†† 元旦礼拝の案内 ††
2006年1月1日 AM10:30~
新しい年の始まりは教会で!
天地万物をお造りになった神様を礼拝しましょう。
皆様のお越しをお待ちしております。
†† 元旦礼拝の案内 ††
2006年1月1日 AM10:30~
新しい年の始まりは教会で!
天地万物をお造りになった神様を礼拝しましょう。
皆様のお越しをお待ちしております。
ガラテヤ人への手紙3・4章
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられた者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
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そして、あなたがたは子であるゆえに、神は、「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。・・・・・・・・・・・
パウロは、ガラテヤ教会の兄弟姉妹が惑わされて混乱していた「信仰」と「律法」の問題について説明します。
イエス様は「律法」が成し得なかった「救い」を、自らのろわれた者となって完成してくださいました。「律法」ののろいから私たちを解放したのです。ですから、信じる私たちは神様の恵みを無駄にすることなく、「イエス様が私の内におられ、私が生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっている。」と言うことができるのです。
私たちと神様の関係は、聖霊様を通して親しい親子関係になったのです。「律法」によって救われようとすれば、律法を完全に守らなければなりません。古今東西、聖人や教祖、善人、王、人格者であってもすべて罪ある人間です。だれ一人と律法を完全に守ることはできません。律法と人間は「のろいと奴隷」という関係しか生まないのです。
しかし、その律法も私たちをイエス様のもとへ導く養育係としての働きがある大切なものなのです。律法がなければ罪を知ることはできません。私たちは自分自身の罪を知り、弱さを知ってイエス様に救いを求めることができるのです。
パウロはガラテヤ教会に対しても、自分が宣べ伝えてきたことに反し、聖書の教えから離れていく兄弟姉妹に対して心配しています。
†† 2005 クリスマス礼拝 ††
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。 この方こそキリストです。 (聖書 ルカの福音書2章11節)
クリスマス=イエス・キリストの誕生を教会でお祝いしませんか。
内 容:聖書メッセージ、キャンドルサービス、プレゼント、コーヒータイムなど
と き:2005年12月23日(金) 19:00~20:30
ところ:苫小牧めぐみキリスト教会シャロームチャペル(柏木町3丁目13-24)
入場料:無料(パキスタン地震被災者援助のための席上献金があります。)
☆ こどもたち、あつまれ! こどもクリスマス会おこないます。
●こどもクリスマス会
と き:2005年12月17日(土) 10:00~11:30
ところ:苫小牧めぐみキリスト教会シャロームチャペル
「愛すれば愛するほど」 第2コリント12章1節~13章13節
・・・・・・しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。・・・・・・
・・・・・私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
パウロは自分が開拓し、救いに導き、立て上げてきた教会の兄弟姉妹に対して、何と切ない気持ちを持っているのでしょうか。親の心をわかってくれない我が子に対するように、片思いの恋愛のように、切実な思いを語っています。
イエス様を信じているゆえの命がかかるような、迫害者から来る迫害。イエス様に従っているゆえの偽クリスチャンからの迫害。望まない災害や災難。いっぱいいっぱいの中で歩んでいました。
それに加えて信頼していた兄弟姉妹からの冷たい反応。パウロをこきおろして自分たちの優位性を誇るにせ兄弟たち。しかたなくパウロもあえて自分のことを話します。しかし、パウロはあくまでも自分の弱さのうちに神様の力が働いて強く生きられると告白します。そして最後には、親が子を慈しむように、罪から離れてイエス様に従う、信仰の道を進むように勧めています。イエス様の祝福を祈っています。自分の財を惜しまず、いや、命さえ惜しまずに与えようとしているのです。このパウロの姿にイエス様の姿を見ることができます。
私たちの信仰生活にも望まないこと、願わないことがやってきます。イエス様に従うときにばかにされたり、極端だと言われたり、嫌がられたりします。肉の信者から迫害されることもあります。しかし、私たちは弱いときにこそ神様の力が働いて強くなれるわけですから甘んじて受けましょう。最終的にはイエス様がすべてを裁かれます。
そのイエス様は、今、私たちに語っておられます。「私は、あなたがたが強くなるように、完全な者になるように願っています。私のことばと約束を信じてともに歩んでください。」
「神は喜んで与える人を愛してくださる。」
第2コリント9章5~11節 2005/12/4
どうかこの献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神はあなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」
と書いてあるとおりです。
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊になって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
パウロはコリント教会が母教会であるエルサレム教会に「霊的な祝福(犠牲)」に対して「物質的な祝福(犠牲)」を返すことを喜び、称賛しています。そして、それが多くの人々をとおして神様への感謝へとつながると言っています。
教会での献金や募金を「取られる」とか「仕方なしに」と思ってささげているのであれば大損をしていることになります。永遠を考えなければ、なるべく自分のためにためてなるべく自分のために使うことをおすすめします。(でも、自分のために集めると欠乏するようになっています。)イエス様が勧めておられるように「天に宝を蓄える」のが一番良いようです。
神様は博愛主義者とは関係のないお方です。神様は欠乏している兄弟姉妹に、喜んで与える人を愛してくださいます。だれでもかれでもどんな人でも愛するわけではありません。 神様は、なんと、わたしたちが「常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるように」してくださいます。惜しみなく与えることによって、かえって、満ち足りた者、良いわざができる者になることができます。すばらしい魅力的な生き方ですね。それが、イエス様によってあなたにもわたしにも準備されているのです。
心から感謝してその言葉、約束を受け入れて信じましょう。信じないと何も起こりません。信じないと何も始まりません。神様はあなたが求めてもいないのに一方的に信じ込ませることはできませんしそんなことはしません。