シャロームチャペルからあなたへ

苫小牧めぐみキリスト教会シャロームチャペルのブログです。

はじめの愛に立ち返れ

2006-06-25 21:22:14 | 礼拝メッセージ
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。ヨハネの黙示録2章3~5節
 
 
年老いた使徒ヨハネは教会の指導者ということで迫害を受け、地中海のパトモス島に流されてしまいました。光り輝くイエス様がヨハネに現れ、これからすぐに起こることを示されました。
 その中で、エペソの教会に対して初めの愛に立ち返るように勧めています。イエス様を信じているために迫害され、にせ教師やにせ預言者の偽りの教えの攻撃にさらされながらも忍耐をもって戦ってきたことが認められています。
 しかし、イエス様に対する愛から来る行動ではなかったのです。イエス様は命をかけてわたしたちを愛してくださいました。そして、わたしたちもイエス様を愛することを求めておられます。初めは良かったのにどの時点で道を踏み外したのか。だれでも初めの愛に立ち返ることができます。イエス様を愛するとはイエス様のおっしゃることに従うことです。
 どこから落ちたかチェックリストでチェックして悔い改め、初めの行いをしましょう。

  
○日曜日にイエス様を礼拝する。
  ○収入の10分の1を神様に返金する。
  ○感謝献金をする。
  ○聖書を読む。
  ○お祈りをする。
  ○イエス様の救いを隣人にお知らせする。
  ○教会の兄弟姉妹を大切にする。
  ○両親を尊敬する。

神の恵みを放縦に変える人々

2006-06-18 20:49:10 | 礼拝メッセージ

ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。・・・・・・・・・まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。
                               ユダの手紙4節~13節

 
 約2千年も前から現在騒いでいる「ダヴィンチ・コード」のようなことを主張する人たちがいて、自分自身に加えてまわりの人たちの神様に対する信仰の心を破壊しようとしていました。
 「神様の恵みを放縦に変える」とは、「神様が私たちの罪を赦してくれたのであれば何をしようが自由ではないか。私たちが神様に対して責任があるとか、罪が裁かれるとか、そんなこと考える必要はない。」と考えて罪(神様、イエス様のおきてに従わないこと)の生活を続けることです。
 しかし、前述した新約聖書ユダの手紙には、旧約聖書に記されているイスラエルの民の不信仰やソドムとゴモラの性的不道徳に対するさばきを例に挙げて、罪に対するさばきは必ずあることを述べています。ですから、根拠のない偽りの情報でイエス様や神様や聖書の権威と真実性を否定して安心していても神様のさばきを免れることはできません。
 神様の恵みであるイエス様による罪の赦しを信じて受け入れ、罪を悔い改めて罪から離れた生活をすることです。これこそ「神様の恵みを放縦に変えない」生き方です。


愛とは、神様の命令に従うこと。

2006-06-11 20:40:36 | 礼拝メッセージ
 それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
                            ヨハネの手紙第二5,6節

 
 ヨハネは夫人とその子どもたちが神様の命令に従って歩んでいることをたいへん喜んでいます。神様の命令に従って歩むとは、イエス様のおっしゃったことに従うことであり、使徒たちの教えに従うことであり、聖書に従うことです。
 その命令の第一は、お互いに愛し合うことです。愛し合うとは、「相手の罪を覆うこと、赦すこと」(箴言10章12節)。でも本当の愛は溺愛ではありません。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」(箴言10章12節)と聖書にあります。
 私たちの生きるべき道は、自分の感情に正直になることではありません。自分の思いのままに生きることではありません。自分の考えどおりに進むことではありません。聖書の命令に従って生きることです。
 自分の感情に正直に生きていけば起伏の激しい不安定な生き方になり、罪から罪に進んで罪に縛られて不自由になります。
 聖書の命令に従うことが私たちを自由にします。それが人としての最善の生き方です。

いよいよ新緑の樽前山(6月3日)

2006-06-04 18:54:08 | エッセイ

 6月になりました。 
 樽前山は新緑にあふれてきました。残雪はひとかけらほど残っています。
 イエス様がこの地球を造られた時に言われた言葉が今も変わらず生きて働いています。
 「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」(創世記1章11節)
 イエス様はあなたを愛して命を与えてくださいました。
 あなたはイエス様に愛されている世界にたった一人のあなただから、すばらしい価値のある存在なのです。


苦しいとき、あなたならどうする。(6月3日)

2006-06-04 18:11:13 | 礼拝メッセージ
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」                                                   詩篇119篇71節

 私たちは、順風満帆で調子の良いときは、神様に感謝することやイエス様に信頼することをしにくいものです。「自分の力で何とかやって行ける。だれかに感謝したり、だれかに頼ったりしなくても大丈夫。」と考えてしまいます。
 でもそれは大きな間違いです。イエス様が空気を備え、水を備え、食べ物を備えてくださっているのです。イエス様の許しのもとに命が保たれているのです。家族や友達や同僚や周りの多くの人たちの働きと忍耐によって生活ができているのです。
 しかし、そのことに気付くのは、実は、問題にぶつかったり、病気になったり、事故にあったり、人間関係でトラぶったりして、自分の無力さを感じたりどうしようもない状況に陥ったときなのです。
 そんなとき、あなたはどうしますか。現実逃避をして何かほかのものでうさはらしをしたり、人を非難して人のせいにしたり、問題をうやむやにしたりしていませんか。
 実は、そのときが神様から与えられたチャンスなのです。命を与え、罪の赦しを与え、問題の解決を与え、愛を与えてくださる神様のもとに立ち返るときなのです。
 神様はイエス様を通してご自身の愛をはっきりと表して下さいました。クリスチャンだろうとクリスチャンでなかろうと、だれにとっても神様の前に行くチャンスなのです。
 イエス様はいつでも「私のもとに来なさい。私があなたの問題を解決し、あなたに赦しと平安を与えます。あなたに喜びと永遠の命を与えます。私を信頼し、私に従いなさい。」そう呼びかけておられます。
 苦しくて辛いときこそイエス様を呼びましょう。