シャロームチャペルからあなたへ

苫小牧めぐみキリスト教会シャロームチャペルのブログです。

苦しみを受けた人は・・・・・

2009-11-29 21:41:29 | 礼拝メッセージ
 キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。
 肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。
                                 Ⅰペテロ 4: 1~5

 イエス様はわたしとあなたのために十字架で苦しみを受けて下さいました。
 イエス様を救い主と信じる人は、「イエス様に従うことは苦しむことだ」と信じなければいけません。
 私たちが苦しみに会う時に、イエス様に不平不満を言って不信仰に陥ってはなりません。
 苦しみを通して罪と決別しましょう。
 詳訳聖書では「キリストの心をもって、肉において苦しみを受けた者は、故意の罪を行なうことをやめてしまったのです。(自分自身とこの世とを喜ばせることをやめて、神に喜んでいただくようにするのです。)」とあります。


 
しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。
 かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。
 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。
 さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。
                                  Ⅰペテロ 4:16~19

 私たちはみな、神様の前にすべての言動について申し開きをしなければなりません。
 神様の裁きは教会から始まります。
 苦しみの中から主のみこころを学びましょう。
 どんな時でも、イエス様を喜ばせる道を求めましょう。

今日も新冠町

2009-11-27 00:03:22 | エッセイ
 今日も新冠町へ行って来ました。

 冷たい雨でした。

 サラブレッド銀座駐車公園の碑です。

 

 新冠川と新冠橋を撮りました。

 

 新冠泥火山の碑です。 

 泥火山は8つもあるんですね。

 7番目と8番目が大きくて国道から見えてます。

 向こうに見えるのが8番目の泥火山です。

 

主の前に生きる者

2009-11-22 22:49:54 | 礼拝メッセージ
 次のような主のことばが私にあった。
  「人の子よ。あなたの民の者たちに告げて言え。
 わたしが一つの国に剣を送るとき、その国の民は彼らの中からひとりを選び、自分たちの見張り人とする。  
 剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。  
 だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。 
 角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。  
 しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。  
 人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。  
 わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。
                                エゼキエル 33: 1~8

 イエス様はあなたとわたしを救い出して「福音:よきおとずれ」を宣べ伝える者として下さいました。 
 あなたはそれを光栄と思って喜んでいますか? 
 あなたの家族やお友だち、ご近所の人、出会う人々にイエス様の救いを伝えていますか。
 私たちには福音を伝える責任があります。
 その福音によって人は悔い改めに導かれ、永遠の地獄から救われます。
 パウロ兄弟は次のように言っています。
 

 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。 
 もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。
                                    Ⅰコリント 9:16

 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
 それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。        
                                    Ⅰコリント 9:27

  わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
                                   ヨハネ15:15~16

 イエス様は私たちにすべてを教えて下さいました。
 「神様がすべてを創造されたこと。イエス様が神でありながら人となって来て下さったこと。罪のないイエス様が罪ある私の身代わりとして十字架で死なれ三日めによみがえられたこと。神様がすべての人をさばかれること。すべての人はイエス様に愛されている。」
 これらのことをみんなに知らせましょう。
 多くの実を結ぶことができます。
 パウロ兄弟は主イエス様からの使命を大切にしました。
 あなたも失格者にならないようにしましょう。

今日の新冠は雪でした。

2009-11-21 21:46:04 | エッセイ
 今日は今シーズン初めての本格的な雪でした。

 間もなく解けてしまいましたが寒かったです。

 サラブレッドは雪の中黙々と草を食んでいました。

 
 


 生垣にも雪・・・・。

 


 これは、昨日の苫小牧の朝焼けです。

 富士山のような形をしていたのでシャッターを切ってみました。

 

 明日は、日曜日みんなで教会へ行きましょう。

 救い主イエス様とお会いしましょう。

「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」

2009-11-15 18:32:50 | 礼拝メッセージ
 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。
 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。
 人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。                     使徒の働き 20:19~21

 私たちが宣べ伝えることとは何でしょうか。 
 それは、パウロが教会の長老たちを集めて言った中にあります。
 「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」です。

 そして、パウロは「試練の中で謙遜と涙をもって主に仕え」「相手のためになることを知らせ信仰について教え」ました。


 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』  
 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。
 そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。                               
                              使徒の働き 26:17~22


 人は神様に対する罪については「神様に対する悔い改め」によって解決する必要があり、罪科(罪過)についてはその相手に直接悔い改める必要があります。
 悔い改めの真価は「ふさわしい行い」によって知ることができます。

 私たちの宣べ伝える福音は、人をサタンの支配からイエス様の支配に移すことができる神の力です。



 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。
 同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
  しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
 聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
 宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
 次のように書かれているとおりです。
 「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
 「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。                     ローマ 10:12~17

  どんなにすばらしい商品があっても、宣伝をして消費者の皆さんに知っていただかなければ売ることができませんし、その商品のすばらしさを享受することができません。
 先にイエス様を救い主として信じさせていただいたクリスチャンがイエス様を宣べ伝えるしか方法はないのです。そのようなクリスチャンをイエス様は喜んでくださいます。

新冠町判官館森林公園

2009-11-09 20:35:28 | エッセイ
 新冠町の判官館森林公園に行って来ました。

 散策路からサラブレッド銀座が見えました。

 

 公園の中はバンガロウーやキャンプ場があり楽しそうです。

 自然も豊かでカケス、アカゲラ、シジュウカラなどがいました。

 タンポポが咲いていました。やはり、ちょっと変な気候ですね。

 

 不思議な木の実が生っていましたが、何の木でしょう。
 

恵みと知識と信仰

2009-11-08 17:46:29 | 礼拝メッセージ
 愛する人たち。
 そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。 
 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。
 このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。
 アーメン                            Ⅱペテロ3:17,18

 私たちの信仰生活において大切なことは、  

 ①イエス様の恵み 
 ②イエス様についての知識  

 をしっかりと把握することです。  

 大きな信仰を持って進んで行こうと思っても、イエス様の恵みとイエス様についての正しい知識がなければ、正しい信仰には至りません。
 いつも、「こんなはずじゃない。私のイメージと違う。」とつぶやいて不安定な信仰生活を送ることになります。  

 ①イエス様の恵み 
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。                    ローマ3:24  

 
②イエス様についての知識 
 たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。私たちは、すべての点で、いろいろなばあいに、そのことをあなたがたに示して来ました。                         Ⅱコリント11:6  

 パウロは旧約聖書に通じていました。
 厳格なパリサイ派に属していました。
 エマオの途上でイエス様にお会いしてから、旧約聖書に約束されているメシヤがイエス様だとわかって、徹底的に聖書を研究しました。
 聖書に基づく正しいイエス様理解が、彼を異邦人の使徒としたのです。

 「イエス様の恵みと知識」これらについて正しい認識を得たならば、正しい信仰を持ちましょう。
 そうすれば、不信仰な人たちによって迷わされることもありませんし、堅実な信仰生活を送れます。
 ただし、信ずるべきものがハッキリしているのに、片足だけ突っ込んで恵みだけをいただこうと思ってもそうは行きません。
 やはり、つぶやきと不安定な信仰生活になってしまいます。 
 大切なことは、聖書からイエス様の恵みとイエス様ご自身を正しく理解し、全幅の信頼を寄せることです。

文化の日。苫小牧は冷え込みました。樽前山初冠雪。

2009-11-03 18:04:48 | エッセイ
 今朝の苫小牧はマイナス5.2℃でした。

 昼の最高気温はプラス4℃でした。

 風もあったし寒かったです。

  バケツに氷が張りました。

 

 樽前山は初冠雪です。

 (昨日ちょっと白くなったそうですが私が確認してませんので・・・・。

 
 


 近くの雑木林ではマユミが赤くなっていました。
 
 殺風景な雑木林でひときは目立っていました。

     
 


 家庭菜園では大根が収穫できました。(イエス様に感謝ですね。)

 


 ヤーコンもこんなに採れました。

 

新しい戒め

2009-11-01 18:24:35 | 礼拝メッセージ
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
 あなたがたは互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」
 イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
                               ヨハネ13:34~38


 イエス様は、今、裏切って部屋を飛び出すユダを見送り、この数時間後に残りの弟子たちも見捨てて去ってしまうことを知っておられました。
 家族や仕事を捨ててご自分について来た弟子たち、3年半も寝食を共にしてきた愛する弟子たち、そんな弟子たちに最後のことばを残されたのです。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。」
 本当に重い言葉です。
 ペテロはイエス様に従ってきた自負があったので、自信を持ってイエス様も仲間たちをも愛せると宣言しました。
 しかし、結果はイエス様が言われたように3度もイエス様を否定してしまいました。
 私たちにとっても重たいことばです。
 イエス様が愛するように兄弟姉妹を愛するとはどういうことでしょうか。



 また、愛のうちに歩みなさい。
 キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。
 そのようなことは良くないことです。
 むしろ、感謝しなさい。
 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
 むなしいことばに、だまされてはいけません。
 こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。
 光の子どもらしく歩みなさい。
 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
                                 エペソ5: 2~10


 イエス様のように愛するとは、「相手の罪や欠点や弱さを自分を犠牲にして覆う」と言うことです。
 私たちには到底できないでしょう。
 がんばってみたところでペテロと同じ結末になるでしょう。
 でも、できることだからイエス様は命じておられます。
 それは、「主に喜ばれることが何であるかを見分ける」ことであり、イエス様、聖霊様、みことばの支配を受け入れて従うことです。
 兄弟姉妹に心配をかけないことです。
 そうすれば、「神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」が実現します。
 私たちがこのイエス様の新しい戒めを守るのであれば、「教会の指導者を悪く言ったり」「兄弟姉妹を悪く言ったり」「教会を渡り歩いたり」「分裂分派をつくる」必要はなくなります。
 「愛は多くの罪をおおう」からです。



 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 愛のない者に、神はわかりません。
 なぜなら神は愛だからです。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
 ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。
 もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
 神は私たちに御霊を与えてくださいました。
 それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
 神は愛です。
 愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
                                   Ⅰヨハネ 4: 7~16