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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ふらり亀岡~あちこちウォッチ in 京都府亀岡市

2025年08月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市稗田野町、稗田野神社参拝の折にちらりと見かけた「大石酒造・酒の館の酒蔵見学」の看板。丹波と言えば有名な「丹波杜氏」、関西の著名な酒蔵では欠かす事のできない丹波杜氏本場の酒蔵見学・・これはもう素通りできません。

開放された屋外の建物内にも、私には用途の分からない道具たちが整然と並べられており、一つずつきっちりと見て回ったら、余裕で時間オーバーの予感😓

店内に入り、酒蔵を見せて頂きたいのですがと伝えたら、自由に見学くださいと二階へ案内されました。

「ここは戦前から戦後にかけて清酒の仕込蔵として使用した本造蔵です。内部の貯蔵庫は、明治時代の建物で約100年間、原種の貯蔵庫として使用してまいりました。一階は釜場と船場があり、それに仕込桶やタンクが設置されており二階は酛に麹をつくる室があります。」

タンクが並べられた「旧貯蔵庫」の神秘的な静けさ。「製麹室」の奥には白い布をかけられた麹が静かに目覚めを待っています。

館内には酒造りの道具などの他に、本当に種々雑多な「モノたち」が所狭しと並べられています。

古い時代の酒瓶に看板、お酒を楽しむための種々の道具、何もかも目新しくて、何故か懐かしい不思議な感覚。

壁に掛けられたゆかしい飾、もう少し広い玄関だったら真似てみたいね。

思いがけない楽しい時間を過ごし、御亭主殿のたってのお願いで😁「翁鶴:甘辛セット」。私用には「丹波黒豆きんつば」をお土産に酒蔵を後にしました。

「稗田野神社」近くで見かけた「とこなげ山」の碑。帰宅後に調べた所、空海が白鹿に導かれ、松の枝に独鈷杵を見つけた場所とされ、「獨鈷抛(とこなげ)山:千手寺」という名刹があるらしい・・「床」ではなく「獨鈷」なのねと、妙に納得。

街道沿いに二箇所だけ設置されている「人形浄瑠璃台灯篭型バス停」。亀岡市稗田野町地域に伝わる「佐伯灯篭」の舞台となる台灯篭を模したものです。

国指定重要無形民俗文化財「佐伯灯籠」は、五穀豊穣を祈願し、祖霊の冥福を祈る4つの神社の合同祭礼。人形浄瑠璃は、台灯籠と呼ばれる移動式の舞台で演じられる催し物で、独特の構造を持つ35㎝ほどの串人形を1人で操るのが特徴です。

こんな小さな人形たちが紡ぎ出す浄瑠璃の世界・・いつか本物を見てみたいね。

国道372号線篠山街道は灯篭街道と呼ばれ、道路沿いにいくつもの「切子灯籠」がたてられています。

案内には「歴史遺産が多く点在する国道372号線に、灯籠83基、バス停二基を設置し、「灯篭街道」として歴史の舞台を訪ねてほしいとの願いをこめ整備した」旨が記されています。

訪問日:2009年5月30日&2010年6月28日


龍潭寺(りょうたんじ) in 京都府亀岡市薭田野町

2025年08月24日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市稗田野町太田東谷に門を構える臨済宗妙心寺派「金剛山:龍潭寺(りょうたんじ)」。京都の世界遺産・「龍安寺」、南丹市八木町の「龍興寺」とともに「妙心寺派の三龍寺」と呼ばれます。

「妙心寺第六世『雪江宗深』が庵を設け、大梅寺というお寺とした後、弟子である『特芳禅傑』が移り住み開山。古い室町時代の典籍や絵画などが数多く残され寺宝とされています。昔から子供のかん虫に効き目があると広く信仰を集めてきました。」

境内にあった露岩を生かした庭園は、府の名勝に指定されているようですが・・庭園というありきたりの言葉では言い表せない、神秘で幽玄な景色が広がっています。

庭園の一画に「故陸軍歩兵二等卒堤市之助碑」

底の深さも見分けられない池の畔、うち捨てられたかのように苔むす巨石・・・生い茂る草木

名もなき石仏たちは一つに集められ、幾年も、行きかう人々を静かに迎え、見送ってきたのでしょう。

経蔵の屋根から境内を見守る龍の姿が目に残る・・

木々に隠れるように左手に建つ「経蔵」、右手に「開山堂」が並びます。

経蔵の天井から下界を見下ろす龍の圧倒的な力強さ。できれば真下から写したかったのですが・・

あれもこれも、見た筈なのに何にも残していない・・まるで素通りしてしまった感が否めません。本来であればもう少し丁寧に参拝しなければと思いつつ、次を急いでしまうこの貧乏性、改善できそうにありません😅

参拝日:2010年6月28日


穴太寺(あなおじ)in 京都府亀岡市曽我部町

2025年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市曽我部町穴太東辻に門を構える天台宗寺院「菩提山・穴太寺(あなおじ)」『薬師薬師如来』を本尊とします。西国三十三所第二十一番札所、御本尊は『聖観世音菩薩』。

 宝永2年(1705)の再建とされる仁王門(京都府指定有形文化財)の内陣より境内を守護される仁王像。木肌の感じからそれほど新しいとも思えませんが、ボディビルダーのような上半身が朱の色と相まって独特の雰囲気を醸し出しています。

穴太寺観音縁起によれば「慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。応仁の乱の戦火によって伽藍が被害を受ける。天正年間(1573年 - 1593年)には、明智光秀の丹波攻めに巻き込まれて焼失。17世紀中頃に行廣上人が再興。享保13年(1728)に本堂が焼失するが、享保20年(1735)に再建している。明治29年(1896)に本堂の天井裏から釈迦涅槃像が発見された。」

京都府指定有形文化財の本堂 は、享保20年(1735)の再建。内陣に鎌倉時代の作とされる木造釈迦涅槃像(なで仏)が安置され、布団が掛けられており、自分の体の病のある部分と同じ涅槃像の体の部分を触ると参拝者の病気がよくなると伝わります。

今回「涅槃像」は拝観できませんが、本堂の縁に座し、人々の痛みを和らげるとされる「賓頭盧(おびんづる)さま)」を撫でさせていただきました。こちらの賓頭盧さま・・見知った人に妙に似ていて、何故だか目の奥に熱いものが・・

広い境内には沢山の伽藍があり、半数以上が府または市の文化財に指定されています。仁王門を入ってすぐの左手に建つ「多宝塔 」は、京都府指定有形文化財。文化元年(1804)の再建。

朱塗りの玉垣の中に鎮座される「鎮守堂(天満宮)」。18世紀中期の建立とされ、府登録文化財に指定されています。

玉垣の内より聖域を守護されるのは浪花系の狛犬さん一対。しっかりと四肢を踏ん張りつつ、にこやかに参拝者を出迎えてくれます。

「仁王門」をくぐった直ぐ右手に、亀岡市指定有形文化財の「鐘楼」。宝暦9年(1759)の建立。

本堂の屋根より境内を見守る留め蓋の獅子さん。一見同じように見えますが瓦が焼かれた土地によってそれぞれに特徴があり、それを見るのも私たちの楽しみの一つ。

できれば阿吽の一対で画像に残したいのですが、何しろおいでになる場所が高所過ぎて、その上持っているデジカメはお財布にやさしい代物なので😅

もっと余裕をもって参拝すれば、まだまだ多くの建築物に出会えたのですが、どうしても一度外に出るとあそこもここもと欲張って後で「しまった!」と後悔することになります。と言いつつ、毎回同じ後悔を繰り返しています😁

ご詠歌【かかる世に 生まれあふ身のあな憂(う)やと 思はで頼め 十声一声(とこえひとこえ)】

穴太寺の近くに建之されていた「圓山応挙誕生地」碑。江戸時代、1733年、円山応挙は、丹波国桑田郡穴太村(亀岡市)の農業・丸山藤左衛門の次男に生まれ、9歳のころ金剛寺に小僧として入門。絵の才能を見出され狩野派:石田幽沈に弟子入りし、その後写実を基本とした円山派を樹立します。「足のない幽霊」を描き始めた最初の画家とも言われています。

参拝日:2010年6月28日


神蔵寺(じんぞうじ) in 京都府亀岡市稗田野町

2025年08月23日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市稗田野町佐伯岩谷ノ内院ノ芝に門を構える、臨済宗妙心寺派「朝日山・神蔵寺(じんぞうじ)」。別名「佐伯薬師」として親しまれます。

「延暦元年(782)交通の要衝の地であった亀岡盆地、その西部朝日山の東向山麓に『最澄』が開基道場を開いたことに始まるとされる。鬼退治で知られる『源 頼光』帰依の寺と云われる。治承4年(1180)源頼政の挙兵に参加するも敗戦。平氏により所領没収されて堂宇は荒廃。嘉禎元年(1235)天台宗達玄僧都により僧舎を再建。女人禁制を解き、再び丹波随一の名刹に復元。天正3年(1575)明智光秀の丹波攻めにより一宇残さず焼亡。ご本尊は信者達によって山中に隠され難を逃れた。承応2年(1653)浄土宗光明寺派の願西法師により堂宇を再建。延宝7年(1679)、亀山城主松平伊賀守が臨済宗妙心寺派の高隠玄厚を請じて中興、今に至る。」公式HPより

参拝を終えたご亭主殿、しゃがみこんで一心不乱に向けたカメラの先には、苔の褥で静かに休む鬼瓦。これらは修復前に使用されていた鬼瓦との事。

肩の荷を下ろしたかのような・・ホッとした表情。こんなにも優しいお顔をされるのか・・

角の存在が不思議にさえ思えてくる・・うるんだ様に見える目の先には、何が見えているのだろう・・

参拝後にご挨拶をと庫裡に立ち寄らせていただいた二人に、お寺にまつわるお話から近隣の見所など沢山のお話を聞かせてくださった奥様。あまりのお話上手に、時間を忘れてしまいました😊

山内川に覆いかぶさるように枝を伸ばすモミジに、とっても不思議な物体があったと言ったら、「あれは”モリアオガエル”の卵なんですよ」と。そこでひとしきり”モリアオガエル”についての解説もして頂きました。

本堂へ上がる階段の周りは、紅葉の季節には一番の撮影スポットになるとか。ぜひ紅葉の季節にもおいで下さいとお声をかけて頂き、二人一緒の記念写真まで。その節には本当に素敵な時間を有難うございました。

お寺を後にして最後に立ち寄ったのは、土手を降りた先に見かけていた、とても神秘的な池。

深い緑に染まる池の岸辺近くに一本の木が生えているのですが、そこに白っぽいものが沢山見えていた事を覚えていたのです。

土手の上で待つ私の為に、ご亭主殿が頑張ってくれた”モリアオガエル”の卵塊。

孵化の準備が整ってきたころ、卵塊は水辺近くまで下がり、やがてオタマジャクシとなってそのまま下に落下し泳ぎ出します。木の葉を写しこんだ水面は、とても不思議な縞模様を作り出して、小さな命が飛び込むその瞬間を待っています。

参拝日:2010年6月28日


清瀧山谷性寺・桔梗寺 in 京都府亀岡市宮前町

2025年08月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

天正3年(1575)、丹波平定を開始した明智光秀は、前線基地として亀山城を築き、近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成。天正8年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2 年後に「本能寺の変」が起こります。

亀岡市宮前町猪倉休場に境内を構える真言宗大覚寺派寺院「清瀧山:谷性寺(こくしょうじ)」

『不動明王』を本尊とし、通称「光秀寺」とも、また「桔梗寺」とも呼ばれています。

沿革「天正年間明智光秀公は本尊不動明王をあつく尊信し将兵はその加護を得る。光秀公が本能寺に織田信長襲撃を決意し、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらしその功徳を得て本懐を遂げた。又真言宗の祖山高野山は「信長の高野攻め」の危難をまぬがる。天正10年(1582)光秀公、秀吉の軍と天王山で戦って敗れ、坂本上に向かう途中山科小栗栖で落命、随従していた四天王の一人溝尾庄兵衛が介錯なし、近臣に托し生前光秀公の尊信あつかった当寺不動明王のもとに手厚く葬るよう命じて坂本に去った。」近畿楽寿観音霊場HPより

敵方に晒されるのを恐れ地中深く埋められた首は、後に近臣が掘り出し谷性寺に手厚く葬ったと伝えられ、また安政2年、光秀公の怨念を鎮める為に首塚の碑が建てられたと云われています。

某局の大河の主役になった事で明智光秀の知名度はさらに増しましたが、実際、信長公とどのような確執があり、何ゆえ謀反に至ったのか、当人以外には知る由もありません。結果・・一度は天下を手にした筈の光秀公を待っていたのは、謀反人の汚名と無残な最期でした。光秀公の首塚に関しては京都白川の首塚等も含めて諸説あります。そして・・その諸説の数だけ、彼を慕う勢力があったと考えるのは間違いでしょうか?

苔むした印塔、通路にしつらえられた竹の柵・・その隙間をひっそりと彩る桔梗の鮮やかな青・・凛と美しい白。

近畿楽寿観音霊場第二十五番札所:谷性寺

御詠歌 【かくもうく 猪倉村の 谷性寺 深き誓いを たれを頼まむ】

亀岡市では毎年6月後半から7月後半にかけて、明智光秀公ゆかりの谷性寺門前で「ききょうの里」が開園します。畑に植えられた5万本の桔梗はきっととても見事なのでしょう。でも私には境内の片隅に密やかに咲く、あのささやかな姿が好ましく思えます。

訪問日:2006年7月29日


鍬山(くわやま)神社 in 京都府亀岡市上矢田町

2025年08月22日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市上矢田町上垣内、面降山(めんこうやま、天岡山)東麓に鎮座される「鍬山(くわやま)神社」。御祭神は『大己貴命 誉田別尊(客神)』

式内社で、丹波国桑田郡十九座の内の一社。通称「矢田社」または「矢田宮」とも呼ばれます。

由緒「和銅二年(709)に創祀と伝え、太古の昔、丹の湖であった亀岡盆地の南端の黒柄山に八柱の出雲の神々が降臨され、一艘の樫舟にのり、浮田の峡(現:保津峡)を鍬や鋤を使って開削し、水を山城国へ流し、人々が住める肥沃な耕地を造ったと伝え、その時に使った鍬が山のようにうず高く積みあがったことから、鍬山と呼ばれたとも伝えます。また、誉田別尊は、永万元年(1165)に天岡峯に弓矢を負った武人の姿で降臨されたと伝えられ、八幡宮として祀られました。その後、社殿に嫗の舞楽面が降り、皇居に降った翁面と合わせて神宝として当社に祀ったと言われています。このことから天岡峯は面降山とも呼ばれるようになりました。」公式HPより

朱塗りの二の鳥居前より神域を守護されるのは、「筋骨隆々おやじ顔タイプ」の京尾立狛犬さん一対。吽形さんの背中をよじ登っている仔狛の顔も、いっちょ前のおやじ顔😆

神橋を渡った先に、二社宮共用の拝殿

参道向かって左手に鎮座される「鍬山宮」。本殿は一間社流造柿葺で千鳥破風を有し、正面に一間の唐破風造の拝所を付属して一体とします。

拝所の石段下より神域を守護されるのは、京うちわタイプで穏やかな顔立ちの狛犬さん一対。山型の上唇が特徴。吽形さんはさりげなく角をお持ち。

「鍬山宮」と同一の形式・規模で右隣に鎮座される「八幡宮」。両宮とも社殿は文化11年(1814)の造営とされ、京都府登録文化財に登録されています。

拝所の石段下より神域を守護されるのは、京尾付タイプの狛犬さん一対。いつも思うのだけど・・これだけ石の色が変わってしまうと、デジカメの画像では表情が読みづらいのが残念。

社殿には木鼻彫刻の獅子一対。玉が嵌めこまれている所為か、その表情はとてもイキイキと躍動的。

どうですこの表情😁 こんな顔で話しかけられたら・・サインをねだっても良いですか?

ちなみに八幡宮の御神紋である「双鳩」は、こちらでは阿吽の形になっています。体つきも阿形の方が少しふっくらしており、珍しい例として興味深く拝見させていただきました。

ということで、社務所に掛けられた幕の御神紋は「真向き兎」「双鳩」

仲良く並んで祀られる二つの宮ですが、その昔、鍬山宮の隣に八幡宮を祀った所、雷雨の発生や、鳩と兎の争いが始まり、これを両神の不和と捉えた人々は、一旦は八幡宮を杉谷に遷し、やっと争いは収まったと云います。慶長14年(1609)に両宮が現在地に遷された際、争いを防ぐために両宮の間に小池が設けられたとか・・そのあたりの深い事情、ちょっとした小編のネタになりそう😄。

弁天池と、奥に小さく「弁財天社」

絵馬殿の奉納絵馬は右から左の右書きで「京阪若手俳優壹坐」と書かれています。今のように左から右の書き方になるのは大正~昭和初期頃と言われており、旧字体の壹が使われている事など、中々に興味深い絵馬です。

参拝日:2009年12月7日


走田(はせだ)神社 in 京都府亀岡市余部町

2025年08月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市余部町走田に鎮座される「走田(はせだ)神社」。御祭神は『彦火火出見命{ひこほほでみのみこと)=(山幸彦)・豊玉姫命=(海神の娘)・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)=(御子)』

「創祀年代は不詳。社伝によると711年(皇紀1371)和銅四年の勧請という。式内社・走田神社に比定されている古社。「三代実録」によると、貞観十五年(872)四月五日に正六位上の神階を授けられた「和世田神」が由来とされる。社号「走田」の由来は当社に奉納されていた絵馬からで、毎夜馬が抜け出して馳せその足跡が溝となり川となって田を潤したからと云う。」

鳥居の傍らより神域を守護されるのは、大正四年(1915)秋建立の玉取り、子取りの浪花系狛犬さん一対。

阿形さんの足元から顔をのぞかせる仔狛、親に似たのか随分と気の強そうなお顔😄

吽形さんが持つのは、見事な透かし彫りの毬。毬の中の玉は実際に動くのですが、アップにすると石工の力量が如実に伝わってきます。

上質の絨毯を敷き詰めたような苔の色、左右に続く垣に守られ一段高くに鎮座されるのは、流造、唐破風向拝付きの本殿。

本殿前より神域を守護されるのは神殿狛犬の風貌を思わせる狛犬さん一対。可愛い角をお持ちの吽形さん。牙を覗かせている割には人懐こそうな笑顔の阿形さん。

社殿向かって左に鎮座される「大国主社」。御祭神は『大国主命』。右手に鎮座される「経津主社」。御祭神は『経津主命』

垣に囲まれた一段高いところに鎮座される 参道脇の東側に鎮座される「百太夫社」。祭神は『猿田彦大神』

参道脇の西側に鎮座される「稲荷社 別称:長吉稲荷」。祭神は『倉稲魂尊(宇迦之御魂大神)』

濃い緑の中、時折差し込む薄い光が稲荷社の朱い鳥居を浮き上がらせます。
けれども鳥居の先に建つ拝殿は拍子抜けするほど明るく、鳥居の外と内の違いに驚かされます。 

「子連れ狼」「剣客商売」「竜馬がいく」「暴れん坊将軍」・・数々の時代劇のロケ地として使われた「走田神社」。うっそうと茂る鎮守の森を従える参道に立っていると、髷を結った侍たちが今にもこちらぬ向かって歩いてきそう。

ちなみにこの神社の森および近辺は口丹波一の!!まむし!!の棲息地なんですが、この毒蛇は決して人を噛まないという言い伝えがあります。でも可能な限り出会いたくないと心底願っています🙏🙏

参拝日:2010年6月28日


稗田野(ひえだの)神社 in 京都府亀岡市ひえ田野町

2025年08月21日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市ひえ田野町佐伯垣内亦に鎮座される「稗田野(ひえだの)神社」。御祭神は『保食命・大山祇命 ・野椎命(鹿屋野比売)』。昭和45年建立の大鳥居は高さ13メートルで、京都では平安神宮に次ぐ大きさです。 

由緒「当神社は和銅二年(七〇九)の創建でその後平安時代 には延喜式(九二七)に記された古社。鎮守の森中央の土盛は弥生時代以来の祭祀跡。神殿南側 堀内の京式八角石燈籠は鎌倉時代の作品と言われ旧法で 国の重要美術品の指定を受けていた。八月十四日に行わ れる四社合同の夏祭りは「丹波佐伯郷の燈籠祭」と呼ばれ 食物の豊作を祈願する平安朝以来の大祭として伝えられ ている。平安時代に御所より当社に下賜された「五個の 神燈籠」は当時の稲作の様子を五場面に表わし神輿や大 太鼓とともに五穀豊穣祈願の神事の中心となり燈籠祭と 呼ばれる所以である。また、背丈三十cmほどの日本最小 の串人形で浄瑠璃が演じられる。京都府より無形文化財 の指定を受け国の無形文化財記録保存に採択されている。 尚当神社は鎌倉時代より神宮寺として栄え稗田八幡宮 とも称し疫病退散・健康長寿の霊験あらたかな社として 称えられ又女性の守り神として若い女性の参拝も多い。 最近は悪病退散・癌封治の社として全国より参拝者も多い。(保食命は別名豊受大神で伊勢の外宮と同じ御祭神)」境内案内より

「延喜式神名帳」にある「薭田野神社(丹波国・桑田郡)」に比定される式内社(小社)。

境内玉垣の内、神楽殿前より神域を守護されるのは、大正四年(1915)大典記念建立『石工:山脇長吉』の手による狛犬さん一対。両手をそろえてお行儀良く座る風の吽形さんと、子狛を抱く阿形さん。

でもって阿形さんが足の間に抱えている子狛。綺麗な牡丹の花で遊んでいるのですが、その顔がとっても凶悪😅

平成2年(1990)に江戸時代中期の社殿(京都府登録文化財)を全焼。現在の社殿は、室町時代の簡素な様式に平成の趣を加えた設計で1992年に再建されました。

社殿の内庭より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。足の間に仔狛を遊ばせる阿形さんと、愛おしそうにその姿を見つめる吽形さんの横顔が印象的です。

社殿の内庭に鎮座される「摂社:春日神社」。 奈良県春日大社より勧請。『建御雷之神、天児屋根命』を奉ります。

こちらは相方をなくしてしまった吽形さん。もしかしたらどこかに置かれているのでしょうか? 見る角度によって狛犬さんの表情は実に多彩に変化しますが、でも私の目にはとても寂しそうで切なそうに見える・・

神楽殿の左手にある「石の環くぐり」。願い事を強く明確に念じながらくぐると願い事を達成する気力を授かる・・という石の環。願いを叶えるには、やはり最後は自分で頑張るしかないようです。

意欲と気力を授かる「必勝願掛け石」。石に両手をあてて願掛けする事により、石に秘められた気力を得ることができます。このとき何を願ったのか・・それは私の心の奥深くに今も大切にしまい込まれています。

「幸魂奇魂(さきみたま くしみたま)」は、豊葦原の国造りが成された古来から伝わる神語。抱き付くも良し、頬ずりも良し、接吻も良しと書かれていますが・・・さすがに頬ずりまでが精一杯😅

創設当時の里人がこの池に禊ぎして豊作と無病息災を祈ったと伝わる「和銅禊ぎの池」。今では手を浸す事で禊ぎとするようですが・・まぁ、どう考えてもその方が無難な気がします。

御鎮座壱千参百年の奉賛事業として2009年に建立された「稗田阿禮社」

『稗田阿禮(ひえだのあれ)』は飛鳥時代から奈良時代にかけて実在する人物。『宇治土公』の庶流であり『天鈿女命』の末葉であるとされ、「古事記」の編纂者の1人として知られます。

御祭神である「保食命 (うけもちのみこと)」は、穀物の起源神であり五穀豊穣、食を司る偉大なる女神。伊勢の神宮・外宮に祀られる豊受大御神と異名同神。「大山祇命(おおやまずみのみこと)」は、山の守護神、延命長寿、美人の守護神。「野椎命 (のづちのみこと)」は、野の神様、田畑の作物の守り神とされています。

・・・・・「大山祇命」が美人の守護神と言うのは、うん・・何となくわかるような気がします😅 奥方様全員、美人ぞろいでしたよね。

参拝日:2010年6月28日


出雲大神宮 in 京都府亀岡市千歳町

2025年08月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市千歳町に鎮座される丹波國一之宮「出雲大神宮」。御祭神は『大国主命(御蔭大神)・三穂津姫尊(大国主の后)』

旧称「出雲神社」。別称として「元出雲」「千年宮」、また古くは「大八洲国国祖神社」とも称され、弁財天が鎮座される神池の向こうに仰ぎ見る「御蔭山」を御神体とします。

創建「年代は不詳。社伝では、和銅2年(709)10月21日に社殿が建てられたとする。『古事記』・『日本書紀』には国譲りの神事が記載されるが、丹波国は出雲・大和の両勢力の接点にあり、国譲りの所由によって祀られたとされる。延喜式神名帳では「丹波国桑田郡 出雲神社」と記載され、名神大社に列している。正応5年(1292)には、雨乞いの功を示したことから神階が最高位の正一位まで昇った。境内には横穴式石室を持つ後期古墳があるほか、西南には口丹波最大の前方後円墳である千歳車塚古墳があり、古くから御蔭山を神体として祀る氏族がいたと推測されている。」Wikipediaより

本殿は元明天皇の和銅二年(709)に建立。現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元年(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。三間社流造平入檜皮葺で、明治39年(1906)に旧国宝、現重要文化財に指定。

高覧の左右より神域を守護される神殿狛犬さん。遠目からですがとても端正なお姿をされています。

御朱印をいただくために再度参拝させて頂いたのは、11月も終わりに近い頃。鮮やかな紅葉の向こうに鎮まる本殿の佇まいは、また格別の趣。

鳥居の内、両脇より神域を守護されるのは、昭和4年建立の京風狛犬さん一対。

私が密かに「気の良いおっちゃんタイプ」と位置づけた一対😄。吽形さんの穏やかな笑顔に、阿形さんのおおらかな笑顔。その柔らかい顔立ちが、見るものに不思議な安心感を与えてくれます。

入母屋造、妻入の拝殿は、本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物、明治11年(1878)に官費により造営されました。

古生代の石灰岩層をつたい、火山噴火でできたマグマの接触変成岩層から湧き出る御神水「眞名井の水」。喉越しがこんなにも柔らかいお水・・知っていたらペットボトルを持参したのに、残念。

と言いつつ、二度目もやはりペットポトルを忘れた😅

「夫婦岩」に掛けられた赤い注連縄は、縁を結ぶ赤い糸でできています。糸の先に結ばれている5円(御縁)はまだ見ぬ人へ?それとも共に生きる二人の為?

「大国・恵比寿舎」

「樂殿」

鎮守の社に至る鳥居を潜ると、心身が洗われるような不思議な心地よさに包まれます。深く深呼吸をして、ここは確かに神の座す場所だと再認識。

鳥居の正面に見えるのは「摂社:春日社」。御祭神は『建御雷之男神・天兒屋命』

「御蔭の滝」『竜神乃神』をお祀りする滝として、いにしえより地域の源と崇められています。

春日社の前を左に進むと澄み切った気はさらに深くなり、その先に「磐座」が鎮座されます。そこは確かな神域であり、禁足地とされています。

「上の社」「磐座」へと至る石段参道。時刻は11月後半の午後4時過ぎ・・根性無しと笑われそうですが😅、この先に進むのは躊躇われます。

「西鳥居」

参拝日:2010年6月28日&2014年11月22日


ふらり井出町~あちこちウォッチ in 京都府井手町

2025年08月19日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

井手町東垣内に門を構える曹洞宗永平寺派寺院「地蔵禅院」。南山城平野を一望できる境内に、樹齢約290年と伝えられる、京都府指定天然記念物「地蔵院のしだれ桜」と呼ばれる、桜の古木があります。春爛漫の満開の季節は付近はひどい交通渋滞で、私たちはその美しい姿をまだ一度も見た事がありません。

が・・・実はとってもミーハーな二人、「薄墨桜」とか「臥竜桜」とか「醍醐桜」とか・・とかetc・・・桜100選に選ばれるような桜は、チャンスさえあれば一応見に行きます。ただし渋滞の無い季節を選んでいるので、間違いなく100%葉桜。参道途中に仰ぎ見る桜は、しだれ桜の二代目にあたるもので樹齢約100年。これがピンクに染まる姿は、さぞかし美しいだろうと容易に想像できます。

人気の無い境内はとても静かで時間の流れがとても緩やか。本堂の外れ、隣接する「玉津岡神社」の参道に向かって、幾体かの地蔵様が、大切に、大切に祀られています。

井出の玉川は、全国に六か所ある玉川の名で、総称して六玉川と呼ばれています。「宮城県:野田の玉川・東京都:調布の玉川・滋賀県:野路の玉川・大阪府:三島の玉川・和歌山県:高野の玉川」の5つと、京都府は山城の国を流れるこの「井出の玉川」

綺麗に整備された玉川沿いの遊歩道には、井出の地に縁の万葉和歌が、紹介されています。

『聖武天皇』を補佐して恭仁京遷都・大仏建立などを取り仕切った『橘諸兄』。この井出の地には「橘諸兄公旧跡」があり、碑の傍らには「橘諸兄公供養塔」が建立されています。山吹の名所として知られる玉川沿いに建立された『橘諸兄』の歌碑。

【 降る雪の 白髪までに 大君に 仕えまつれば 貴くもあるか 】

「井出の玉川と山吹」を詠んだ同じ万葉歌碑、他にもありましたが、歌の紹介だけ。

【 音に聞く 井出の山吹 みつれども 蛙の声は 変わらざりけり 】『紀貫之』

【かわづ鳴く ゐでの山吹散りにけり 花のさかりに あはましものを】詠人不知

訪問日:2015年9月5日