【超 整理日誌】野口 悠紀夫 ダイヤモンド社
私は物の整理をするのが昔から下手で、くだらないものをとっておいて肝心なものが、みつからない。
そんな繰り返しのなかで、一冊の新書本を読んだら、目から鱗が落ちるように整理のヒントがつかめた。
現役だった頃、このヒントを使ってビジネス机の上段には社の大封筒をズラリと並べていた。
封筒の折り返し部分に、マジックで「◎×図書館」「◎◎屋書店」など企画や営業連絡の名前を書いて、立てておく。
一物全体シュギとして、袋の名前に関係ある情報の一切をポンポンとその中に投げ入れ、使ったら右端の方に置いておく。
結局、いらない袋は左端に押し出せれて、まるごとポイと捨てられる。
記憶の保存が時系列になっている癖を活用したこの本は「超 整理法」と呼ばれ、ブームとなって以後、この著者の書くものは「超 ○○法」が多い。
印税収入もかなりと思われるが、今回の本にも例のごとく「超」がついている。
だが、今度の本は「法」というハウツーものではなく、主にビジネスマンに贈る心得的エッセー風なもので、あっと言う間に各章が読めた。 2003年の週刊ダイヤモンドに200回連載した内容のものを、追記して補った形の構成としたとある。
ネット時代の情報のとらえ方で、提言していることがあった。
日米マスメディアを比較して、日本のメディアはいくつかの全国紙と地上波キー局の発信する 情報に集約された形だから、どちらかといえば多様性ある情報が生まれにくい。
「一分メディア」と言われる日本のテレビは、短時間に総ての情報を伝えようとするから、音を消しても、画像だけで状況が理解できる。
画面のタイトル文字の並び方に工夫や強調がほどこされ「親切」過剰な解釈の手当てとなって伝えられる。
結果、もののとらえ方が単純、簡略化の方向にますます進む。
アメリカは「地方紙」「CATV」が主だからデジタル多チャンネル化を迎え多様化してゆくが、地上波デジタル化主体の日本はそうはいかないのだ、といった趣旨の内容だった。
この項は賛成だった。
なんら芸を持たない芸能タレントのバカ騒ぎ番組が横行し、情報の解釈を一刀両断するやりかたは見ていて、むかむかするものがある。 著者は、美術の秋には「印象派」作品が企画されるが、印象派といえば一流という思い込みがあるのではないか、と指摘、冬のセンター試験は全国的に行われる一糸乱れぬ統制形式となっているが、もっと多様な形態があってよいのではないかとも言っている。
食糧自給率を例にとって自給率を高めよということは消費者側の論理に偏した見かたとし、 供給の分散がリスクの分散につながっている点があるとして、視点をずらした多様なものの見方が必要であることが強調されていた。
多様性のものも見方が不足し、一様化した見方に方向が収斂されはじめると集団ヒステリーに通じる。
それは国を滅ぼす元凶となると警告している。
各章、賛否両論の感じでこの本を読んだが、題名になぜ「超」なのかはよくわからなかった。
著者のHPは有名なサイトで、全国紙各紙を情報源として紹介している。
「朝日」「毎日」「日経」「読売」順の並べ方と解説は著者の評価順なのだろうが、各社の特徴を紹介している情報の鮮度には問題があるのではないか。
たとえば「読売」項の説明は
「読売新聞社のサイト。トップページには、主要なニュースが簡潔に紹介されている。「ミニ時典」では、ニュース用語などが五十音順に検索できる。「LIFE STYLE」にある映画案内やグルメガイドなどは、なかなかおもしろい。」
とあるが、この[ミニ時典]は2004年の春に紙面では既に終わっている。
読売のオンラインの頁もその後一新しているが、古い解説のままだ。 また同じHPの「マイ情報源」を利用する場合には、「インターネット「超」活用法2001」「超」発想法」「「超」旅行法」の本を買ってそこに付属するパスワードが必要と断っているのも、フムとはうなづけない料簡さが感じられた。 (2007年 1月4日 記)
私は物の整理をするのが昔から下手で、くだらないものをとっておいて肝心なものが、みつからない。
そんな繰り返しのなかで、一冊の新書本を読んだら、目から鱗が落ちるように整理のヒントがつかめた。
現役だった頃、このヒントを使ってビジネス机の上段には社の大封筒をズラリと並べていた。
封筒の折り返し部分に、マジックで「◎×図書館」「◎◎屋書店」など企画や営業連絡の名前を書いて、立てておく。
一物全体シュギとして、袋の名前に関係ある情報の一切をポンポンとその中に投げ入れ、使ったら右端の方に置いておく。
結局、いらない袋は左端に押し出せれて、まるごとポイと捨てられる。
記憶の保存が時系列になっている癖を活用したこの本は「超 整理法」と呼ばれ、ブームとなって以後、この著者の書くものは「超 ○○法」が多い。
印税収入もかなりと思われるが、今回の本にも例のごとく「超」がついている。
だが、今度の本は「法」というハウツーものではなく、主にビジネスマンに贈る心得的エッセー風なもので、あっと言う間に各章が読めた。 2003年の週刊ダイヤモンドに200回連載した内容のものを、追記して補った形の構成としたとある。
ネット時代の情報のとらえ方で、提言していることがあった。
日米マスメディアを比較して、日本のメディアはいくつかの全国紙と地上波キー局の発信する 情報に集約された形だから、どちらかといえば多様性ある情報が生まれにくい。
「一分メディア」と言われる日本のテレビは、短時間に総ての情報を伝えようとするから、音を消しても、画像だけで状況が理解できる。
画面のタイトル文字の並び方に工夫や強調がほどこされ「親切」過剰な解釈の手当てとなって伝えられる。
結果、もののとらえ方が単純、簡略化の方向にますます進む。
アメリカは「地方紙」「CATV」が主だからデジタル多チャンネル化を迎え多様化してゆくが、地上波デジタル化主体の日本はそうはいかないのだ、といった趣旨の内容だった。
この項は賛成だった。
なんら芸を持たない芸能タレントのバカ騒ぎ番組が横行し、情報の解釈を一刀両断するやりかたは見ていて、むかむかするものがある。 著者は、美術の秋には「印象派」作品が企画されるが、印象派といえば一流という思い込みがあるのではないか、と指摘、冬のセンター試験は全国的に行われる一糸乱れぬ統制形式となっているが、もっと多様な形態があってよいのではないかとも言っている。
食糧自給率を例にとって自給率を高めよということは消費者側の論理に偏した見かたとし、 供給の分散がリスクの分散につながっている点があるとして、視点をずらした多様なものの見方が必要であることが強調されていた。
多様性のものも見方が不足し、一様化した見方に方向が収斂されはじめると集団ヒステリーに通じる。
それは国を滅ぼす元凶となると警告している。
各章、賛否両論の感じでこの本を読んだが、題名になぜ「超」なのかはよくわからなかった。
著者のHPは有名なサイトで、全国紙各紙を情報源として紹介している。
「朝日」「毎日」「日経」「読売」順の並べ方と解説は著者の評価順なのだろうが、各社の特徴を紹介している情報の鮮度には問題があるのではないか。
たとえば「読売」項の説明は
「読売新聞社のサイト。トップページには、主要なニュースが簡潔に紹介されている。「ミニ時典」では、ニュース用語などが五十音順に検索できる。「LIFE STYLE」にある映画案内やグルメガイドなどは、なかなかおもしろい。」
とあるが、この[ミニ時典]は2004年の春に紙面では既に終わっている。
読売のオンラインの頁もその後一新しているが、古い解説のままだ。 また同じHPの「マイ情報源」を利用する場合には、「インターネット「超」活用法2001」「超」発想法」「「超」旅行法」の本を買ってそこに付属するパスワードが必要と断っているのも、フムとはうなづけない料簡さが感じられた。 (2007年 1月4日 記)
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