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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 静岡県旧蒲原町(静岡市)

2019年01月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

旧庵原郡蒲原町(かんばらちょう)は静岡県の中部に位置した町です。江戸時代には東海道15番目の宿場「蒲原宿」が置かれ、宿場町には今も往時の賑わいが残されています。

町域の南側は太平洋に面しており、水産業、特にサクラエビの漁獲が盛んで、それに伴い、缶詰工場・加工工場が集中しています。富士市、由比町、富士川町に隣接。「町の木:松」「町の花:サツキ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、庵原郡蒲原宿と近隣4ヶ村が合併し、庵原郡蒲原町が発足。

2006年、静岡市に編入合併、清水区の一部となりました。

1960年代の前半に制定された町章は「「蒲」は赤色で「ミカン・サクラエビ」をあらわ、円の下部の緑色は「原」を表します。」

中央に「蒲原町」と自治体名が書かれた、典型的なJIS型のマンホールです。

これも同じく、中央に「蒲原町」と自治体名が書かれた、消防水利のマンホール。

二つの纏が組み合わされた消火栓、右上に「蒲原町」の町章を配しています。

上部に町章を配した仕切弁、たとえ上水道関連だけでも、こうした旧時代の名残が残っていた事に感謝です。

「用地界標」とは、鉄道用地の境界線上に設置されるもので、国鉄やJRの場合は[エ]のマーク。 マンホールとはあまり関連のないものですが、路上にあるとつい気になって(笑)

撮影日:2011年11月12日

 


三保の松原 in 静岡県静岡市清水区

2019年01月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡市清水区の三保半島に位置する、謡曲『羽衣』の舞台で知られる景勝地「三保の松原」。佐賀県唐津市「虹の松原」、福井県敦賀市「気比の松原」と共に、日本三大松原とされており、国の名勝に指定されています。

更にその美しさから「日本新三景」とも称えられているそうで、今回の旅では訪問を楽しみにしていた景勝地の一つ。ところで「日本新三景」は「三保の松原」に九州の「耶馬溪」、北海道の「大沼」だそうで、日本人って何でも三つにまとめるのが好きなんだなと笑ってしまったのだけど、では誰がそれを決めたんだろう?(笑)。
それはさて置き、早朝の海岸から望む駿河湾越しの富士山は、まさに神々しいばかりの美しさ。

子供の頃【白い浜辺の松原に~♪】で始まる童謡の、白い浜辺が何処なのかずっと疑問でした。 何故なら、歌詞はいつも二番の【天の羽衣ひらひらと 天女の舞の美しさ】で終わっていたから。
大人になって昔の童謡を聴く機会があり、三番が【空にほんのり富士の山】で終わるのを知りました。 富士山が見えて天女伝説の残る松原は、ここ清水区の三保半島に広がる「三保の松原」だけ。 だから実際に、朝霞の中に浮かぶ富士山を見た時は、思わず子供の頃のように羽衣を口ずさんでいました(笑)

天女が舞い降りたとされる「羽衣伝説」の舞台には、「羽衣の松」が大切に保存されています。 羽衣の松は「御穂(みほ)神社」の御祭神が降臨する際の依り代とされており、現在は三代目だとか。
初代「羽衣の松」は宝永4年(1707)の富士山大噴火の際に海に沈んだとか・・。神の依り代が富士の炎と共に海に沈む、不遜な言い方ですが「何と意味深な物語・・」

羽衣の松の傍ら、駿河湾をのぞむ浜辺に鎮座されるのは「御穂神社」の離宮とされる「羽車(はぐるま)神社」。御祭神は『三穂津彦命(大国主命)・三穂津姫命』の夫婦神。こちらでは石に願い事を書いて納める風習があるそうで、今でも願い事が書かれた石を見かけます。

絵馬には「富士山と松、羽衣を受け取る天女と漁師の白龍」が描かれ、「羽衣の松」の文字。 三保の天女伝説では、漁師は素直に羽衣を天女に返し、天女は舞を見せて天に帰って行きます。が、天女が舞い降りて羽衣をかけた松、これはもう全国のどの羽衣伝説でもぶれない設定のようです。

謡曲『羽衣』はこの伝説を元にして作られたもので、室町時代から現代に至るまで人気の演目。 能の中で三保の松原の美しさを讃えて謡われる【君が代は 天の羽衣まれに来て 撫づとも尽きぬ 巌ならなむ】この一節が大好き🌸。

松原の一画に、フランスのダンサー『エレーヌ・ジュグラリス』の功績を称えて建立された「エレーヌの碑」。 彼女は日本の能を研究する中で「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣」を発表しました。そしていつかその舞台となった三保の松原を訪れたいと願っていたそうですが叶わず、35歳の若さで病死。「せめて髪と衣装だけは三保の松原に」、エレーヌの遺言どおり、夫は彼女の衣装と遺髪を持って来日。 この秘話に共感した地域住民により、昭和27年にエレーヌの功績を称えた「エレーヌの碑」が完成。 「羽衣の碑」とも名付けられた碑の袂には、彼女の願いどおり、遺髪が納められているそうです。

「御穂神社」から「羽衣の松」まで、樹齢200年から300年の老松の並木が濃い緑の影を落として続く「神の道」

その「御穂(みほ)神社」には、羽衣の切れ端といわれるものが保存されているんだそうです。
ん?? 羽衣の切れ端って?? 、もしかして白龍が松から羽衣を取ったときに千切れたとか?! 天女の羽衣なのに、切れるとか有り得ないでしょう!!というお馬鹿な突っ込みはこの際、無しという事で(笑)

訪問日:2011年11月13日

2013年、三保の松原は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されました。

 


日本平・清水港 in 静岡県静岡市清水区

2019年01月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

駿河湾沿岸近くの有度山(うどやま)の山頂と、その一帯に位置する「日本平」。 駿河区と清水区の境界にある景勝地で、その名称は『日本武尊』の伝説に由来します。

日本平から望む富士山は遥かに遠く、それでもなお美しく、『日本武尊』も同じ景色を見たかもと思うだけで胸が熱く(笑)ついつい感動してしまう私。
はるか昔・・・小高い丘に登り周りの平原を見渡す『日本武尊』の姿を見た土地の人たちは、この地を「日本平」と名付けたと・・・古より語り継がれてきました。

【倭は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 倭しうるわし】 

古事記に登場するこの歌は、『日本武尊』が死を前に故郷である大和の国を懐かしんで詠んだと伝えられています。所詮神話の作り話、実在などしないと笑う種類の人たちもいますが、私は『日本武尊』が詠んだと言われる「倭(やまと)しうるわし」のこの言葉が、切なくなる程好きです。

訪問日:2011年11月13日

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神話ではなく実在の人物として、清水区には私が愛してやまない侠客『清水次郎長』がいます。『大政・小政に森の石松』、次郎長一家の話は、映画や小説でもずいぶんと取り上げられました。 みんな飛びっきりの男前な気質で、子供心にも胸がときめいたのを覚えています(笑)
ご亭主殿が感慨深げに見ている建物は、明治十九年に清水次郎長が清水波止場に開業した「船宿・末廣」を復元したもの。

『清水 次郎長』・・本名『山本 長五郎』は、幕末・明治の侠客で東海道一の大親分とうたわれた人物。次郎長は晩年の住居を港の中心部(清水区港町)である波止場と定め、「船宿・末廣」を建てました。「勝運」「願 次郎長」と刻まれた碑は、侠客であった次郎長らしいよね (^^♪

「末廣」には、日露戦争で活躍した『広瀬武夫』『小笠原長生』、画家の『富岡鉄斉』。広辞苑編者の『新村出』等々・・私でも名前を存じ上げている著名人が訪れ、次郎長と歓談したと言われています。

しっかり者の女房『お蝶』に店の事は任せっきりで、木綿の着物に素足でどこへでも出かけた次郎長。 おしどり夫婦として仲良く寄り添い、大勢の子分たちの親代わりとして慕われ束ねてきた次郎長親分。

次郎長の晩年は、近所の子供たちに慕われ、ゆったりと時を過ごす「港のおじいさん」。穏やかで和やかな時間は、時に生死を分ける博徒の世界に生きてきた次郎長が最も欲して来た時間だったのかもしれません。
明治26年(1893)、風邪をこじらせた次郎長は、恋女房のお蝶に手を握られ73才でこの世を去ります。 大正5年(1916)にお蝶も死亡。「船宿・末廣」は次郎長の養女『山本けん』が引き継ぎました。

1999年、清水港のすぐ近くを流れる巴川の河口付近に建てられた「清水港船宿記念館・末廣」。もう少し早い時間に訪問できれば、「次郎長親分の等身大の人形」と記念写真も撮れたのに、ああ、勿体無かったな・・・。
目の前に広がる海の景色は、かって次郎長親分が眺めた頃とは違っているだろうけど、空を写す海の色はきっと変わっていない。激動の時代の中で、幕府軍・官軍の色分けをせず、人としての誠を貫き、清水港の発展に尽力した「清水の次郎長、まっこと男前!!」

訪問日:2011年11月12日

 


ご当地マンホール in 静岡県旧清水市(静岡市)

2019年01月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

旧清水市(しみずし)は静岡県中部、日本平の東麓に位置した市です。静岡市・由比町・芝川町、山梨県南部町に隣接。富士山を望む天然の良港「折戸湾」を有し、古くから海運中継地として、また東海道江尻宿の宿場町として発展してきました。世界遺産に指定された羽衣伝説で知られる三保の松原に囲まれた清水港は「日本三大美港」の一つとしても知られています。「市の木:菊&薔薇」「市の花木:花水木」「市の花:サンゴジュ&ヤマモモ」を制定。

またJリーグ創設当初からのプロサッカークラブ「清水エスパルス」のホームタウンとしても有名で、Jリーグ草創期には「日本のブラジル」とも呼ばれた清水市。市域の様々な場所でサッカーの名場面をかいま見る事が出来ます。

明治22年(1889)、町村制の施行により、有渡(うど)郡清水町・入江町・不二見村・三保村、庵原郡江尻町・飯田村・高部村・興津町・袖師町・庵原村・小島村・両河内村が発足。

1893年、庵原郡江尻町から辻村が分立。

1896年、 郡制の施行により、安倍郡・有渡郡の区域をもって、改めて安倍郡を設置。

1918年、庵原郡辻村が町制を施行、庵原郡辻町が発足。

1924年、安倍郡入江町が庵原郡江尻町・辻町を編入。同年、清水町、入江町、不二見村、三保村が合併、市制を施行、清水市が発足。

1954年、清水市が庵原郡飯田村を編入。

1955年、清水市が安倍郡有度村、庵原郡高部村を編入。

1961年、清水市が庵原郡興津町・袖師町・庵原村・小島村・両河内村を編入。

2003年、静岡市との新設合併ににより、静岡市清水区となりました。

マンホールには雄大な「富士山」を背景に、「三保の松原・神の道」が描かれています。

モザイクタイルで描かれた「富士山」と「三保の松原・神の道」

葵区と清水区を流れる巴川流域区域の下水処理の為に建設された「静清浄化センター」。

清水区清開にある「静清浄化センター」には、「静岡県・静岡市・清水市」のマンホールが展示されています。

清水市のマンホールには、市章を中心に、「市の花:キリシマツツジ」がデザインされています。

昭和3年8月10日制定の市章は「頭文字である「清」を図案化したもの」

消火栓や仕切弁はサッカー関連のデザインですが、市章が無いタイプ。おそらく合併後に設置されたものと思われます。

従来からの清水市の市章付き消火栓&仕切弁

清水駅の階段横の壁には、名所旧跡を紹介するエスパルスのマスコット『パルちゃん』

エスパルス通りは、ガードの縁石はもちろん、ちょっとした休憩コーナーだって御覧の通りサッカー一色。

名前が読めたので紹介する(笑)『フッカ元コーチ』の手形。他にも(多分)有名な選手のサイン付き足型が沢山ありました。

清水区広報キャラクター『シズラ』。清水の「シ」に方言の「ズラ」を合わせた造語が名前の由来です。

撮影日:2011年11月12日&2016年12月10日&2018年11月14日

 


宇津谷隋道(明治第二トンネル) in 静岡県静岡市

2019年01月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡市駿河区宇津ノ谷と、藤枝市岡部町岡部坂下の境にある「宇津ノ谷峠(うつのやとうげ)」。ここに明治9年(1876)に、日本初の有料トンネルとして開通した「宇津谷隧道」があります。

ずっと気になりながら立ち寄れなかったこの明治の遺産、今回やっと訪問する事ができました。「道の駅:宇津ノ谷峠」に車を置いて、そこから徒歩で「宇津ノ谷集落」へと向かいます。

道の駅の外れにある「蔦の細道」は、平安時代初期から室町時代後期まで使用された古代の官道。古道好きには最高に楽しめる道のようですが、私には多分縁のない道(-_-;)。

写真は「宇津谷隧道」の休憩所にあった「蔦の細道」。何となくですが良い雰囲気でしょう。とは言え、心惹かれるも足に問題ありの私。できれば歩きたくない同行者。二人の思惑を知ってか知らずか、ご亭主殿は笑うだけ(笑)

丸子川を超えて宇津ノ谷の集落の中を進む東海道。集落の入り口にあった「宇津ノ谷峠案内図」。左が集落を突っ切る東海道、右側の広い道が旧・国道一号線。

街道の左側は川、真冬という季節の所為なのか水は少なく、それがまた妙に寒さを感じさせて、息を吹きかけながら手をこすりあわせる女二人。

「鞠子(丸子)宿 」と 「岡部宿」との間、宇津ノ谷峠を前にして間宿として栄えた静かな山あいの集落。なだらかとは言えない坂道沿いの家々を見ながら、塵一つない道を歩けば気分はまるでタイムスリップ。

集落の中で一際目を引く佇まいは、「お羽織屋」の屋号を持つ石川家。

ー東海道宇津谷 石川家  お羽織屋 豊臣秀吉公のお羽織の由来ー

【天正十八年(一五九〇)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷(うつのや)に休息した。その際、当家の祖先が馬の背を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康も、この羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。】 説明板より
説明の中にある「カイキ」は「甲斐絹」と書き、南蛮船によって渡来した非常に高価な絹織物の名称。 明治11年に馬で峠越えをされた『明治天皇』は、このお宅で小休止をされたそうです。

集落の外れ近くまでくると坂道はさらに急になり、手すりつきの石段にすがるように一歩・・一歩。 石垣を彩る花に目をやる余裕もなく、ひたすら足を運んでいるので、当然無口になってしまいます(笑)

やっと上りきって振り返る集落の間には、歩いてきた東海道が真下に。集落の向こうに見える緑深い山々・・・東海道はあの山の中を突っ切ってここに続いていたんだと改めて思う。

「宇津谷隋道」へ行く前にほんの少し右にそれて「国史跡・東海道宇津谷峠越え」入口まで。 この道は、秀吉の小田原攻めの際に開削されたもので、「出世街道」とも呼ばれる峠越えの山道。

実際にはほんの20mほど歩いただけですが、気分だけは歴史的な道に足を踏み入れた!!(笑)。下の写真は「蔦の細道」と同じ場所から転載したもの。 山道はどっちも大差ないと思えるのですが、旧東海道になって峠越えは格段に楽になったそうなので、してみれば、蔦の道は金輪際、私たちには縁の無い道のようです(^^;)。

さぁ、やっと「宇津谷隧道・静岡側坑口」・・・・一人なら、間違いなくこの場で回れ右をしたかも(笑) いや、その前に一人ならここまで到達出来ていない。

【明治9年(1876)6月、我が国初の有料トンネルがスタートした。工事費2万4,817円余(官の支給分8,300円)で、その経費は50年間の道銭徴収、大人2厘(後に6厘)、子供1厘(4厘)でまかなうというものだった。完成したトンネルは長さ221m、高さ4・5m)、幅5・4mであったという。
その後、明治29年(1896)火災により焼失するが、明治37年(1904)に修復・改修され再開通した。 工事では当初「くの字形」であったものを直線にして、内側を赤レンガで覆う改良も行われた。】

天井につるされた照明が赤レンガの壁に反射し、その光景はまるで不思議の国への入り口。 じっと見上げているとこのまま異空間に誘い込まれるような・・・そんな錯覚をあながち笑えない・・不思議な国に通じる不思議な時間の扉。

いつになくおしゃべりになってしまう女二人、多分、少しだけ臆病風に吹かれ始めた所為かもしれません。 出口が近づき人工ではない明かりが見えてきた時は、わけもなくほっとため息。

「トンネルを抜けるとそこは藤枝市だった」・・なんてしょうもない話をしながら、それぞれに記念撮影もして。

再び不思議な国への入り口へ、でも帰りは驚くほど短い距離・・人の心理って本当に不思議で面白い。

元来た道まで戻ってとりあえず一息。不意に何かに呼ばれたような気がして山裾を見れば、何時の時代かも定かでない板碑。手を合わせて旅の無事を祈り、さて、元来た道を下りますか(^-^)

1997年5月7日、「明治宇津ノ谷隧道」は国土の歴史的景観に寄与するとして、国登録有形文化財に指定されました。

訪問日:2016年12月11日

 


静岡市内の歴史的建造物(国登録有形文化財) in 静岡県静岡市

2019年01月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に続いて静岡市内に残された、国登録有形文化財の歴史的建造物の紹介は、市役所庁舎のすぐ近くに、昭和12年(1937)に完成した「静岡県庁舎本庁舎」。1934年の懸賞設計当選者『泰井武』の案に基づき、『中村與資平(よしへい)』が実施設計を担当。

コンクリート造りのビルに瓦屋根が載せられた「帝冠様式」とよばれる和洋折衷の建築物。上から見ると「日」の形になっているそうで、興味津々。

建物の内部は見学できていません。市役所と違って県庁舎はなぜか敷居が高く感じられて・・でもそれって、もしかして私だけ?(笑)

静岡市葵区呉服町の通りに面して建つ「静岡銀行本店」『中村与資平』の設計で「旧三十五銀行本店」として昭和6年(1931)に完成。実際の店舗なのでもちろん内部の見学は不可(^^;)。

上が2011年の画像、下は2016年の画像・・こうして見るとまるっきり別の建物みたい。

市内から少し外れた駿河区高松の海岸沿いに建つ、国登録有形文化財「旧マッケンジー邸」

昭和15年(1940)に『ダンカン&エミリー・マッケンジー』夫妻の住まいとして竣工された建物で、設計者は『ウィリアム・M・ヴォーリズ』。そうあの『ヴォーリズ』!  まさか静岡市内でヴォーリズ建築が見られるとは!

赤い西洋瓦葺きの屋根に、スタッコ仕上げの荒い白壁・アーチ型の窓・ロートアイアンの装飾グリル・・・等々。 スパニッシュスタイルの住宅様式は、まさに絵に描いたような「ヴォーリズ建築」。

それにしても、靴底の上から痒いところを書くようなこの苛立たしさ。もう少し近くに行きたい!! とはいえ、敷地の入り口に架けられた「休館日」の札は、調査不足の私が悪いんだと言うように事さら大きく見える(-"-)
角度を変えただけの写真、これでも私の嘆きを見過ごせないご亭主殿が頑張ってくれた一枚(笑)

道路を挟んだ向かいに広がる駿河湾、二階の窓からは「富士山」が眺望できたそうです。 かなり羨ましい環境の「旧マッケンジー住宅」。何時か・・があるのなら、その時は是非(ただし晴天の時に)!

建物ではありませんが、マンホール撮影のために訪ねた先で発見した珍しいモノ。 市内七間町と呼ばれる一帯には、かって大小の映画館があり「映画館街」として賑わったとか。その賑わいは今も健在で「七ぶらシネマ通り」には、往時の撮影機等が展示されており、ちょっとした人気スポットになっています。

訪問日:2011年11月13日&2016年12月11日

 


静岡市庁舎本館(国登録有形文化財) in 静岡県静岡市

2019年01月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

歴史的な背景を持つ建物、特に日本人の技術を駆使した洋風建築は私の大好物!・・・食べ以外は本当に好物が多いと揶揄される事にすっかり慣れた私(笑)、今日も静岡市内に残る美しい建物の紹介です。
トップは昭和9年(1934)10月1日に完成した「静岡市庁舎本館」。設計者は浜松市出身の『中村与資平(よしへい)』。『辰野金吾』の事務所に入社し「豊橋市公会堂」等を手がけた人物です。建設費は当時の金額で約66万円。4階建てで床面積は4881平方メートル(坪数にして1476坪強)。

静岡庁舎本館は、昭和61年(1986年)から1989年にかけて、耐震工事と改修工事が行われ、静岡県都市景観賞を受賞。1996年に東京大学安田講堂などとともに我が国最初の登録有形文化財に指定されました。現在は1階を市民ギャラリー及び執務室。2・3階を市議会、4階を傍聴席及び会議室として使用しています。

静岡市庁舎の特徴は建物の上に2層の塔屋を重ねて望楼を置き、塔頂にスペイン風のドームをのせたこの搭。市民の熱意により修復整備された「あおい塔」は、静岡のまちのシンボルとなっています。

建物全体は象牙色のタイル貼りで、随所にテラコッタの美しい装飾が見られるのも特徴。 

車寄せの部分を真横から見てみましたが、全体のタイル張りの几帳面さと装飾部分が実に見事。

それではいよいよ玄関から建物の内部へ・・・こんな美しい場所なら毎日でも訪れたい気分(笑)

玄関を入ってすぐに目に付くのは、二階への階段正面に作られた美しい造詣の明り取りの窓。窓は単に日の光を入れるだけではなく「ステンドグラス」によって作られた光の織り成す芸術空間となります。
その時々の気象や時間によって様々に姿を変える空間は、別世界と言っても過言ではありません。

ちなみにその階段は横から見るとこんな感じで、これもまた存分に建築美を堪能させてくれます。

規則正しく区切られた天井部分の細やかな細工も見飽きることなく、気がついたら首痛に(^^;)

『中村與資平』設計の建物は市内にまだ二箇所。さらに、意外な人物の設計建築もあります。 ただ、いずれも外観だけなので、まとめて明日のブログで紹介します。また静岡県内には彼が手がけた「旧三十五銀行本店」「旧遠州銀行本店」等が現存しており、それはまた折々に紹介の予定(^-^)

訪問日:2011年11月13日

 


駿府城址公園~其の二 in 静岡県静岡市

2019年01月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

トップの画像は、車の中から見えた「東御門・巽櫓」、その後ろに見える高層ビルが静岡県庁舎別館。 これを見たときは結構すごいなと思っていたのに、結局この位置からの写真はこれ一枚(^^;)

2016年の訪問では、車を入れたのが市民文化会館前の駐車場、私たちは「北門橋」から公園に入りました。改めて図面を見直したら、西門橋を出て堀沿いを歩き、二の丸橋から公園経由で帰車。このコースなら、「東御門」も、面白い銅像の数々も見逃して当然、一応・・悔しい(笑)

と・・しょうもない愚痴はさておき、最初に紹介する記念碑は「昭和五年五月二十九日・行幸御野立所跡碑」。昭和5年、城内にあった静岡34連隊の演習を、昭和天皇が「この場所でご覧になられた」という内容の碑です。

これは、その静岡34連隊が置かれていた場所を示す「歩兵第34連隊址」と書かれた記念碑。

その傍らに建てられた碑には「軍歌・橘中佐」の1番と4番の歌詞が刻まれています。 この曲は後に「静岡歩兵第三十四連隊」の隊歌となったとかで、ここにある理由に納得。

西門橋を出てすぐ、「坤櫓(ひつじさるやぐら)」を背景に「静岡城内尋常小学校の「校址碑」。 明治3年(1870)、静岡藩学問所に設置された付属小学所は、昭和25年(1950)に廃校となりました。

先の校址碑からそれほど遠くない位置に建立された「静岡学問所跡」の碑。

明治維新後、駿府に移ってきた徳川家により、藩の人材を目的として創設された「府中学問所」。創設は明治元年(1868)、しかし明治四年(1871)廃藩置県により僅か5年で廃校となりました。

そこからさらに歩くと「城濠用水土地改良区記念碑」、傍らに「城濠用水の由来碑」。 あまりにも細かい文字でびっしりと書かれており、2~3行読んであっさりギブアップ(笑)

このまま東御門に向かえば、「わさび漬け発祥の地」碑や、「弥次喜多」像も見られたのですが、気ままに歩ける二人旅と違って、誰か連れが一緒だと我儘は言えません。とは言え、見逃した面白ポイントも機会さえあれば寸暇を縫ってGetするのが私のモットー(笑)。2018年でのカード入手の祭には、画像に残し損ねた「巽櫓」と。

巽櫓をバックの弥次さん・喜多さん」がセットになったベンチ 。しっかりと写真に収めて来ました(*^^*)

訪問日:2016年12月11日&2018年11月14日

 


駿府城址公園~其の一 in 静岡県静岡市

2019年01月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区に残る「駿府(すんぷ)城跡」。別名「府中城・静岡城」。二代将軍に将軍職を譲った『徳川家康』は「大御所」となって駿府城の天下普請を行い、ここを拠点として天下の実権を掌握してきました。明治2年(1869) 江戸が東京に、駿府は静岡に改名。廃藩置県により、県知事『徳川家達』が東京に移って以降、城内の建物は全て破却。南側が県庁敷地、それ以外は茶畑に転用されました。明治24年(1891)に静岡市に敷地が払い下げられた後は「中央公園」として。昭和24年に再度大蔵省より敷地が払い下げられ、改めて「駿府公園」として整備されました。

「1989年には、市制100周年記念事業として、巽櫓が復元され、1996年には、東御門が復元。近年では、2012年4月に、その名称が駿府城公園に改められ、2014年4月には、坤櫓が復元されました。」駿府城公園の歴史より

「駿府城公園案内図」に従って園内の散策開始。最初の見所は公園の中央にある花壇の真ん中、緑の芝で作られた巨大な「葵紋」。 少し離れた場所から見おろすと、葉脈などが実に丁寧に植え込まれており、一見の価値あり。

明治29年(1896)の歩兵第34連隊の誘致に伴って埋められた「駿府城本丸堀跡」。説明によれば、幅23m〜30m、深さは5mもあったといわれ、発掘調査に基づいてその一部が復元されています。

本丸跡の中央に立つのは、鷹狩をする『徳川家康公』。大御所の貫禄は小憎らしいほど(笑)

銅像の向かいの柵内には「家康手植のミカン」があり、静岡県天然記念物に指定されています。 紀州より献上された鉢植えのミカンを植えたとあります。

2016年の時点で、家康最晩年に植えたとして、樹齢400年。日本最古のミカンが樹齢859年という記事を読んだ記憶があるので、まだやっと半分?(笑)

さて、そのお手植えミカンの近くには、【人の一生は重荷を・・・】ではじまる、かの有名な「東照公御遺訓」が建立。 ちなみに我が家のご亭主殿、この当時は「五箇条の御誓文」共々、そらで復唱できましたが、私は・・・多分半分しか復唱できないと思う。
【人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。】
【不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。】
【堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。】
【勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。】
【おのれを責めて人をせむるな。】
【及ばざるは過ぎたるよりまされり。】

こちらの図面は「駿府城 縄張図」を床に写したもの。とりあえず広大だったと言うのはわかりました(笑)

「二ノ丸水路」は、本丸堀と二の丸堀をむすぶ水路で、幅4.5m、長さは95mもあります。

何気なく見上げた「二ノ丸」の石垣。てっぺんの角っこから「何か」がこちらを見ているような・・。 まさかあんな所に石が転がってる(危険です!!)はずもないし・・と言うことでズーム。

目一杯ズームした結果、どうやら鳥を石か何かで作ったような、それとも修復の際のモルタル製? 特に近くに説明も何も無く、かといって石垣の上に上がって確かめるほどの根性も無く・・いまだ謎のまま(笑)

城址公園では、平成になって「巽櫓」や「東御門」などが復元され、資料館として公開されているとか。左手に見えるのは、2014年に復元された「二ノ丸坤櫓(ひつじさるやぐら)」。内部は三階構造で、復元に当たっては、「駿府御城惣指図」「駿府御城内外覚書」などを参考に、可能な限り忠実に復元作業が行なわれたとあります。一般公開されている一階からは、三階の梁まで見通すことができ、伝統的な工法によって復元された櫓の構造を見る事が出来ます。

さて駿府城址公園~其の二では、周辺で見かけた意外な発見、へぇ~~と興味をかき立てられた場所などを紹介して見ようと思います。

訪問日:2016年12月11日

 


沖縄県名護市&北谷町&那覇市のマンホールカード

2019年01月02日 08時00分00秒 | 沖縄・九州・関東・東北・北海道のマンホール

新年早々ですが(笑)、年末に続いて「沖縄県のマンホールカード」の紹介です。

2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(計252自治体293種類)のマンホールカードが 配布されました。名護市のカードは、名護市営市場で頂けます。

1994年に設置されたマンホールには、「カンヒザクラとリュウキュウメジロ」「テッポウユリ」が美しくデザインされています。

【名護市のシンボル「カンヒザクラ」、「テッポウユリ」、「リュウキュウメジロ」、「ヒンプンカジュマル」をデザインしたマンホール蓋です。 中央部に市章、上部に春の象徴であるリュウキュウメジロ、下部には真っ白で清楚なテッポウユリ、その周りを囲むようにカンヒザクラを描きました。 背面の鮮やかな青は美しい名護湾をモチーフに配色したもので、本市の豊かな自然を象徴しています。 そして最後のピースとなるヒンプンカジュマルですが、これは国の天然記念物に指定されているガジュマル(クワ科の常緑樹)の巨木で、絵柄のどこかに隠されています。さて見つけられるでしょうか。 Let's go ガジュマル!! 】

沖縄県名護市(なごし)は沖縄本島北部に位置しています。国の天然記念物に指定された「ひんぷんガジュマル」は、名護市のシンボルとして有名です。

キャッチフレーズは「~あけみおのまち名護市~

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2018年4月28日、第7弾として全国49自治体で49種類(累計301自治体342種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。北谷町のカードは、北谷町観光情報センターで頂けます。

2018年に設置開始されたマンホールには、町花「フイリソシンカ」と波乗りを楽しむ「ちーたん」、「サンセットビーチ」がデザインされています。

【2018年1月から設置を始めた、北谷町初のカラーマンホール蓋です。 町花「フイリソシンカ」が舞う中、見事な波乗りを披露しているのは町公式イメージキャラクターの「ちーたん」です。 宮城海岸はサーフィンやダイビングに絶好のスポットとして知られ、毎年、全国から多くの人びとがマリンスポーツを楽しみに訪れます。 また、美浜アメリカンビレッジ地区内に整備されたビーチや海岸沿いの遊歩道も見どころのひとつで、空をオレンジ色に染めながら水平線に沈みゆく美しい「夕日」はまさに絶景。 同地区には商業施設やホテルも建ち並び、食べて、遊んで、くつろげる空間となっています。】

北谷町(ちゃたんちょう)は、沖縄県中頭郡に属する町です。1908年 島嶼町村制施行に伴い、北谷間切が北谷村となり、1980年に町制が施行され北谷町が発足しました。

キャッチフレーズは「~自立、交流、共生 住民と共に創造する「ニライの都市」北谷町~

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2018年8月11日、第8弾として全国76自治体76種類(計364自治体418種類)のマンホールカードの配布が開始されました。那覇市のカードは、那覇市上下水道局下水道課(休日:那覇市観光協会「ショップなは」)で頂けます。

1977年に設置開始されたマンホールには、群れを成す「ガーラ(和名:アジ)」がデザインされています。デザインマンホールの先駆けとなった那覇市マンホール。一マンホーラーとして、心から感謝いたします。

【本市では、マンホールの鉄蓋にデザインを施し、美化と特徴を持たすため、1977年後半から魚をモチーフにデザインしたマンホール蓋を使用しています。 このデザインは、「下水道によりきれいになった水の中で、魚達が喜び群れ遊ぶ様」をイメージしたものであり、本市職員が発案しました。 当該職員は、炉端屋でガーラ(和名:アジ)を食べているときに思いついたとのことです。 このデザイン蓋は、全国の自治体における第1号のデザイン蓋といわれており、1986年日本下水道協会による「下水道マンホール蓋デザイン審査会」において、応募千点の中から20選に選定されました。】

那覇市(なはし)は、沖縄県の沖縄本島南部に位置する市で、同県の県庁所在地です。

キャッチフレーズは「~夢をかたちに、笑顔をくらしに、元気をまちに。 なはが好き!みんなで創ろう 子どもの笑顔が輝くまち~

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マンホールカード友達の皆様、遠方のカード、有難うございました。今年も楽しくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。