シャロームチャペルからあなたへ

苫小牧めぐみキリスト教会シャロームチャペルのブログです。

光の中と闇の中

2007-04-28 21:31:51 | 礼拝メッセージ
 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。                ヨハネの手紙第一 2章9~11節
 
 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。                           ヨハネの手紙第一 2章12節

 すでにイエス様が来てくださって、十字架の死によって私たちの身代わりとなってくださり、しかも、死からよみがえって救いを完成してくださいました。すでに罪(イエス様の言いなりにしない生き方)から救われる道が与えられているのです。聖霊様が与えられているのです。
 自分はだいじょうぶ、良い人、信仰の人(光の中にいる)と思っていても兄弟姉妹を嫌ったり、いやがったり、教会の集まりで会いたくないと思ったら、それは、闇の中にいることになります。光のイエス様を信じていると思っても闇の中、サタンの支配にいるということです。なぜなら、兄弟姉妹を愛することがイエス様を愛することだからです。
 「教会の人たちは冷たい、愛がない、交わりが足りない」と、不平・不満が出てきたら要注意です。そのようにして熱心だった兄弟姉妹が、主から離れ、サタンに渡され、不信仰に陥ってしまいました。
 聖書は言います「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがない。」と。よく「教会の○○兄弟姉妹につまづいた。だから、教会を離れます。」と言うことばを聞きます。
 「あなたがたのせいで、私はこうせざるを得なかった。」「こうなったのは周りの人が悪いのであって私は悪くはない。私は被害者だ。」。先日のマサチューセッツ工科大学銃乱射事件の犯人のことばのようです。
 悔い改めて、その闇の中から脱出しましょう。このまま行くと、闇の中を闇雲に走っている人のようになってしまいます。
 イエス様によって罪が赦されて救われたのですから、罪に戻ることなく光であるイエス様といっしょに歩んで生きましょう。自分も罪人だったけれど赦されたということを思い出して、兄弟姉妹を赦して受け入れましょう。それがイエス様を愛することです。つまずかない唯一の道です。

 
                                                                               主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。
                             ホセア書14章9節

苫小牧港西港フェリーターミナル

2007-04-28 08:53:22 | エッセイ
 ちょっと立ち寄っただけですが、フェリーターミナルに来るとフッと船旅に出たくなりますね。船酔いに弱いのになぜか快適なすばらしい旅が約束されているような気がしてくるから不思議です。
 日常生活から離れたい心理が働くのでしょうか。
 聖書ではあなたにも私にもそれぞれ果たすべき役割があると言っています。それを果たすことができるように助けてくださるのが救い主イエス様です

 「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
                  新約聖書 ガラテヤ人への手紙6章5節

苫小牧港西港から見た樽前山

2007-04-27 19:53:03 | エッセイ
 苫小牧港西港樽前山モニュメント展望台から見た樽前山です。
 苫小牧港は室蘭港や小樽港のように自然の地形を利用した港ではなく、砂浜を掘り込んだ掘り込み港なので港町のような風情がないといわれますが、ここに来るとなぜかホッとしますね。海に向かって世界が広がっているような気がしてきます。西の方に見える樽前山もステキです。
 神様が私たちが生きられるように環境を整えてくださったのですね。感謝しましょう

 「神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。
 神は見て、それをよしとされた。」           旧約聖書 創世記 1章10節

苫小牧の秀峰樽前山の春の夕景

2007-04-26 19:59:15 | エッセイ
 昨日アップした夕日と樽前山は、暗すぎて樽前山がはっきりしなかったので樽前山だけもう一度アップします。
 稜線付近の雪が解けてきている様子がわかります。
 来週あたりから家庭菜園の耕作が始まります。いよいよ春ですね。
 庭のクロッカスが咲き、白つつじのつぼみも膨らんできました。

苫小牧港西港から樽前山

2007-04-25 22:27:06 | エッセイ

 苫小牧港西港フェリーターミナル近くの展望台から樽前山を撮ってみました。春のさわやかな風の向こうに少し雪が解け始めた樽前山が見えます。
 神様の手のわざである自然と人の技術を集めた港湾施設、どちらもすばらしいですね。
 昨日から苫小牧が全国ニュースに登場してしまいました。この海岸を東へ7km程行ったところで男性の全裸死体が見つかったのです。

 聖書の中にこんなことばがあります

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、・・・・・・」                               
                                            (ローマ人への手紙3章23節)

 
人は、自分を造って下さった神様を否定して罪の道に入ってしまいました。そこから救ってくださるのはイエス様だけです。


失格者になるな!

2007-04-22 17:33:07 | 礼拝メッセージ
 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。                  コリント人への手紙Ⅰ 9章23節

 この手紙を書き送ったパウロは、すべての人がイエス様の福音によって罪赦されて救われてほしいので、「私は、すべての人の奴隷となった」と告白しています。イエス様を紹介し、この福音を宣べ伝えることが自分のどうしてもしなければならないことと捉え、もし福音を宣べ伝えなかったら災いに合うと言いいました。
 彼は困難な中で福音を宣べ伝えていましたが、その中に神様からの祝福と恵み、喜びを見出していたのです。
 私たちにとっては、神様が一人ひとりに与えてくださる目的に沿って生きることが最善の道なのです。もし、災いに遭っているなら福音を宣べ伝えているか省みる必要があります。


 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。
 彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。          コリント人への手紙Ⅰ 9章24~27節

 人は、「自分が神様からの救いを受けたから後はのんびり暮らそう」「天国行きの切符をゲットしたからあとはどうでもいいや」と考えやすいものです。
 でも、主を退け、みことばを退け、教会を退け、兄弟姉妹を退けて自分勝手な道に歩んで、救いを失うことのない様にしましょう。
 聖書は、「賞を受けられるように努力しなさい。」「主に従うために自制しなさい。」「無駄な生き方をしてはいけない。」「失格者にならないように自分を打ちたたけ」と言っています。
 主や教会から離れるための口実を探すより、主に従う道を追い求めましょう。主はその望みを必ず実現してくださいます。狡猾なサタン・悪霊に惑わされないようにしましょう。
 「私はイエス様に従います。」と告白しましょう。

イエス様の真実さと私たちの真実さ

2007-04-15 23:11:25 | 礼拝メッセージ
 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。               Ⅱペテロ 3章3~7節

 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。                     Ⅱペテロ 3章10、11節

  よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。                Ⅱペテロ 3章17節


  イエス様が再びこの地球に来られるとの約束に対して、「そんなことありえない」と言って軽んじる人が増えると聖書は告げています。
 しかし、この天地万物が神様のことばによって創造されノアの大洪水によって滅びたように、将来のこともすべて神様のことばどおりになっていきます。今までの歴史と科学を調べていくならば聖書の真実さがわかります。信じない者にならないで信じる者になりましょう。
 私たちは創造主なる神様に対して真実に生きる責任があります。この責任は誰ひとりとして免れることはできません。
 いくら創造主の存在を否定したり、イエス様の神性や復活を否定したり、神様の言葉である聖書の真実さをおとしめようとしても神様に対する私たちの責任は回避できません。
 神様は愛と哀れみに満ちた方です。私たちを救うために我が子イエス様を身代わりとして下さいました。イエス様を自分自身の救い主として信じることによって、サタン悪霊の支配からイエス様の支配に移されて罪から離れた幸いな生活が与えられます。
 神様はすべての人が罪の赦しを得て救われることを願っておられます。イエス様は私たちの罪深い、不誠実な、ちゃらんぽらんな、弱い、いい加減な、どうしようもない状況を知っていて招いて下さっています。
 イエス様によって創造者と和解しましょう。

苫小牧のスイセンの芽は雪の中

2007-04-15 13:36:25 | エッセイ
 先週は春を告げる「イースター」でした。
 今年は暖冬だったし3月は暖かい日が続いていたので春は早いのかなと思っていたら、昨日から雪、雪、雪です。まだ降りやみません。せっかく春かなと思って芽を出したスイセンが雪に埋もれて寒そうです。
 このぶんだと、桜は例年どおりかな。

イエス・キリストの復活ってナニ?

2007-04-08 19:03:09 | 礼拝メッセージ

 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
                        マルコの福音書16章3~6節

 イエス様の生涯は本当に不思議な生涯ですね。世界中でイエス様のお誕生・クリスマスをお祝いしますが、それは、天使が現れて処女マリアから神の子キリスト・救い主が誕生することを告げるというお話しです。
 そして、今日は、「イースター(復活節)」、イエス・キリストが十字架ではりつけになって、死んで墓に葬られたのに3日目によみがえったという話しです。
 マルコの福音書を見ると、ここでも天使が現れてイエス様のよみがえりを告げています。通常起こりえないことが起こって生前イエス様に付き従った彼女たちもびっくり仰天しました。
 でも、イエス様の誕生が約700年前から旧約聖書に預言されていたように、復活も聖書に預言されていたことであって、起こるべくして起こった神様の救いの計画だったのです。


 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。         その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。               Ⅰコリント人への手紙15章3~6節

 パウロは手紙の中で自分の体験した復活のイエス様との出会いを証ししています。彼が伝えたかったことは、イエス様が私たちの身代わりとなって、私たちの罪のために十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に死を打ち破ってよみがえられたことです。それから、イエス様はたくさんの弟子たちの前に現れました。
 パウロは復活を経験した人々がまだ生きているうちにこの手紙に書きました。ですから、復活の真偽を確かめようと思えば本人たちに確かめることができました。逆にまったくのでたらめであれば非難を受けて消滅したことでしょう。
 この後、弟子たちはイエス様が復活したことと私たちの罪を赦してくださることを証しして、ローマ帝国の大迫害の中で殉教して行ったのです。もし、イエス様の復活が作り話だとしたら、彼らが張本人だったでしょう。自分の作り話のために殉教するほど愚かな人はいません。
 このイエス様の救いと復活が、間違った道を歩んでいた喜びのない世界中の人たちをすばらしい愛の人、喜びの人に変えていったのです。私もイエス様の救いを体験し、新しい人生をいただきました。ハレルヤ!!
 あなたは、イエス・キリストが死から復活したことを信じますか、それともバカらしいと言って否定しますか。もし、否定するのであればクリスマスはケーキを食べられませんね。


イエス様がじゃまくさい?

2007-04-01 18:24:44 | 礼拝メッセージ

1. 悪意を捨てる。

 
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
 それによって成長し、救いを得るためです。                  第1ペテロ2章1、2節

 赤ちゃんにとって初乳は大切な免疫力につながる成分が入っているそうです。人間にとって神様のみことばである聖書を信じて自分のものにすることはとても大切なことです。それが私たちを成長させます。
 そのためには、悪意や偽善、悪口を悔い改めて捨てなければなりません。なぜなら、それはサタン・悪霊からくる惑わしであり、罪であり、イエス様を不要とする不信仰であるからです。
 まず、神様、イエス様、隣人、自分に対する悪意を捨てましょう。


2. イエス様のところに行こう

 
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
 そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。                                   第1ペテロ2章4、5節 

 イエス様は人からは嫌われて捨てられ、十字架につけられてしまいました。でも、神様の目にはすごくたいせつな方です。
 わたしたちもイエス様に従って行こう、正しい道を歩んで行こうとするときに周りの人から嫌がられるかもしれません。でも、神様の目からはすごく尊い存在なのです。
 そして、霊の家である教会に築き上げられイエス様に従う道を歩むことができるのです。自分自身をイエス様にささげましょう。

3.イエス様がじゃまくさいですか。

 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。
 彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。                                第1ペテロ2章6~8節

 あなたの心の中で「ちょっとイエス様がじゃまくさいなぁ」とおもったことはありませんか。イエス様に信頼している人は、失望することがありません。でも、信頼していない人にとっては、じゃまくさい石ころ・岩なのです。心を正していきましょう。

4・あなたはイエス様によっていやされたと信じてますか

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。                        第1ペテロ2章24、25節

 わたしたちはイエス様によって心の傷もいやされました。これを信じましょう。この事実を信じなければ、いつまでたってもいやされたことを体験できないでしょう。
 みことばを否定しないようにしましょう。