神にはえこひいきなどはないからです。
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。―
ローマ 2:11~15
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
ローマ 9: 1
イエス様は、聖霊様を通し、私たちの良心を用いて語っておられます。
いくら「私たちは神の民、選ばれた民、律法が与えられている。異邦人とは違う。」と言っても、イエス様の言いなりになっていなければ意味がありません。
イエス様は、自然界を通し、聖書を通し、教会を通し、良心を通して語っておられます。
その内なる声を押し留め、軽くあしらっているとだんだん心が鈍感になってしまい聞こえなくなってしまいます。
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。
わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。
詩篇 95: 7~11
「ちょっとくらい伝道しなくていいや。教会集まりをずる休みしちゃえ。献金額を下げてしまえ。」内なる声を否定していると、どんどんイエス様のお心から離れてしまいます。
私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。
もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。
もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。
もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
ローマ 2:16~29
「自分は洗礼を受けている。神様も聖書も福音も知っている。献金もしてる。人にも教えられる。」と思っていても、イエス様に従うことを嫌がって愚痴り、教会の悪口を言い、兄弟姉妹を嫌がっていたら上記のユダヤ人と同じです。
「隠れたクリスチャン。聖霊様による導き。心の洗礼。」を求めて神様からの栄誉を受けましょう。
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。―
ローマ 2:11~15
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
ローマ 9: 1
イエス様は、聖霊様を通し、私たちの良心を用いて語っておられます。
いくら「私たちは神の民、選ばれた民、律法が与えられている。異邦人とは違う。」と言っても、イエス様の言いなりになっていなければ意味がありません。
イエス様は、自然界を通し、聖書を通し、教会を通し、良心を通して語っておられます。
その内なる声を押し留め、軽くあしらっているとだんだん心が鈍感になってしまい聞こえなくなってしまいます。
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。
わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。
詩篇 95: 7~11
「ちょっとくらい伝道しなくていいや。教会集まりをずる休みしちゃえ。献金額を下げてしまえ。」内なる声を否定していると、どんどんイエス様のお心から離れてしまいます。
私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。
もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。
もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。
もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
ローマ 2:16~29
「自分は洗礼を受けている。神様も聖書も福音も知っている。献金もしてる。人にも教えられる。」と思っていても、イエス様に従うことを嫌がって愚痴り、教会の悪口を言い、兄弟姉妹を嫌がっていたら上記のユダヤ人と同じです。
「隠れたクリスチャン。聖霊様による導き。心の洗礼。」を求めて神様からの栄誉を受けましょう。