・暖かくなったらコテツやシュウも連れて無言館を訪ねてみたい。

《追記》1/13
「無言館」をブログで検索したら、忘れえぬ人々の昨日の投稿に耳寄りな情報が出ていた。無言館には新しく第二展示館とオリーブ読書館という施設が建設中らしい。


【遺された画集~戦没画学生を訪ねる旅/平凡社ライブラリー/2004年】こちらは野見山暁治氏の著書、巻頭31頁にわたり作品をカラーで紹介している。

オンライン古書店つばくろのこと

2008年01月09日 00時25分37秒 | オンライン古書店
以前、オンライン古書店つばくろの売場本棚に『中村久子自伝/こころの手足(普及版)春秋社』を見つけて購入したことがあった。納品書の日付は2005年11月19日まで遡る。[つばくろ]の本棚にはソーイング・手芸・福祉・出産など、家庭の主婦の目線に合わせた堅実な本が多かったように思う。今もブックオフの棚に『サマンサ』を見つけると、すぐに[つばくろ]を連想してしまう。

そんな[つばくろ]も私の[寅の子文庫]も、オンライン古書店ブームの波に乗り、時あたかも同じ2004年12月にサイトを立ち上げた。2004年12月16日[つばくろ]の、はてなダイアリーには『体温が3℃位上がった気がする!』と初めての注文に胸躍る心境を綴らせている。初めて相互リンクを御願いしたのも[つばくろ]なら[とらのこ日記]で初めてトラックバックを試したのも[つばくろ]の日記だった。

[つばくろ]からのメールは大抵、朝の4時・5時という早い時間帯に来た。2005年8月6日、海水浴の日の朝、出掛けに[つばくろ]の質問に回答するため、家族を車の中に待たせてヒンシュクを買ったことがあった。その頃の[つばくろ]は慣れないホームページビルダーを操りながら、お店をアマゾンから脱皮してマイサイト化を実現しようと格闘していた。日記も連日のように更新した。その甲斐あってか、9月27日にはとうとう自力で完全なマイサイト[オンライン古書店つばくろ]が誕生した。当時私は不注意から腰痛を病んでいたが、そんな折り、『通販生活』のドライバーズクッションが安くて良いからと薦めてくれたこともあった。その三日後の9月30日には[つばくろ]通算2件目となる相互リンクの依頼が舞い込み(1件目は私の寅の子文庫で、この時は多分オオミ堂さんではないか)、これで打率10割!と届いたメールには思わずこちらもバンザイ(どんどんお店が良くなってきているー)。10月4日、『オンライン古書店』で検索すると、どういう訳か[つばくろ]が第1位に出ていた。すぐにメールを打てば、売れすぎて品薄になったらどうしようと真顔?で返事をくれたのがなんとも可笑しかった(大丈夫、そんなにすぐには売れないからー)、しかし12月16日、苦労して作ったマイサイトを放り出して現行のカラーミーショッププロへ移行したときには正直驚いた。

[つばくろ]から最後にメールが届いたのは2007年4月16日なので、もう8ヶ月も連絡を取っていなかったことになる。それは[寅の子文庫]へ来た買い取り依頼メールの差出人住所が偶然にも[つばくろ]と同じ町内だったので、近いほうが何かと便利だし、そちらを紹介したから~というメールに対する返事で、まだ古書買い取り業務のページは作っていないからすぐにでも取り掛からなければ、という内容だった。その後[つばくろ]の日記は翌5月を最後に更新が止まる。お店も周期的に開店と閉店を繰り返すようになり、いつしか休止状態から元には戻らなくなった。今思えば、何故この時期に連絡を取らなかったのか悔まれてならない。2008年が明けて遅い年賀状に、本年も良い年にしていこう!と投函した翌6日[つばくろ]のオフラインの友人から訃報が入った。

昨日・今日と心にポッカリ穴があいて、まだ塞がらないでいる。この3年間ほんとうに楽しくお付き合いをさせて頂いた。ユーモアたっぷりの日記には幾度励まされたことか。憧れのオンライン古書店を夢見てお店の体裁も整い、さあこれからというときに何故そんなに急いで逝ってしまったのか。こうしてキーボードを叩きながらも涙が溢れて止まらないー・・・・もうネット上には[オンライン古書店つばくろ]は存在しない。店主の日記を綴った[はてなダイアリー]も[FC2ブログ]も休止中で見ることはできない。何もかもきれいに整理整頓して旅立ってしまった。しかし[とらのこ日記]にはコメントという[つばくろ]の足跡が随所に残っているではないか。この日記を閉鎖しない限り今後も[つばくろ]は生き続ける。

[寅の子文庫]の「オンライン古書店リンク集」は今日から「当世オンライン古書店事情」と名前を変えた。リンクは切れても先々までずうっと、本人の労苦と一所懸命に生きてきた証しを顕彰する為に。

どうか今は安らかに
そしてまた人間に生まれ来て
今度こそ古本屋をやろう!

さようなら、オンライン古書店つばくろ

2007年1月9日
46回目の誕生の日に
古本寅の子文庫店主


《追記》 1/26
今日、郵便ポストにつばくろさんのご家族より寒中見舞いが届いていました。
謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます。

野良猫の葬式

2008年01月06日 16時15分14秒 | 生活手帳
今朝、雨戸を開けたら真下に野良猫がうずくまって凍え死んでいた。
うちのシロちゃんと毛並みが同じ猫で、夏頃から庭先に出没していた。元気なうちはシロちゃんを追いかけ回して困るので、石を投げては追い払っていたが、そのうちだんだんと痩せ細り、暮れには石が当たっても逃げなくなるまでに衰弱した。不憫に思い、冷蔵庫にあった鰯のハンペンを食べさせ、夜露を凌げればと使っていない犬小屋にダンボールを敷いて寝床を作り、石をぶつけた償いとしたが遅かった。昔より野に生きる獣はムクロを見せないというが、もうこの辺りでは宅地化が進んで野良猫が自然死する場所も見当たらない。




陽が昇らないうちに穴を掘り埋めた。
早起きのバアバが水仙の花を折って手向けた。



無常の風は時を選ばず、
死は猫にも人間にも平等にそしてある日突然訪れる。名も無い風来の猫が一匹、最後にはほんの数日だけでも我が家の一員になってくれた、うちの軒下で死んでくれてありがとう。

今日から仕事始め。

2008年01月04日 08時23分38秒 | オンライン古書店
朝の新聞配達は今朝から平常とおり。
5時15分から100部配って6時40分終了、そのまま黄瀬川の左岸堤防に出て富士山を仰いだ。年頭は週末まで休む予定だったが、年末年始の注文を知らぬ顔して留め置いても要られず、日程を繰り上げ本日より発送再開。今年こそ「ないものはつくるしかない」と初志貫徹を肝に命ず。