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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

伏見街歩き in 京都府京都市伏見区

2025年08月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

大倉記念館の近く、伏見区東柳町に門を構える「真言宗醍醐派:辨財天長建寺」。元禄12年(1699)伏見奉行建部内匠頭政宇が中書島開発の際、深草大亀谷の即成就院から塔頭多聞院を分離して創建。一般に「島の弁天さん」と親しまれています。

朱色の竜宮門と言うのはかなり珍しい気もしますが・・どうなんでしょう?

ご本堂の近くに奉納されていた石・・・、見方によっては蛇の頭のようにも見えます。近くに説明のようなものがあったと思ったのですが、それらしい画像が無いところを見ると勘違いかも・・

伏見の観光名所としては五本の指に入るという「寺田屋」。幕末の歴史ファンには圧倒的な人気を博している観光地ですが、正しくは寺田屋跡というのが正解。

ちなみに「寺田屋」の建物には、事件当時の「弾痕」「刀傷」、さらに「お龍が入っていた風呂」まであり、まるで当時そのままの建物のように説明されています。が、実際には事件の舞台となった「寺田屋」は、鳥羽・伏見の兵火で焼失。現在の建物は後の時代に、当時の敷地の西隣に建てられた事が公式に結論づけられています。単なる記念館としてみる分には問題ないのですが、偽者を本物とするのは如何なものでしょう。

実際の「寺田屋」の旧跡地は、旅籠寺田屋の西隣にあり、そこには懐手の竜馬像が申し訳のように建立されています。何とはなく憮然と佇んでいる私の耳に「こんまかことは、かまんき~」と苦笑いする竜馬さんの声が聞こえた気がします。

伏見区には、明治期に建てられた歴史的な建造物が幾つか残されていますが、「稲荷駅のランプ小屋」もその一つ。明治12年8月18日、旧東海道線が京都から大津駅まで開通したときに誕生した「稲荷駅」。このランプ小屋は開業当時、駅舎等の石油ランプ灯具の整備・保管や油類の保管に使用されたと言われており、国鉄最古の建物として「準鉄道記念物」に指定されています。

伏見区下油掛町の一画に建立されている「我国に於ける 電気鉄道事業発祥の地」。側面には「明治廿八年二月一日京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線) 南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我国において初めて開業した」と刻まれています。

上の碑が建てられているのが、「煉羊羹発祥の店」と言われている老舗の和菓子店「駿河屋本店」。人気のお店らしく玄関前には数人が並んでいました。

伏見区東浜南町にある「モリタ製作所伏見工場」。その敷地内には明治35年頃の建築とされる「旧京都電燈伏見発電所」が残されています。煉瓦・切妻造りの美しい建物なのですが・・残念ながら事前予約か何かが必要だったらしく、門の向こうに僅かに建物の一部を見ただけ。

深草田谷町にある煉瓦造り二階建ての建物は、明治41年(1908)建築の「旧第十六師団司令部」。昭和23年(1948)に学校法人聖母女学院の「聖母女学院本館」として払い下げられました。敗戦国の軍の建物を、勝者の宗教系の学校にしてしまう。心の中の小さな棘が、ふいに頭をもたげて胸を刺していきます。

「旧第16師団司令部庁舎」は、2016年2月25日に、国登録有形文化財建造物に指定されました。

伏見の町屋で見かけた鍾馗さん、顔立ちが随分と穏やかですが、こう見えて悪霊退散のエキスパートなんです。

歴史的な建造物と思われるお宅の一画に祭られていた石仏様。人様の敷地内と言うこともあり、軽く手を合わせて撮影させていただきました。

京都に限った事では有りませんが、意外な場所に色々な碑が建立されています。と言っても歩きだからこそ見つかるもので、中々写真に残せる機会は少ないのが現実。左は「北山上役行者鷲峯山道・京道」。北山上鷲峰山金胎寺は1300年前に『役小角(えんのおづぬ)』によって開かれたと伝えられている古刹。道標からさほど離れていない場所で見かけた「観月橋」の親柱。何故ここにあるのかは不明。

すっかり文字が色あせてしまった一枚の壁掛け看板。「大日本最上の丸天醤油」。丸天醤油と言えば兵庫県たつの市に本社を置く醤油メーカーですが、こうした歴史の「モノ」が残されている事にちょっと感動。      

酒造会社の建物なのか、それとも何かのお店なのか・・人物の後に看板らしきものが見えていますが、仔細は分からずとも、いかにも伏見の一画らしい風景。

【♪かっぱぱ~~ かっぱぱ~~ 河童黄桜 かっぱぱ~~】のCMソングでお馴染みの黄桜酒造。地ビールと日本酒のテーマパークという事でとても賑やか。

建物内には、かって酒蔵だった頃の名残も残されており、それなりに面白いものや興味深いものにも出会えました。

で・・ついつい目が行ってしまう飾瓦。随分と立派なえびす様ですが、何時ごろのものかは不明。

町歩きの楽しさは普通の暮らしの中に垣間見える、ちょっとしたあれこれに出会える事。と言っても、そこは普通に暮らす他人様の生活圏なのだという事、くれぐれも心に留めなければと思います。

訪問日:2006年09月02日


伏見十石舟と三栖閘門 in 京都府京都市伏見区

2025年08月08日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

月桂冠大倉記念館裏の河川沿いに幾艘も並ぶ屋形船。船頭さんの楽しい話を聞きながら、伏見ならではの酒蔵風景を水上からゆったりと満喫できる「伏見十石舟」。そそられる煽り文句に吊られて、私たちも船上の人となりました。

「「十石舟」「三十石舟」は、江戸時代に伏見からの酒や米などの搬出および旅客を大坂と行き来させるため、宇治川派流と宇治川・淀川の間を航行する輸送船としてはじまり、明治時代末期まで存続した船です。1998年、京都市および月桂冠など55法人の出資によるタウンマネージメント機関「株式会社伏見夢工房」が、かつての港町伏見を偲ぶ屋形船仕様の遊覧船として運航を開始したことで、再び濠川に航路が開設。同法人が2012年6月をもって解散したことから、運営が伏見観光協会に移管され現在に至っています。」Wikipediaより

大倉記念館の裏、濠川に架かる弁天橋の袂から発着し、三栖閘門資料館を見学して折り返すコース。船頭さんの背中越しに見る伏見の町は非日常的で、川面を渡る風は心地よく頬をくすぐります。

元々は伏見城の外堀だった、濠川沿いの柳並木越しに見る白壁土蔵の酒蔵。船頭さんが子供の頃の話し・・この付近で遊んでいると、独特の節回しで杜氏たちが唄う「酒造り唄」が聞こえてきたそうです。是非ともリクエストしたかったのですが、無理だと笑って逃げられました😅

川べりに影を落とす柳、沢山の木々・・・水の色は木々を写しこんでどこまでも深く緑に染まり、次々と新しい装いを見せて流れてゆきます。

ここは、濠川と宇治川派流と高瀬川の三川合流地点。この下を潜り抜けて十石舟は伏見港へ向かうのですが、こんな景色を見上げられるのは船の上だからこそ、これってかなりワクワクします。

「陸上交通が発達していなかった江戸時代から明治時代には、京都~大阪間を結ぶ淀川舟運が重要な輸送手段となっていました。その流通拠点となっていた伏見港は「京都の玄関口」として繁栄していました。大正7年(1918)に始まった淀川改修増補工事により、大正11年から着手した宇治川右岸の観月橋~三栖の間の築堤工事により、伏見港と宇治川との船の通航ができなくなりました。このため、淀川へとつながる宇治川と濠川との間を船が通航できるよう、昭和4年(1929)3月31日、宇治川と濠川との合流点に三栖閘門が建設されました。」公式HPより

三栖閘門で下船した後の自由時間、私たちは展望ブリッジが設けられた「三栖閘門」に無謀にもチャレンジしました。二階より高いところは絶対に嫌だと言いながら何故にこんな場所に・・止めて置けばよいのに、登ってから後悔するいつものパターン😭

そんなこんなで、展望台出口でガクガク震える足を踏みしめるのが精一杯。周囲の景色どころか眼下の景色さえ楽しむなんてとんでも無い話。そんな私の為に、ご亭主殿が上から見た景色を写してくれました。

手前に見える鍵形の白い建物が「三栖閘門資料館」。三栖閘門誕生の背景や歴史が丁寧に紹介されており、ここではかなり興味深く楽しむ事ができました。

舟が出るまでの待ち時間、十石舟の船頭さんがご自分の半被を脱いで貸して下さり、写してくれたもの。自分で言うのも何ですが、二人ともとてもよい顔をして笑っています😄😄

訪問日:2006年9月2日


月桂冠・大倉記念館 in 京都府京都市伏見区

2025年08月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

「伏見」の地名が登場するのは西暦473年頃、『日本書紀』雄略天皇十七年条の記事中に、「山背国の俯見村」の記載があり、これが文献上の初見とされています。万葉集巻9-1699『柿本人麻呂(660年~724年)』雑歌に「伏見」の記述があり、「臥見」「伏水」などとも表記されてきました。

【巨椋の 入江響むなり 射目人の 伏見が田井に 雁渡るらし】(おおくらの いりえとよむなりいめひとの ふしみがたえに かりわたるらし)

砂礫層の地質から湧き出す豊富な水を背景に、国内有数の酒どころとなった伏見。今回の旅の初めは、めまぐるしく移り変わる時代の中で、今も変わりなく豊かな「伏水」によって支えられてきた伏見の酒造メーカー「月桂冠・大倉記念館」から。

伏見の観光パンフレット等ではすっかりお馴染み「濠川(ほりかわ)沿いの柳並木の向こうに並ぶ白壁土蔵の酒蔵」。私達がここを訪問先に選んだのも、こんな美しい1枚の写真がきっかけでした。

創業350年にあたる1987年、濠川畔の月桂冠発祥の地に、明治42年(1909)築の酒蔵を改装して開館した「月桂冠大倉記念館」

入口から見える吹き抜けの天井には、縦横に木材を配して屋根を支える小屋組みの梁が見えます。

ここは帳場にあたる場所? 鉄製の火鉢には大きく「月桂冠」の文字。五徳の上の鉄瓶は燗酒様に用いられていたのか。火鉢を囲むように置かれた座布団には、店の主とお得意の大店の主・・そんな光景が見えてきます。

館内には1985年に京都市有形民俗文化財の指定を受けた酒造用具類約400点が常設展示されており、酒好きならずとも楽しめること請け合い。メチル意外なら何でもこいだった(過去形!)ご亭主殿😄。お酒は糀で作った甘酒以外は全くダメだけど、酒蔵巡りとか酒蔵見学は大好きという二人。見学しだすとあれもこれも珍しく、興を引かれては立ち止まりで、中々先に進みません。

「京都府伏見町大倉恒吉精醸」と表示された機械押しの焼印、これなどはかなり興味を惹かれる資料。

そう言えば、舞妓さんや芸者さんを起用した日本酒のポスター・・・あのいかにもしっとりとした和の情緒が、酒屋の店内に見られなくなったのは何時の頃からでしょう?

こちらは大倉家本宅の大屋根に上げていた鬼瓦。正面中央には、月桂冠の前身「笠置屋」の屋号が入っています。屋号の丸は円満、右上がりの斜め線は進取の志を表す・・・家訓ともいえる教えとして、代々伝えられてきたものです。

ここは記念館の内蔵酒造場。職人の宿舎に囲まれた広いスペースの中庭では、発酵用の酒桶をこの庭にずらりと並べ、天日で干して乾燥させていたそうです。

中庭に面した内蔵酒造場は、明治39年(1906)建造。蔵の名称は、本宅に隣接する内蔵形式であることに由来します。ここでは今も昔ながらの仕込みで寒造りが行なわています。

自然豊かな桃山丘陵の地下奥深くに涵養(かんよう)された伏流水を汲み上げる井戸。伏見の酒を特徴づける、きれいで鉄分が少なく酒造りに適した水は、隣接する酒蔵での醸造に用いられています。湯呑みが置かれており有り難く頂戴させていただきましたが、すっきりと柔らかく喉越しのよいお水でした。

記念館の第二展示室南側の庭園には、『千利休』に茶の湯を学んだ『古田織部』の発案とされる「織部灯籠」が安置。

笠幅58cm、高さ128cm。火袋の下端に神像を思わせる彫像が彫り込まれていることから、「切支丹灯籠」とも言われています。

燈籠と言えばもう一点。伏見大倉本家発祥の地、笠置の山頂に建つ笠置寺には、平安の昔、道標として笠置灯篭が参道に並び立っていたといわれています。寛永14年(1637)、初代大倉治右衛門が笠置から伏見に出て店を構え、出身地にちなんで屋号を「笠置屋」としたのが月桂冠のはじまりであり、その由来を伝える象徴として、「笠置灯篭」をこの庭に復元・設置した旨が記されています。

大倉家本宅は文政11年(1828)の建造。第八代目当主・大倉治右衛門の時代、当社創業の地に建てられたもので、京都市内では最大規模に属する町屋とも言われています。

本宅の近くに建つのは、長年、月桂冠本店として使用されてきた建物。現在は、伏見観光協会が「伏見夢百衆」として、喫茶・土産販売・観光案内所として活用しています。

喫茶コーナーでは、フリルのエプロンが素敵な和服姿のお嬢さんがウエイトレスをしてくれます🌺。ちなみにこちらで出される珈琲には、先ほど酒蔵前でいただいた湧き水が使用されています。

訪問日:2006年9月2日


乃木(のぎ)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月07日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区:伏見桃山陵(明治天皇陵)の麓に鎮座される「乃木(のぎ)神社」。御祭神は『乃木希典大人之命・乃木静子命』

大正5年(1916)9月13日、薩摩藩(鹿児島県)出身の衆議院議員『村野山人』が中心となって建立されました。

鮮やかな彩を見せる季節の中、樹齢3千年の台湾檜で造られた四脚入母屋平入の神門が参拝者を出迎えてくれます。第三代の台湾総督であった乃木将軍は、現地の人々からも大変に慕われていたと言い、乃木神社創建に際して、現地の方々は、喜んで大木の切り出しに協力したという逸話も残されています。

神門前より神域を守護されるのは、大正八年(1919)十二月建立の狛犬さん。豊かなたてがみに人懐こそうな優しい笑顔、しっかりと台座を踏みしめる逞しい一対です。

境内に足を踏み入れてまず目にするのは、日露戦争海戦で活躍した「装甲巡洋艦・吾妻の主錨」。吾妻は昭和十九年に引退しましたが、京都府出身の旧海軍従軍者の熱心な申し出によって慰霊碑としてこの地に移設され、忠魂碑と共に安置されました。

参道を真っ直ぐに進むと、乃木将軍の愛馬「壽(す)号、璞(あらたま)号」に見守られるように拝殿が見えてきます。

「壽(す)」号の名は、ステッセル将軍から贈られた為、彼の頭文字をとって付けられたもの。また対峙する「璞(あらたま)号」は、壽号の子馬で、共に乃木将軍の愛馬として活躍しました。

二頭の愛馬よりもなお近くで神域を守護されるのは、明治五年(1916)十月建立の狛犬さん一対。ふさふさの鬣と大きな耳を持った狛犬さんを生み出したのは「石工・川島三平」氏。神門前の狛犬さんに比べると、とても穏やかで物静かな表情をしています。

拝殿に向かって右に並ぶ朱の社は「摂社:山城ゑびす神社」。御祭神は『七福神』。御神前や拝殿前には、狛犬に代わって赤御影石の「大鯛」が置かれています。

「幸せに成り」と書かれた鯛。通すと「幸せになりたい」😀

こちらの社殿、もとは『静子夫人』をご祭神とし「静魂神社」として大正8年(1919)に創建。後に七福神が合祀されて「靜魂七福社」となり、2006年の乃木神社創建90周年を機に、静子夫人の御霊を本殿に遷座。七福神を祭神とする「山城ゑびす神社」に改称されました。御本殿の雅な美しさもそうとわかれば納得です。

参拝を終えて境内の散策。真紅に染まった紅葉の下、鳥居に守られて建つのは、「日露戦争第三軍司令部」。神社創建に際し、現地の家主から建物全体を買い上げ、この地に移築。

建物の腰石は、実際に現地で使われていた「成珪岩」と呼ばれるもの。何と五億年以上前に形成された「漣痕化石」がみられるという、地質学的にも非常に珍しいものです。

こちらの建物は、乃木少年が長府で父母妹達と慎ましい生活をしていた時代の旧宅。座敷には兄弟と思われる少年二人を前にして、何事かを話しかける父親の姿がありました。

「建立の中心となった村野山人は薩摩藩(鹿児島県)出身で、豊州の門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪等の各鉄道の取締役を歴任した人物である。明治天皇の大葬の際、京阪電車の会社代表として参列。その場において乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。そして、乃木希典の1周忌に会社の職を辞し私財を投じて、乃木将軍の人となり・日本人の心を後世に伝えることに尽くそうと考えた。それが明治天皇の陵の麓に神社を立てることであり、精神の高揚を図ることであった。ここに京都の乃木神社の由縁がある。」

参拝日:2009年12月1日


桃山天満宮と伏見義民碑 in 京都府京都市伏見区

2025年08月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

伏見区御香宮門前町に鎮座される「桃山天満宮」。御祭神は『菅原道真公』

由緒「応永元年の創祀。竜幡山蔵光庵の守護神として祀られたのに始まる。文禄3年、伏見城築城がなされると、蔵光庵は嵯峨臨川寺の東に遷され、天満宮は庵跡地に隣接した加賀前田家邸内に祀られた。その後、城下衰退とともに荒廃したが、天保12年、観音寺住職教覚の勧請により御香宮の西方に社殿が再興。昭和44年、社殿の環境保全のため御香宮境内に遷された。」HPより

拝殿より神域を守護されるのは、明治35年(1902)6月建立の狛犬さん一対。一見ごつごつとした印象ですが、体の線などは丸っこくて柔らかい浪速型タイプ。

もちろん天満宮なので撫で牛さんも奉納されています。こちらの撫で牛さん、姿は確かに御牛様なんですが何だかお顔が長すぎるような・・・。

境内には「厳島社」「老松社:白太夫社」「大杉大明神」など、多くの摂社・末社が鎮座されています。

境内の外・・というよりも「御香宮神社」参道脇と書くほうが正しいのでしょうか? 大小様々な石が積み上げられた一画が有り、傍らに「伏見の戦」の碑。石と碑の関連性は不明。

石垣の手前に見える二組の四角い石は「竹田街道の車石」と呼ばれるもの。車石の説明板が嵌め込まれた石にも、伏見城の残石が使われています。

「桃山天満宮」と向かい合う位置、御香宮神社参道横に「伏見義民事蹟」の碑。碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書。「天明5年(1785)、時の伏見奉行・小堀政方の悪政に苦しむ町衆のため幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救った伏見元町年寄『文珠九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋權兵衛』。天明5年(1785)、政方は奉行を罷免されたが、久助ら7人も獄中で相ついで病死し悲惨な最期を遂げた。

日本各地を襲った天明の大飢饉。民のために命を賭した「天明義民」の足跡は日本各地に驚くほど多く残されています🙏🙏。

参拝日:2009年12月1日


羽束師坐高御産日(はづかしにますたかみむすび)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月06日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区羽束師志水町に鎮座される「羽束師坐高御産日(はづかしにますたかみむすび)神社」。御祭神は『高皇産靈(たかみむすひのかみ)、神皇産靈(かみむすひのかみ)』

延喜式神名帳では山城国第一の社として大社に列し、旧社格は郷社。一般的には「羽束師神社」と称されます。

一の鳥居扁額には「式内 第一 羽束石社」と記されています。

羽束師社旧記によると「創建は雄略天皇21年とされており、欽明天皇28年(567)に桂川の増水によって周辺の集落が洪水に際した際にも神社は無事であったため、天皇より封戸を賜ったとされている。また、天智天皇4年(665)には中臣鎌足が勅を受けて再建したとされている。神社のある当地は、低湿地ながら桂川や旧小畑川など河川の合流地にあることから古くより農耕や水上交通によって栄えた場所であり、賀茂氏や秦氏のほかに品部の泊橿部(はつかしべ)が居住していたとされている。泊橿部は、日本書紀の垂仁天皇39年に「泊橿部等并せて十箇の品部もて五十瓊敷皇子に賜う」という記録が残っており、『令集解』職員令には「泊橿部とは古の波都加此伴造を云う」と記されている。」Wikipediaより

嘉永三年(1850)に再建された入母屋造の割拝殿。

割拝殿から真っ直ぐに続く御本殿。

御本殿の左右より神域を守護されているのは、浪花タイプの狛犬さん一対。境内一帯は羽束師の森の中である為、影の明暗がきつく明瞭な画像にはなりませんでした。

社殿向かって左側に鎮座される「摂社:貴布祢大神、えびす大神、稲荷大神、厳嶋大神、愛宕大神、若皇子大神」。社殿向かって右側にも同じような摂社群が鎮座されています。

本殿横に鎮座される「摂社:稲荷大明神」

区民の誇りの木に指定されている「クスノキ」

御祭神の御名である「産霊(むすび)」とは、万物の生産、生成を意味し、農耕の神として祀られます。また「むすび」は「結び」に繋がる事から「縁結びの神」としても信仰されているようです。

最後は、境内の一画に建立されている「羽束師川 西」碑

説明版より「羽束師川と道標久我の地から古川・樋爪・永垂・大下津・山崎を経て桂川に注ぐ本支流合わせて総延長十二粁余の人工水路モ問堀を羽束師川と呼んでいます。この川は桂川右岸低湿地の内水や悪水吐けの為に、文化六年(一八〇九)から十七ヶ年の歳月をかけて新川の掘さく古水路の改修樋門の設置などの工事が完成しました。かくして二郡十二村の水場の人々は累代にわたる水害からまぬがれ、荒廃した土地は耕地にかわりその余慶は今日に及んでいます。しかるに此のエ事は官府の力ではなく神明のご加護を祈り心身をくだき私財を投じて地域開発の素心を貫いた。羽束師神社祠官で累代の社家古川吉左衛門為猛翁の独力によって成し得た大事業でありました。文政八年(一八二五)工事が完遂するや羽束師神社の名を取り羽束師川と命名され西陣伊佐町井上傅兵衛氏は為猛翁の偉業を後世に伝えんと久我畷四ッ辻にこの道標を建立されました。爾来時は移り姿は変わりましたが、その功績を偲ぶに相応しき神社境内に鴨川町西村奈良松氏のご厚意をうけ昭和五十五年に現地に移設しました。今年は恰も工事着エより二百年の佳辰に当りこの偉業を称える為記念碑を建立し由緒を銘記した次第であります。 羽束師神社」

参拝日:2010年7月20日


藤森(ふじのもり)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

伏見区深草鳥居崎町に鎮座される「藤森(ふじのもり)神社」。勝運・学問・馬の神社として知られます。

本殿中央に『素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰』。本殿東殿(東座)に『舎人親王、天武天皇』。本殿西殿(西座)に『早良親王、伊豫親王、井上内親王』

「天平宝字3年(759)、深草の里藤尾の地に鎮座。延暦13年(794)、桓武天皇より弓兵政所(ゆづえまんどころ)の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われた。貞観2年(860)、清和天皇の宝祚(ほうそ)に際し奉幣の神事が行われた。これが藤森祭(深草祭)の初めである。永享10年(1438)、後花園天皇の勅により、山頂の稲荷の祠を山麓の藤尾の地に移し、藤尾大神を藤森に遷座し東殿に祀り官幣の儀式が行われた。桧皮葺の本殿は正徳2年(1712)、中御門天皇より賜ったものである。」公式HPより

本殿東に「神功皇后旗塚」。摂政3年(203)、神功皇后が新羅より凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び纛旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされた。それが藤森神社の起こりと言われる。

私たちは西門からの参拝。西門一の鳥居左右より神域を守護されるのは「昭和九年六月五日」「北村石材店」と刻のある、いわゆるイケメンタイプと呼ばれる京狛犬さん一対。一段高い位置から、今日も素敵な表情で参拝者を迎えてくれます。それにしても阿吽ともに綺麗な歯並びで・・羨ましい😅

さらに参道を進むと、でっぷ・・☆X▽■・・・💦もとえ、とっても貫禄のある「昭和五年五月吉日」刻のある京都型狛犬さん一対。共に、重すぎないかと心配したくなる程の鬣を背中にしょい、吽形さんは立派な角をお持ち。

阿形さん、角こそありませんが尾っぽがね、たてがみなんか目じゃないというくらい太ましくて立派なんです。あ。画像での紹介は有りませんが、吽形さんも同様です。

参道を進み、拝殿前左右より神域を守護されるのは「昭和五十年十一月五日」の刻がある構え型狛犬さん一対。低く構えた姿勢で大きく目を剥き、境内を睥睨しています。

絵馬には「上り藤に一文字」の御神紋と兜、それに「菖蒲の節句発祥の地」の文字があります。各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされており、菖蒲は尚武に通じ、尚武は、勝負に通じると言う事から、勝運を呼ぶ神として、古来より多くの信仰を集めてきました。

菖蒲の節句と言えば、腹掛けをし、兜に陣羽織をまとった子供像は近代では定番ともいえます。モデルは「坂田金時」。ちなみに「金時豆・金時人参」に使われる「金時」は、坂田金時の幼少時代が、いつも赤い顔だった事から、赤いものを金時と例えるようになったのが始まりと言われています。

また、藤森祭の駈馬神事による馬の神としても信仰され、馬主、騎手、競馬ファンの祭典が毎年行われ、その方面でも多くの人々の参拝があるそうです(淀競馬場、近いですから)

西参道を真っ直ぐ奥まで進んだ先に鎮座される「藤森稲荷社」

朱も鮮やかな社殿を守護されるのは顔を高くあげた神狐さん一対。向かって左は巻物、右は玉のようにも見えますが・・不確か。

「藤森神社」ラストは、眼があった瞬間に「怖い!!」と後じさりしてしまった「神鎧像」。社伝に「早良親王が陸奥の反乱に対し、征討将軍の勅を受け、5月5日に藤森神社に詣で、戦勝を祈願し出陣された、その際の武勇の象徴として、この神鎧像が建立された。」

『早良親王』と言えば、桓武天皇の皇太子として立てられながら、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され乙訓寺に幽閉。無実を訴え絶食し10余日、淡路国へ配流途中の河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死された悲運の親王として知られます。その後、都では関係者の相次ぐ病死に加え、死病の蔓延。これを早良親王の祟りと恐れた桓武天皇は、親王に「崇道天皇」と追諡をし、淡路国津名の墓も山陵と改め、遂には遺骸を大和国に移葬します。怨霊(おんりょう)を御霊と変え、「みたま」「ごりょう」と読み替える事で、霊を慰め、なおかつその偉大なる力を信仰の対象とする。人の心の深淵は、暗く底なしの闇なのかもしれません。

参拝日:2009年12月15日


久我(こが)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月05日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

伏見区久我森の宮町に鎮座される「式内社:久我(こが)神社」。御祭神は『建角身命(たけつぬみのみこと)・玉依比賣命(たまよりひめのみこと)・別雷神(わけいかづちのかみ)』

「当社は八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された頃(七八四年延暦三年)、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である。別雷神・建角身命・玉依比売命の三柱を御祭神とし賀茂両社と同体であり、古来鴨森大明神とも号し久我の郷人をはじめ諸人の平和安全方除け発展を守護する神として御神徳が厚い。また久我の杜といって久我の渡りと共に歌にもよまれている。 木々にはふ つた紅葉せり 久我の杜 淀のわたりや 時雨しつらむ 」境内由緒より

大手川に架かる「森乃そり橋」は神橋の役目も兼ねており、そこから真っ直ぐに平入切妻造の割拝殿が見えています。

鴨川と桂川の合流地点近く、桂川の西岸に鎮座し、かつては久何(こがの)神社、森ノ大明神、鴨大明神、鴨森大明神とも呼ばれた古社。本殿までの間には切妻屋根が設けられており、参拝者は直接本殿の前まで行く事ができます。

本殿前左右より神域を守護されるのは浪花タイプの狛犬さん一対。吽形さんは仔狛さんを、阿形さんは玉を手にしていますが、実は吽形さんの手の下で遊ぶ仔狛さんも小さな玉を持っているのです。親狛・仔狛が共に玉取りと言うのは、かなり珍しく、石工のお名前を知りたいところ。

「現在の本殿は天明四年(一七八四)の再建である。棟札によると、大工棟梁は小嶋弥惣太源久清であるが、弥惣太が幼年のため、播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎として造営に携わっている。建物は三間社流造で、切石積み基壇上に建つ。身舎内部は内陣と外陣に分かれている。妻飾は虹梁大瓶束で、密集した葉を彫刻した笈形が付く。この地域の建物としては、妻飾などの彫刻がやや派手であるが、これは播磨の大工が造営に関与していることによるとみられる。」久我神社案内より

本殿の左側に鎮座される「摂社:稲荷社」、御祭神は『倉稲魂命』。隣に「摂社:春日社」『武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめかみ)』を祀ります。

社殿の右脇(東側)にひときわ高く聳える神木は、京都市指定保存樹のクスノキ。

参拝日:2010年7月20日

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御神名一口メモ

『建角身命(たけつぬみのみこと)』、賀茂氏族の祖神。賀茂の勇猛な神の意。鴨武津身命・鴨積命とも称される。天から日向の曾の峰(そのたけ)に降り、八咫烏に化身して神武天皇の先導をしたのち、葛木山(葛城山)から各地を遍歴して賀茂川上流の地にとどまった。

『玉依比賣命(たまよりひめのみこと)』、「海神(わだつみのかみ)」の娘。神武天皇の母神。

 『別雷神(わけいかづちのかみ)=賀茂別雷神』、大山咋神(おおやまくいのかみ)と玉依姫の間の子供。


田中(たなか)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区横大路天王後に鎮座される「田中(たなか)神社」。御祭神は『素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神』

社伝によれば「下鳥羽田中里に社殿があり、「牛頭天王田中神社」と称していたが、天正年間(一五七三~一五九二)に起こった大洪水により本殿が流されて現在地に無傷で漂着したといわれ、氏子はその奇跡に大変驚き、総出で境内の造作をするとともに盛大な祭りを行なったと伝えられている。本殿は文化十三年(一八一六)に前年の火災の後再建されたもので、大型の一間社流造。拝殿は1996年に再建復興したものである。」

本殿の内より神域を守護されるのは全体的に丸っこい体系とお皿のような頭頂部。丸くぽっこりと空いた口元のエクボがチャーミングな狛犬さん一対。私はひそかに「京都の河童狛犬さん」と呼んでいる😅

一の鳥居から二の鳥居、三の鳥居と真っ直ぐに続く参道。

拝殿前より神域を守護されるのは、かなり厳つい顔立ちの浪花系狛犬さん一対。吽形さんの口元は、まるで般若の面のように吊りあがっており、正直、夜中に遭遇したら間違いなく失神できるお顔立ちです。

下鳥羽地区と横大路地区の産土神として崇敬を集める田中神社ですが、一の鳥居側の看板にも書かれていたように、馬の神様としても信仰されています。近隣に京都競馬場があるからか、競馬ファンからも勝ち馬祈願の神として崇敬を集めており、拝殿前には立派な馬の彫刻が奉納されています。

九頭の黒馬と「馬九行久(うまくいく)」の文字が記された絵馬。こういう判じ物って、わかりやすくて面白い。

拝殿近くに奉納されていた七福神の石版。

境内の南東に鎮座される「北向虫八幡宮」。社名の通り北向きに鎮座されています。御祭神は「応神天皇」。夜泣き・虫封じ・心安らか・虫の神様として崇敬されています。

社伝によれば「冷泉天皇の幼少の頃に疳の虫がひどく、母の藤原安子が当社に祈願したところ平癒したと言われています。これに因み安子の父の藤原師輔が御所を守護するようにと北方にある御所の方へ向けて祀ったと伝えられています。」

参拝日:2010年2月24日


稲葉(いなば)神社 in 京都府京都市伏見区淀

2025年08月04日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区淀本町、淀城跡公園に鎮座される「稲葉(いなば)神社」。御祭神は『稲葉佐渡守越智政成』

「祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて五代目の正知の時で享保八年(1723)。下総国佐倉より十万二千石で入封。その後明治四年十六代正邦の時に廃藩を迎えるまで、十二代百四十八年間にわたり稲葉家が淀藩主であった。」稲葉神社の祭神と淀藩について・・より抜粋

参道から真っ直ぐに、平入入母屋造桟瓦葺の拝殿、屋根には稲葉家の家紋「折敷に三文字」

拝殿の先には瑞垣に囲まれた向唐破風の中門、その奥に覆屋に納められた本殿が鎮座されます。

一段高い中門前左右より神域を守護されるのは、いわゆる獅子顔が特徴の狛犬さん一対。特に阿形さんのお顔・・何でそんなに怖い顔をされているのか・・ほら、吽形さんも「こまったもんだ」としかめっ面ですよ。

稲葉神社本殿の左側(南側)に並ぶ朱の鳥居、拝殿前に奉納された御神灯には「稲荷大明神・日吉大明神・熊野大神宮」の御名。

小さなお社ですが、神域を守護される神狐さんも奉納されており、大切に守られている事がわかります。

「淀藩の廃藩に伴い廃城となった「淀城」。巨椋池の干拓によって地形が大きくかわり、本丸の一部を除いてすべて破壊された。さらに、本丸南東部を京阪電気鉄道(京阪本線)が貫通するに及び、淀城の消滅は必至となるが、このころになってようやく保存運動が高まり、今日は本丸周辺の整備が進み、開発の手を免れた石垣及び堀が保存されている。」

参拝日:2010年2月24日