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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ふらり井出町~あちこちウォッチ in 京都府井手町

2025年08月19日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

井手町東垣内に門を構える曹洞宗永平寺派寺院「地蔵禅院」。南山城平野を一望できる境内に、樹齢約290年と伝えられる、京都府指定天然記念物「地蔵院のしだれ桜」と呼ばれる、桜の古木があります。春爛漫の満開の季節は付近はひどい交通渋滞で、私たちはその美しい姿をまだ一度も見た事がありません。

が・・・実はとってもミーハーな二人、「薄墨桜」とか「臥竜桜」とか「醍醐桜」とか・・とかetc・・・桜100選に選ばれるような桜は、チャンスさえあれば一応見に行きます。ただし渋滞の無い季節を選んでいるので、間違いなく100%葉桜。参道途中に仰ぎ見る桜は、しだれ桜の二代目にあたるもので樹齢約100年。これがピンクに染まる姿は、さぞかし美しいだろうと容易に想像できます。

人気の無い境内はとても静かで時間の流れがとても緩やか。本堂の外れ、隣接する「玉津岡神社」の参道に向かって、幾体かの地蔵様が、大切に、大切に祀られています。

井出の玉川は、全国に六か所ある玉川の名で、総称して六玉川と呼ばれています。「宮城県:野田の玉川・東京都:調布の玉川・滋賀県:野路の玉川・大阪府:三島の玉川・和歌山県:高野の玉川」の5つと、京都府は山城の国を流れるこの「井出の玉川」

綺麗に整備された玉川沿いの遊歩道には、井出の地に縁の万葉和歌が、紹介されています。

『聖武天皇』を補佐して恭仁京遷都・大仏建立などを取り仕切った『橘諸兄』。この井出の地には「橘諸兄公旧跡」があり、碑の傍らには「橘諸兄公供養塔」が建立されています。山吹の名所として知られる玉川沿いに建立された『橘諸兄』の歌碑。

【 降る雪の 白髪までに 大君に 仕えまつれば 貴くもあるか 】

「井出の玉川と山吹」を詠んだ同じ万葉歌碑、他にもありましたが、歌の紹介だけ。

【 音に聞く 井出の山吹 みつれども 蛙の声は 変わらざりけり 】『紀貫之』

【かわづ鳴く ゐでの山吹散りにけり 花のさかりに あはましものを】詠人不知

訪問日:2015年9月5日


玉津岡(たまつおか)神社 in 京都府井手町

2025年08月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

井手町井出東垣内に鎮座される「玉津岡(たまつおか)神社」。御祭神は『下照比賣命(したてるひめのみこと)』『下照比賣命・天兒屋根命(あめのこやねのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・素戔嗚命(すさのおのみこと)・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)・菅原道真公』を合祀。

二の鳥居前左右より神域を守護されるのは、鯰顔の吽形さんとバンパイア・フィッシュ顔の阿形さん。と言ったらご亭主殿からクレームが付きました。なので実物の画像を見せたら・・・沈黙しました(爆笑)

「欽明天皇元年(540)、玉津岡の南に下照比賣命が降臨され「玉岡の社」として祀ったのが起源。その後「玉岡春日社」、江戸時代に「八王子社」と称号を変え明治14年(1881)に「玉津岡神社」とする。明治11年(1878)に「八王子社(玉津岡鎮座)」・「春日社(西垣内鎮座)」・「田中社(宮の前鎮座)」・「八阪社(西前田鎮座)」・「天神社(玉の井鎮座)」の五社が八王子社殿(玉岡の社)に合祀される。天神社は「椋本天神社」を移したもので、創祀は天平3年(731)9月、創祀者は『橘諸兄公』とされる。境内には『橘諸兄』とその一族の一人『楠木正成公』を合祭した「橘神社」がある。」Wikipediaより

舞殿も兼ねた拝殿、まっすぐ奥に拝所が見えます。

一間社春日造の本殿は貞享4年(1687)の造営で、京都府登録文化財。

社殿の傍らには、下照比賣命の兄である『味耜高彦根命(迦毛の大御神)』が 配祀。ここでミニ知識。大御神と呼ばれるのは大国主命の御子神である『迦毛大御神』と、伊勢に鎮座される皇祖神『天照大御神』だけなのです。

拝所の前左右より神域を守護されるのは浪花タイプの狛犬さん一対・・なのですが、狛犬さんだけの画像が無い。慶応元年(1865)建立の狛犬さんなので素通りする筈はないのですが・・ご亭主殿、全く覚えていないと宣いました。

無いものはどうしようもなく・・気を取り直して拝所彫刻の紹介ですが、拝所木鼻の彫刻が、秀逸でしかも非常に珍しい、阿吽の蛙。見てるだけで笑顔になる、とても楽しい一対。

竹林の下の池で遊ぶ親子亀

しだれ梅の枝に戯れる・・・蝙蝠(にしか見えない・・・)

社殿を取り囲む塀の留蓋瓦の「波兎」一対。火難除けとして多く使われる波兎ですが、もしかしてこの地が「兎出(いで)」と呼ばれていた事とも何か関連があるのかも?

経巻き瓦には神紋である「流れ山吹」

これは楠木正成の家紋「菊水」と同じものとも言われていますが・・どうでしょう。下の画像と比べてみても、似てはいますが、似て非なるものという印象の方が強いです。

個性豊かな鬼瓦

いずれも強面なのに、なぜか唐突に現れる「ボケ」担当の鬼瓦(^^;)

石段を上り詰めた境内入り口右手の絵馬殿と奉納手形。これらの絵馬は氏子の米寿の祝いとして奉納されたもの。

境内左手の手水舎。古来より井手は「山吹」と共に「蛙」の名所としても知られています。井手を歌った和歌の中でも蛙に関するものは83首が数えられているという事で、井出を代表する玉津岡神社の手水舎は吐水蛙です。

参拝日:2015年9月5日

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御神名一口メモ

『下照比賣命(したてるひめのみこと)=高姫・稚国玉』、大国主命の娘。味耜高彦根神(あじきすたかひこねのかみ)の妹。天穂日命(あめのほひこのみこと)の妻。夫は高天原に対する裏切りの罪により命を落とす。葬儀の場に来た兄は、皆から死んだ夫と間違われたことに怒って,建物を壊して飛び去ってしまうが、このとき下照比売命は歌によって兄の名を皆に教える。これは未知の神の出現に際し,それがいかなる神であるのかを歌によって人々に知らしめるというもので,神と人とを媒介する巫女の役割を反映している。


木津川市内あちこちウォッチ in 京都府木津川市

2025年08月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

桜に誘われて見つけた恭仁大橋の古い親柱、後方には『藤原兼輔』27番新古今集・996」の歌碑。【瓶原(みかのはら)わきて流るる泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ】

泉川は今の木津川を指しており、「瓶原」は加茂町町域の木津川が流れる北側、恭仁京辺りを指します。

天平12年(740)に恭仁京が置かれ、天平16年(744)までの4年間だけ日本の首都となった木津。奈良時代には平城京などの都城建設に伴い木材運搬用の港(木の津)として栄え、その後も、「泉津」「泉木津」と称され、内陸にある平城京の外港として栄えてきた木津。歴史を秘めた町には、思いがけない場所に、歴史を物語る様々なものが残されています。

木津川市加茂町例幣中切にある「山城国分寺跡・恭仁京(くにきょう)」。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」

恭仁京はわずか5年ほどの短命な都でしたが、廃都後の跡地に山城国分寺が営まれ、現在も七重塔跡礎石が往時をしのばせています。昭和32年(1957)7月1日、「山城国分寺跡」として国の史跡に指定されました。

木津川市加茂町銭司にある「銭司遺跡」

奈良時代の「鋳銭司(じゅせんし)」は、いわば現在の造幣局に当たります。かってこの地では日本で最も古い「和同開珎(わどうかいちん)」が鋳造されていました。

この場所からは、ハグチや坩堝のほか銅銭だけでなく銀銭も出土しています。加茂町銭司(ぜず)の地名は、この鋳銭司に由来します。

木津川市山城町を一躍有名にしたのは、町の中央部にたたずむ前方後円墳「椿井大塚山古墳」。古墳時代前期のなかでも最古に位置づけられ、石室内からは、邪馬台国の女王卑弥呼の鏡とされる「三角縁神獣鏡」三十数面を含む、銅鏡や副葬品が多く出土し、大きな注目を集めました。

山城総合文化センター図書館前には、「鏡」と題された三角縁神獣鏡のレプリカが展示されています。

同じく図書館前の歌碑は、藤原広嗣の乱で副将軍を務めた『紀飯麻呂(き の いいまろ)』【手束弓(たつかゆみ) 手に取り持ちて 朝猟に 君は立たしぬ 棚倉の野に】

木津川市山城町平尾里屋敷にある棚倉駅舎の近くに「湧出宮(わきでのみや)」が鎮座されます。正式には「和伎座天乃夫岐賣(わきにいますあめのふきめ)神社」。湧出宮の名は、天平神護二年(766)伊勢国から『天照大神』の御魂を此の地に奉遷した処、一夜にして森が湧きだし四町八反余りが神域となったことに由来します。

木津川市木津清水の一画、数対の地蔵様と共に佇む「惣墓(そうばか)五輪塔」「惣墓(共同墓)五輪塔は、木津川の氾濫で亡くなった人々の供養のために鎌倉時代の正応5年(1292)に建立されたものと思われる。また、永仁4年(1296)と永禄5年の追銘もある。鎌倉時代の造立銘のある五輪塔として貴重で重要文化財に指定されている」京都府観光ガイドより

集落の人々に多くの恵みをもたらす木津川ですが、氾濫の被害も甚大なものだったと云います。気の遠くなるような年月が流れた今も、敷地内には塵一つなく、地蔵様は花に囲まれ、綺麗な水が手向けられています。

木津川市木津殿城、ここには『和泉式部』の墓とされる「五輪塔」があります。和泉式部と言えば百人一首の【あらざらむ 此世の外の思い出に 今ひとたびの逢う事もがな】が有名ですね。

平安時代の女流歌人で、木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って余生を送ったと伝えられる和泉式部。三十六歌仙のひとりで、一条天皇の中宮彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」「和泉式部集」などの歌集を残した、恋多き歌人として知られています。

正直、ここに式部の墓があるとは思いもしなかったのですが、和泉式部の墓と称するものは全国各地に存在しており、いずれも絶対にこれ!という極め手を欠くそうです。境内に祀られるお地蔵様・・何かご存知ありませんか?

最後の画像は、歴史的なものではありませんが山城支所近くの御宅で見かけた雨どいの銅板細工。これはおそらく【木津川上荷舟】と見ました。 積み込まれた俵にピンと張られた帆、あまりにも精巧で美しく、二人揃ってしばらく見とれていました。

訪問日:2015年9月5日


荒見(あらみ)神社 in 京都府久御山町田井

2025年08月14日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

久御山町田井荒見に鎮座される「荒見(あらみ)神社」。式内社「荒見神社」の論社の一つ。近世には「五社大明神」と称されていました。御祭神は『武甕槌命、應神天皇、仲哀天皇、別雷大神、倉稻魂命』

当社の創建・由緒は不詳。寛永七年(1630)の木津川の水害により壊滅的な被害を受け、寛文四年(1664)に社地を移し、再建したと伝えられています。

瓦葺・平入入母屋造の割拝殿。

割拝殿の前左右より神域を守護されるのは、砂岩製の浪速タイプの狛犬さん一対。写す角度の所為なのか笑っているようにも、また天を仰いで、嘆いているようにも見えます。

拝殿後方、石垣の上に向唐破風の中門と、透塀に囲われた銅板葺・一間社流造の本殿と拝所。

参道入口に建立された歌碑は、柿本朝臣人麻呂が田井の地を詠んだものでしょうか。干拓によって農地に姿を変えた巨椋池は、その昔、府下最大の面積を持つ淡水湖だったと伝えられています。
【 巨椋(おおくら)の 入江響(とよ)むなり  射目(いめ)人の  伏見が田井に 雁渡るらし 】

参拝日:2015年9月30日


雙栗(さぐり)神社 in 京都府久御山町佐山

2025年08月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

久御山町佐山双栗に鎮座される「雙栗(さぐり)神社」。式内社で、旧社格は郷社。御祭神は『天照大神・素盞嗚命・事代主命・応神天皇・比咩大神・仁徳天皇・神功皇后』

生憎と改修中だったようで、拝殿は黒いシートに覆われたまま

社伝に「当社は山城国久世郡の羽栗郷・殖栗郷・拝志郷の鎮守社であり、羽栗郷と殖栗郷の間に鎮座していたので、両方の地名に「栗」が含まれることから双栗(雙栗)と称するようになったと云う。江戸時代以前には「椏本(あてもと)八幡宮」と呼ばれた。天治二年(1125)、当地の椏の木の梢に、鳩峰(男山)から金色の光が差して輝いた。さらに神官に「八幡宮を勧請して祀ればこの地の人々を守ろう」と夢のお告げがあり、朝廷に願い出て椏の木の下に社殿を造営したと伝えられる。」

国重要文化財指定の本殿は、正面に向拝を持つ檜皮葺の三間社流造。建立年については、室町時代末、社伝にいう明応3年(1494)頃のものと考えられています。

拝所の前左右より神域を守護されるのは、典型的な浪花型の狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬に手をおいているのですが、その動作がこれほど似合わない狛犬さんと言うのも・・中々に捨て難い😁

檜皮葺の美しい本殿

本殿の斗供間には向かって左に「花と鳥」。右に「紅葉と鹿」を彫刻した蟇股(かえるまた)。が・・それをカメラに捉える事はできません😓

本殿脇障子の上部には色彩豊かに「りすとぶどう」をあしらった精巧な彫刻。


ご本殿の向って右後方には、町の天然記念物である樹高30m、幹回り53.5mの大楠がそびえています。樹齢は400~500年。楠の語源は「奇(くす)しき」という言葉の語義であり、古代から霊木として尊ばれてきました。楠の根元には「稲荷の社」が鎮座されています。

参拝日:2015年9月30日


ふらり~宇治の街歩き in 京都府宇治市

2025年08月12日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

宇治市の南西部、山城総合運動公園に隣接する丘陵地に、1996年にオープンした「宇治市植物公園」。そのメイン看板ともいえる存在が「花と水のタペストリー」。幅62m・高さ18mの46の雛壇に、3675基の草花プランターを並べ、季節に合った植物で宇治市に因んだテーマやキャラクターなどを描く演出。私達が訪問した2007年は「飛翔するツバメ」でした。

 

四月末の「春のゾーン」には、何種類もの遅咲きのサトサクラが満開。「鬱金(ウコン)」「関山(カンザン)」「御衣黄(ギョイコウ)」「松月(ショウゲツ)」・・・

本当は全部紹介したかったのですが、際限ないので特に印象深かった二種から、大島桜系の八重桜。菊咲・淡紅色の「菊桜(キクザクラ)」

江戸時代から知られているという「御衣黄(ギョイコウ)」。大島桜をもとに生まれた日本原産の里桜だそうです。

宇治植物園の入館時に頂いた「桜茶」。有るか無きかの薄桃のお湯に浮かぶ桜花一輪・・ほのかな塩味と桜の香りにすっかり魅了されました。

熱帯亜熱帯の植物が咲き乱れる温室では、初めて見る不思議な花や草木が私達の目を釘付けにします。最も印象に残った「ブラックキャット」。この花の名前と姿は今でも鮮明に覚えています。

見所の多すぎる園内はどのエリアも興味深く、私たちはすっかり疲れてしまいました。東屋風の休憩所から見る里山の風景は、この上なく穏やかで優しく、歩き疲れた足にも目にもホッとする優しさ。時間がゆっくりと流れてゆきます。

訪問日:2007年4月21日

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創業文政10年の老舗茶匠「寺島屋彌兵衛商店」の壁に見つけた「おかめ&ひょっとこ」の鏝絵看板。素敵な笑顔につい釣られて笑顔に。

喜撰橋の先にある「塔の島」に立つ、高さ約15mの「浮島十三重の石塔(重要文化財)」。現存する日本最大で最古の石塔。鎌倉時代 の養老4年(720)、奈良西大寺の高僧『叡尊』によって、宇治川での殺生の罪を戒める為の供養塔として建立されました。

「橘島」と「塔の島」を結ぶ赤い橋は「中島橋」。浮き島と呼ばれる二つの島は、それぞれに「喜撰橋」「橘橋」であじろぎの道と結ばれ、「橘島」と朝霧通りは「朝霧橋」で結ばれています。

宇治市観光センターで頂いた「歴まちカード」には、宇治茶まつりで執り行われる宇治橋三の間で行われる「名水汲(く)み上げの儀」の様子が紹介されています。

天ヶ瀬ダム管理支所で頂いた「天ヶ瀬ダムカード」。天ヶ瀬ダムは国土交通省近畿地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、西日本屈指の大河川・淀川本流に建設された、高さ73.0メートルのアーチ式コンクリートダムです。淀川の治水と宇治市への上水道供給、総出力59万8,000キロワットにも及ぶ水力発電を目的として建設されました。

その天瀬ダムの近くに、煉瓦造りの建物「旧志津川発電所」があります。大正13年(1924)に建設され、当時としては画期的なダム式発電所でしたが、昭和38年(1963)、天ヶ瀬ダムの建設によって廃止となりました。「旧志津川発電所」は、土木学会の「日本の近代土木遺産~現存する重要な土木構造物2000選 」に選定されています。

下の画像は2001年4月、田舎から母が来た時の紙焼き写真をデジカメで写したもの。宇治市の観光は平等院から源氏物語ミュージアム、宇治上神社・天ヶ瀬ダムとほぼ全ての観光地を廻りました。が、当時はデジカメなぞと言うハイテクメカは所持しておらず、手元には紙焼き写真のみ。今は亡き母が涙を流して喜んでくれた宇治の名所旧跡・・私にとっても忘れ難い思い出の地です。

訪問日:2017年12月21日&2018年10月19日


縣(あがた)神社 in 京都府宇治市宇治

2025年08月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

宇治市宇治蓮華に鎮座される「縣神社」。御祭神は『木花開耶姫命』

「当社は天孫天津彦彦火瓊々杵尊の妃、木花開耶命を奉祀し「あがた」の名の通り神代以来当地の 守護神であった。御冷泉天皇永承七年(1052)、時の関白:藤原頼道の平等院 建立にあたり同院総鎮守となり藤原氏の繁栄を祈誓した。明治維新までは大津市の三井寺円満院管理下にあったが、維新の後、神仏分離令によりその管理を離れ今日に至。」公式HPより

拝殿の扉に刻まれた神紋は、ご祭神の『木花開耶姫命』にちなんだ桜紋なのですが、これまで見てきた桜紋のどれとも一致しません。ただ、御朱印に押されているのは「山桜紋」なので、どちらが正式なのかは不明。

境内の一画に建立された「梵天(ぼんてん)奉納所」。毎年6月5日から翌6日にかけて行われる「県祭」。明かりの消された境内から 神移しされた梵天が渡御される「梵天渡御」の様子 は、勇壮な中にロマンを秘めて人々の 心をとらえます。

境外に鎮座される「大幣殿(たいへいでん)」。県祭の2日後に行われる「大幣神事」は、天下泰平、五穀豊穣などを願って、平安期以来の「道饗祭(みちあえのまつり)」を再現する民俗伝承行事。

大幣殿を出た大幣は、三つの傘を付けた大幣に厄を集めるため、幣差(へいさし)、神馬などの多くのお供と共に、県神社から県通り、宇治橋通り、本町通りの順で町の角々でお祓いの神事を行いながら町を巡ります。帰着後、大幣殿前で3回転させて地面に叩きつけ壊された大幣を12人の幣差が宇治橋まで引きずって走り、橋の上からお祓いをした疫神とともに川に流します。

境内向かって左手に鎮座されるのは、朱塗りの鳥居が鮮やかな「境内社:稲荷社」

境内中程に建立されているのは、「幡の会」主宰:土田克己氏句碑【涼風と なり神宇治を 見そなはす】

同じく境内の一画に建立されていた「宇治琴坂しぐれ」の 歌詞碑。タイトルも歌詞の内容も全くの初見。それはともかく、縣神社との関連性が?😓?

 参拝日:2017年12月21日


隨心院:小野梅園~はねずの梅 in 京都府京都市山科区

2025年08月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市山科区小野に門を構える真言宗善通寺派「大本山随心院」『如意輪観世音菩薩』を本尊とします。

「仁海僧正の開基にして、一条天皇の正暦二年(991)奏請して、この地を賜り一寺を建立。古くは牛皮山曼荼羅寺と称した。仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっている事を見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求め、飼養するも、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因む。」

絶世の美女と謳われた小野小町の邸跡に建つ「随心院」。その広大な境内にある「名勝・小野梅園」に、遅咲きの「唐様(はねず)の梅」を見に来ました。

境内には、山紅梅、白梅、薄紅梅など、約230本もの梅の木があり、境内一杯が梅の香りに包まれています。平安時代以前までは春の花の代名詞として愛されてきた「梅」・・

馥郁と香る花に圧倒されそうになりながら、今日一番のお目当て「はねずの梅」を探して・・。さてどんな種類の梅なのかと思っていたのですが、実は「はねず」って色の名前なんですね。紅梅の種類の一つで薄紅梅色を「はねず色」と呼ぶそうです。

「はねず」は漢字では「朱華」と書き、黄色がかった薄い赤色とされています。残念な事に、どの梅が「はねずの梅」なのか全然分かりません😅 このさい追及は諦めて・・ねぇ、この嬰児の頬のような八重の愛らしい花姿、これで充分かなって思えてきた😊。

花枝をわずかに揺らしているのはウグイスかな?【うぐいすの 身をさかさまに 初音かな】 芭蕉さんの句をふと思いだす。

隨心院がある小野は小野氏の一族が栄えた地。『仁明天皇』に仕え、歌人として知られる『小野小町』もこの地の出とされ、宮中を退いて後はここで静かに過ごしたと伝えられています。境内の一画に残る「化粧井戸」は、「小町が化粧をする際に使っていたと言われる井戸で、「都名所図会」に記されています。

随心院には小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め、深草少将をはじめ、多くの貴公子から寄せられた千束の文を埋めたと伝わる文塚などの遺跡が残されています。ですが、今日の予定は「はねずの梅見」が主目的。結局、どれがお目当ての朱華だったのか最期まで分からなかったけれど、これはこれで「あり」

【花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる 眺めせしまに】

晩年をここで過したという小野小町も、この地に咲く美しい花を見、変わり行くわが身を嘆いたのでしょうか・・・

随心院境内 は昭和41年(1966)6月21日に国の史跡に指定されました。

参拝日:2008年3月22日


飛鳥田(あすかだ)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月09日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区横大路柿ノ本町に鎮座される「飛鳥田(あすかだ)神社」。御祭神は『別雷神・市杵嶋姫命』。鳥居には「慶安五壬申年 嶋潟弁才天御宝前」と刻まれています。

由緒「白雉4年の創祀。貴布祢・賀茂の両神の神託により、横大路に宮を造営して別雷神を勧請。翌白雉5年、斎主:卜部倉見により奉幣せしめらたのを以て起源とする。「延喜式神名帳」に、飛鳥田神社は「一名柿本社」と記されており、柿ノ本町に建つ当社が式内社飛鳥田神社に推定されている。」案内より

拝殿脇に立つ案内によれば、こちらの本殿・拝殿ともに市指定有形文化財となっています。が・・・・この荒れ果てた様は?!由緒ある式内社とはとても信じられません。隙間から垣間見た拝殿内は、嵐の後の様に散乱し、長く放置されたらしい埃で覆われています。

拝殿の奥、本殿前より神域を守護される狛犬さん・・・この奇妙とも思える彩色は神殿狛犬としての本来の姿なのでしょうか・・・私には見当がつきません。

境内の北東に鎮座される「石神社(いわがみしゃ)」。御祭神は『大巳貴命』ですが、祠の内は空洞のご様子・・おそらくどちらかに遷されているのでしょう。

主のいない「石神社」の御神域を守護されるのは、お獅子顔の狛犬さん一対。実はとても困っているのだと言いたげな阿形さん・・自分たちの力ではどうする事も出来ないよと、半ばあきらめ気味の吽形さん。それでも、小さいながらも精一杯に御祭神の鎮座地を守られています。

立ち入り禁止の札が掛けられたロープ、その向こうには既に朽ちかけた摂社がまだ幾つかありましたが、ロープの向こうでは撮影はままなりません。

参拝日:2010年2月24日

2013年に境内の社殿全てが修復されたと聞きました。「石神社」の小さな狛犬さん、今は主が鎮座される社殿を守護されているのでしょう。


伏見街歩き in 京都府京都市伏見区

2025年08月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

大倉記念館の近く、伏見区東柳町に門を構える「真言宗醍醐派:辨財天長建寺」。元禄12年(1699)伏見奉行建部内匠頭政宇が中書島開発の際、深草大亀谷の即成就院から塔頭多聞院を分離して創建。一般に「島の弁天さん」と親しまれています。

朱色の竜宮門と言うのはかなり珍しい気もしますが・・どうなんでしょう?

ご本堂の近くに奉納されていた石・・・、見方によっては蛇の頭のようにも見えます。近くに説明のようなものがあったと思ったのですが、それらしい画像が無いところを見ると勘違いかも・・

伏見の観光名所としては五本の指に入るという「寺田屋」。幕末の歴史ファンには圧倒的な人気を博している観光地ですが、正しくは寺田屋跡というのが正解。

ちなみに「寺田屋」の建物には、事件当時の「弾痕」「刀傷」、さらに「お龍が入っていた風呂」まであり、まるで当時そのままの建物のように説明されています。が、実際には事件の舞台となった「寺田屋」は、鳥羽・伏見の兵火で焼失。現在の建物は後の時代に、当時の敷地の西隣に建てられた事が公式に結論づけられています。単なる記念館としてみる分には問題ないのですが、偽者を本物とするのは如何なものでしょう。

実際の「寺田屋」の旧跡地は、旅籠寺田屋の西隣にあり、そこには懐手の竜馬像が申し訳のように建立されています。何とはなく憮然と佇んでいる私の耳に「こんまかことは、かまんき~」と苦笑いする竜馬さんの声が聞こえた気がします。

伏見区には、明治期に建てられた歴史的な建造物が幾つか残されていますが、「稲荷駅のランプ小屋」もその一つ。明治12年8月18日、旧東海道線が京都から大津駅まで開通したときに誕生した「稲荷駅」。このランプ小屋は開業当時、駅舎等の石油ランプ灯具の整備・保管や油類の保管に使用されたと言われており、国鉄最古の建物として「準鉄道記念物」に指定されています。

伏見区下油掛町の一画に建立されている「我国に於ける 電気鉄道事業発祥の地」。側面には「明治廿八年二月一日京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線) 南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我国において初めて開業した」と刻まれています。

上の碑が建てられているのが、「煉羊羹発祥の店」と言われている老舗の和菓子店「駿河屋本店」。人気のお店らしく玄関前には数人が並んでいました。

伏見区東浜南町にある「モリタ製作所伏見工場」。その敷地内には明治35年頃の建築とされる「旧京都電燈伏見発電所」が残されています。煉瓦・切妻造りの美しい建物なのですが・・残念ながら事前予約か何かが必要だったらしく、門の向こうに僅かに建物の一部を見ただけ。

深草田谷町にある煉瓦造り二階建ての建物は、明治41年(1908)建築の「旧第十六師団司令部」。昭和23年(1948)に学校法人聖母女学院の「聖母女学院本館」として払い下げられました。敗戦国の軍の建物を、勝者の宗教系の学校にしてしまう。心の中の小さな棘が、ふいに頭をもたげて胸を刺していきます。

「旧第16師団司令部庁舎」は、2016年2月25日に、国登録有形文化財建造物に指定されました。

伏見の町屋で見かけた鍾馗さん、顔立ちが随分と穏やかですが、こう見えて悪霊退散のエキスパートなんです。

歴史的な建造物と思われるお宅の一画に祭られていた石仏様。人様の敷地内と言うこともあり、軽く手を合わせて撮影させていただきました。

京都に限った事では有りませんが、意外な場所に色々な碑が建立されています。と言っても歩きだからこそ見つかるもので、中々写真に残せる機会は少ないのが現実。左は「北山上役行者鷲峯山道・京道」。北山上鷲峰山金胎寺は1300年前に『役小角(えんのおづぬ)』によって開かれたと伝えられている古刹。道標からさほど離れていない場所で見かけた「観月橋」の親柱。何故ここにあるのかは不明。

すっかり文字が色あせてしまった一枚の壁掛け看板。「大日本最上の丸天醤油」。丸天醤油と言えば兵庫県たつの市に本社を置く醤油メーカーですが、こうした歴史の「モノ」が残されている事にちょっと感動。      

酒造会社の建物なのか、それとも何かのお店なのか・・人物の後に看板らしきものが見えていますが、仔細は分からずとも、いかにも伏見の一画らしい風景。

【♪かっぱぱ~~ かっぱぱ~~ 河童黄桜 かっぱぱ~~】のCMソングでお馴染みの黄桜酒造。地ビールと日本酒のテーマパークという事でとても賑やか。

建物内には、かって酒蔵だった頃の名残も残されており、それなりに面白いものや興味深いものにも出会えました。

で・・ついつい目が行ってしまう飾瓦。随分と立派なえびす様ですが、何時ごろのものかは不明。

町歩きの楽しさは普通の暮らしの中に垣間見える、ちょっとしたあれこれに出会える事。と言っても、そこは普通に暮らす他人様の生活圏なのだという事、くれぐれも心に留めなければと思います。

訪問日:2006年09月02日