【巨大メディアの逆説】娯楽も報道もつまらなくなっている理由 原 真 リベルタ出版
フロリダ州タンパにメディアジェネラル社がある。ここではテレビと新聞とネットの 「マルチメディアデスク」が統合デスクとなっていてニュースセンターを運用しているそうだ。
前回、私が「ネットは新聞を殺すのか」を読んで10年後の新聞社の姿を勝手に想像したのは、あながち白日夢ではなかったわけだ。
いまでも新聞記者が朝のTVスタジオでニュース解説役を努めているが、数年後にはテレビとの共同取材というような名目で記者がマルチタレント化したり、紙の報道が速報主義のテレビに押され、協力を強いらる場面が多くなるのではないだろうか。
相互メディアの垣根が外され垂直に統合化されメディアごとの多様性が失われつつあるアメリカ社会。
そのメディア現象から日本も逃れられそうにない。
テレビといえば、みの・もんた節が画面から消える日はない。モンタさんは解りやすく、面白く、報道を娯楽に変えてしまった最大の功労者だ。
でも、あの喋りは、かっての大道で客を呼び込んだ祭りのテキヤの口調だ。
勢いのあるおもろい喋りの説得調だから、客は思わず、うなづいてしまう。
複雑な問題も単純に割り切って見せる切り口の娯楽的手法にみんなが参ってしまっている。
モンタさんを引き合いに出すことも無く、最近のテレビは映像動画よりパネル文字やテロップを使ってマルチ的に説明するから「音声」要素を消して見ていても内容は伝わってくる。
このマルチ手法の延長線上にデジタル化社会は加速していく。
デジタル情報化のすべてはコンピューター処理と結びつく。文字、画像、音声、映像もすべてデジタル信号で扱われる。ということは各分野のメディア世界の境界が今後ますますグレーになっていくということだ。
そして、これらデジタル技術の進展はその情報の配信も交換も融合も、より単純で扱いやすい方法になってゆくということなのだろう。 ネット社会をベースにして作られた作品やファイルの交換や無料のダウンロードは今後も進む。
「海賊行為」が横行しやすくなって各種の著作権侵害がこれからも広がってゆく。
それを防ぐ側のコストはいっそう嵩む。
デジタル化という社会システムの中で嫌が応でも既存メディアは変容を迫られる。
「息もつかずに見入ったけれど何の感動も残らなかった」映画がアメリカでは多くなっていると著者は指摘。
特撮を使い腹の底にズンと響く迫力ある音響。これでもか、これでもかと繰り返されるCGを使った刺激的な映像シーンの連続。
メジャー製作の超娯楽大作が大スクリーンで表現され、似たような作品群が後を続く。
だが、作りたい作品が時間をかけて作れているわけではなく内容やテーマの深みも乏しいから、結局は飽きられ面白くない。
映像作家が力をかけた独立プロダクションの作品が締め出され零細な映画館も閉鎖され、シネコンに変わる。
映像フィルムは姿を消しフィルムのキズもなければ画面の揺れもないきれいな作品が仕上がっている。
映画の製作から上映まですべてデジタル化され作品は衛星通信、ネットで配信されDVDなどの商品に化ける。
稼げるうち稼いでしまえの経営姿勢があるから低俗化に拍車がかかる。
アメリカの巨大メディアは川上から川下までを垂直に統合していると著者は強調する。
映画スタジオをにぎり、配給網を独占し、上映から放送から販売までを一貫して支配する。
膨大なコンテンツを少数のメガメディアが供給して業界再編がすすむ。膨大なコストがかかるから手っ取り早い売り上げ増加をめざし作品を利用しつくす。
そのためVTR化、DVD化、ケーブルテレビや地上波テレビでの放送が利用され利益回収をめざすことにすべては収斂されてゆく。
監督が作りたいから作品が生まれるのではない。
キャラクター商品がまず描かれ、て売れそうな作品を作れということが優先される傾向が強まっているそうだ。
だから面白くもない。
音楽業界も例外でない。 「芸術的制約を受けないぞ」とアーティストが直接ファンに訴えることで自由な作曲が開始されMP3ドッココム・サイトやナップスターには100万を超える曲が集まった。
だが集まった曲は玉石混交でインディーアーティストには宣伝力がない。
MP3に続きナップスターも挫折し音楽配信事業はメジャーの軍門に下ったという。
メジャーの強さは圧倒した宣伝力にあり人気音楽を保有していることも強みだ。
残念ながら無名アーティストは自分の曲を人に知らせる手段がない。彼の曲は巨大な曲の中で埋没する。
そうした曲がヒットすることはむずかしいから、つまらなくなってくる。
いまアメリカではおもしろさを求めて非営利の公共放送への待望があるそうだ。
非営利的な日本のNHKなどの形に待望感が生まれている。
日本とは逆の論議だが、そうした待望感があるまでメジャー支配の作品はつまらないということなのだろう。
アキバの淀橋カメラや、小生の近く国道4号線沿いにできたジョイフルホンダに似たような光景を感じる。
なんでもあり。ないものはないという巨大な売り場スペースにはじめは圧倒される。そしてその分、住む町の商店街で閉じられたシャッターの数はますます多くなって寂しい街となっている。
独立営業店はここでも駆逐されている。
独立店が巨大な商店舗に入って営業をすれば、かなりの上納金を強要されるはずだ。
住む街が必要だったりするもの、時間をかけた手作りの味やものがなくなって均質、画一化したものだけが大型店舗にあふれてゆく。
それにしてもインターネット社会の進展は早い。
ADSLなどの基盤が整備されて、そこそこ10年、ケータイ文化などまだ6年しか立っていない。
にもかかわらず、一切のものがデジタル化し情報ネットは巨大化し、各自の生活や思考のあれこれにかなり影響を与えはじめている。
それはメディアのこれからの消長にも巨大な影を落としはじめている。
誰も押し戻せないこの流れは地球温暖化の流れの早さにも似ていないか。
数年前には考えられなかった現象がネット社会に現れ、一方、海面にも地表にも温暖化異変が現れてきている。
この本は共同通信配信各紙に連載した記事「メディア激変の陰で」などに加筆し、新たに 書き下ろしたもの。
著者は1962年生まれの人で97年から3年間のアメリカ社会と向き合った人。
読みごたえある一冊だった。
フロリダ州タンパにメディアジェネラル社がある。ここではテレビと新聞とネットの 「マルチメディアデスク」が統合デスクとなっていてニュースセンターを運用しているそうだ。
前回、私が「ネットは新聞を殺すのか」を読んで10年後の新聞社の姿を勝手に想像したのは、あながち白日夢ではなかったわけだ。
いまでも新聞記者が朝のTVスタジオでニュース解説役を努めているが、数年後にはテレビとの共同取材というような名目で記者がマルチタレント化したり、紙の報道が速報主義のテレビに押され、協力を強いらる場面が多くなるのではないだろうか。
相互メディアの垣根が外され垂直に統合化されメディアごとの多様性が失われつつあるアメリカ社会。
そのメディア現象から日本も逃れられそうにない。
テレビといえば、みの・もんた節が画面から消える日はない。モンタさんは解りやすく、面白く、報道を娯楽に変えてしまった最大の功労者だ。
でも、あの喋りは、かっての大道で客を呼び込んだ祭りのテキヤの口調だ。
勢いのあるおもろい喋りの説得調だから、客は思わず、うなづいてしまう。
複雑な問題も単純に割り切って見せる切り口の娯楽的手法にみんなが参ってしまっている。
モンタさんを引き合いに出すことも無く、最近のテレビは映像動画よりパネル文字やテロップを使ってマルチ的に説明するから「音声」要素を消して見ていても内容は伝わってくる。
このマルチ手法の延長線上にデジタル化社会は加速していく。
デジタル情報化のすべてはコンピューター処理と結びつく。文字、画像、音声、映像もすべてデジタル信号で扱われる。ということは各分野のメディア世界の境界が今後ますますグレーになっていくということだ。
そして、これらデジタル技術の進展はその情報の配信も交換も融合も、より単純で扱いやすい方法になってゆくということなのだろう。 ネット社会をベースにして作られた作品やファイルの交換や無料のダウンロードは今後も進む。
「海賊行為」が横行しやすくなって各種の著作権侵害がこれからも広がってゆく。
それを防ぐ側のコストはいっそう嵩む。
デジタル化という社会システムの中で嫌が応でも既存メディアは変容を迫られる。
「息もつかずに見入ったけれど何の感動も残らなかった」映画がアメリカでは多くなっていると著者は指摘。
特撮を使い腹の底にズンと響く迫力ある音響。これでもか、これでもかと繰り返されるCGを使った刺激的な映像シーンの連続。
メジャー製作の超娯楽大作が大スクリーンで表現され、似たような作品群が後を続く。
だが、作りたい作品が時間をかけて作れているわけではなく内容やテーマの深みも乏しいから、結局は飽きられ面白くない。
映像作家が力をかけた独立プロダクションの作品が締め出され零細な映画館も閉鎖され、シネコンに変わる。
映像フィルムは姿を消しフィルムのキズもなければ画面の揺れもないきれいな作品が仕上がっている。
映画の製作から上映まですべてデジタル化され作品は衛星通信、ネットで配信されDVDなどの商品に化ける。
稼げるうち稼いでしまえの経営姿勢があるから低俗化に拍車がかかる。
アメリカの巨大メディアは川上から川下までを垂直に統合していると著者は強調する。
映画スタジオをにぎり、配給網を独占し、上映から放送から販売までを一貫して支配する。
膨大なコンテンツを少数のメガメディアが供給して業界再編がすすむ。膨大なコストがかかるから手っ取り早い売り上げ増加をめざし作品を利用しつくす。
そのためVTR化、DVD化、ケーブルテレビや地上波テレビでの放送が利用され利益回収をめざすことにすべては収斂されてゆく。
監督が作りたいから作品が生まれるのではない。
キャラクター商品がまず描かれ、て売れそうな作品を作れということが優先される傾向が強まっているそうだ。
だから面白くもない。
音楽業界も例外でない。 「芸術的制約を受けないぞ」とアーティストが直接ファンに訴えることで自由な作曲が開始されMP3ドッココム・サイトやナップスターには100万を超える曲が集まった。
だが集まった曲は玉石混交でインディーアーティストには宣伝力がない。
MP3に続きナップスターも挫折し音楽配信事業はメジャーの軍門に下ったという。
メジャーの強さは圧倒した宣伝力にあり人気音楽を保有していることも強みだ。
残念ながら無名アーティストは自分の曲を人に知らせる手段がない。彼の曲は巨大な曲の中で埋没する。
そうした曲がヒットすることはむずかしいから、つまらなくなってくる。
いまアメリカではおもしろさを求めて非営利の公共放送への待望があるそうだ。
非営利的な日本のNHKなどの形に待望感が生まれている。
日本とは逆の論議だが、そうした待望感があるまでメジャー支配の作品はつまらないということなのだろう。
アキバの淀橋カメラや、小生の近く国道4号線沿いにできたジョイフルホンダに似たような光景を感じる。
なんでもあり。ないものはないという巨大な売り場スペースにはじめは圧倒される。そしてその分、住む町の商店街で閉じられたシャッターの数はますます多くなって寂しい街となっている。
独立営業店はここでも駆逐されている。
独立店が巨大な商店舗に入って営業をすれば、かなりの上納金を強要されるはずだ。
住む街が必要だったりするもの、時間をかけた手作りの味やものがなくなって均質、画一化したものだけが大型店舗にあふれてゆく。
それにしてもインターネット社会の進展は早い。
ADSLなどの基盤が整備されて、そこそこ10年、ケータイ文化などまだ6年しか立っていない。
にもかかわらず、一切のものがデジタル化し情報ネットは巨大化し、各自の生活や思考のあれこれにかなり影響を与えはじめている。
それはメディアのこれからの消長にも巨大な影を落としはじめている。
誰も押し戻せないこの流れは地球温暖化の流れの早さにも似ていないか。
数年前には考えられなかった現象がネット社会に現れ、一方、海面にも地表にも温暖化異変が現れてきている。
この本は共同通信配信各紙に連載した記事「メディア激変の陰で」などに加筆し、新たに 書き下ろしたもの。
著者は1962年生まれの人で97年から3年間のアメリカ社会と向き合った人。
読みごたえある一冊だった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます