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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

蓬莱(ほうらい)橋~其の一 in 静岡県島田市南

2019年02月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

島田市南にある「蓬莱(ほうらい)橋」。世界一長い歩行者や自転車専用の木造の有料橋。 通行料金は一回あたり、自転車と中学生以上が100円、子供は10円でそれ以外は通行禁止。

大井川右岸、蓬莱橋の正面に見える緑の一画は、全国でも有数の茶園として知られる牧之原台地。 橋ができる前、大井川は小舟で渡るしかなく、行き来する為には、時に非常な危険を伴うこともありました。

そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出しました。 これが許可され、明治12年(1879)1月13日に農業用の橋として「蓬莱橋」が完成。

しかし木製の蓬萊橋は増水のたびに被害を受けた為、昭和40年に橋脚部分をコンクリートに変更。 現在も茶農家が対岸の茶園を管理するために利用しており、農道としての重要な役割を担っています。

さて、冒頭で世界一長いと書きましたが、ではその長さは・・・何と「897.4m」もあり、1997年12月「世界一長い木造歩道橋」として、英国ギネス社から認定を受けました。

またその長さの語呂から「8(や)9(く)7(な)4(し)」=「厄無し」として厄払いのスポットに。 更に「長(なが)い木(き)の橋」=「長生きの橋」として、長寿のご利益スポットとしても知られるようになりました。そういった事もあってかどうか、橋の対岸には七福神像など、様々なご利益スポットが点在しています。

2011年に訪ねた折は、災害の影響で橋の中央までしか渡れず断念。そんなわけで無事に再訪を果たすことが出来た今回は、もうワクワクが止まりません。お天気は良いし、12月なのにそれほど寒くも無く、しかも空は青く澄んで気分は上々。

橋の中ほどまで来たところで、左手に富士山を発見!!そうか、ここから富士山が見えるんだ! 富士山の下に見えている長い橋は「島田大橋」、942.5mで、蓬莱橋より50mほど長いのです。

と、そんなことはどうでも良くて(笑)橋の端が怖いはずの私が、今回ばかりはと端っこににじり寄り・・。富士山大好きで、静岡・山梨方面への旅の第一目的は「富士山」と言い切る私には最高の展望。 たとえ一瞬でも苦手な橋の上という怖さを忘れさせてしまうなんて、富士山の威力ってホント、侮れない(笑)

橋の中ほどから振り返って見ると島田の市街が遠くに見え、改めて橋の長さに思いをはせて感嘆の吐息。 左右に見えるのは、川越当時が想像できないほど水量の少ない、広大な砂地を見せる大井川。

先を行くご亭主殿がしきりに足元を指差し手招きするので近づいてみたら、なんとここが橋の「ど真ん中」だって! 気がつかなかったら絶対にそのまま行き過ぎていたかも、細かい目配りのご亭主殿に感謝(笑)

ワイワイと賑やかに橋を渡り終え、早速ご利益スポットと呼ばれる場所の散策に繰り出します。 

足元には赤い実を付けた万年青と、万両の白実・・何かとっても縁起がよさそうで思わず顔がほころぶ(*^^*)。

御利益スポットの最初は「蓬莱吉祥天女像」。「蓬莱山」は不老不死の仙人が住むと云われた幻の山。

麗しい天女像に旅の無事と安全を願い・・少し足場は悪いけど、更に上に登ります。

「蓬莱の島台」と呼ばれる高台から見る蓬莱橋、こうしてみると結構沢山の人が行きかっています。

ご利益スポットの最初のご利益は、ここから見える富士山。ホント!何処から見ても富士山(笑)

橋を渡った先には、色々と話題になりそうな場所もありまだまだ紹介は終わりそうにありません。という事で、恒例の「続きはまた明日」・・・要するに何処も彼処も素敵すぎて、どれも端折れないのです(笑)

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 


大井川・川越遺跡の文学散歩 in 静岡県島田市

2019年01月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

川越遺跡の最寄の駐車場となる「島田市博物館」では、市の歴史や民俗資料が展示されていますが、2011年は入館時間に間に合わず、2016年は月曜で休館・・・結局、一度も入館出来ず。多分、相性が悪いんです。

折角なので散策できる範囲の敷地内を歩いていると、なんと、大好きな芭蕉さんの句碑を発見! 元禄7年の夏、島田で船止めに遭った芭蕉一行が俳諧仲間の元にいた折に詠んだ句。

【 ちさはまだ 青ばながらに なすび汁 】

大意(ちさ(苣)は春野菜の一種なのだが、もう夏も半ばなのに、まだ若い青葉のままでだしてくれた。 そのうえ、秋野菜でまだ初物の「茄子(なすび)汁」も振る舞ってくれた。)

さらにもう一種、これも上記と同じ時、同じ場所で詠まれた自画賛の句。

【 たはみては 雪まつ竹の けしきかな 】

大意(うなだれしなった竹をみていると、まるで間もなくやってくる雪の重みを予期しているようだ)

川越遺跡に繰り出し、まずは川会所を訪問。そこで三基目の芭蕉さんの句碑。 元禄4年(1691)10月下旬、初めて俳諧仲間である『塚本如舟』を訪れた時に詠んだ句。

【 馬方は しらじ時雨の 大井川 】

大意(私を金谷まで運んで戻って行ったあの馬方は、時雨の大井川を越えた私の難儀を知らないだろう)

芭蕉さんの句碑はこれだけですが、他にもいくつかの句碑を見つけたので、まとめて紹介。博物館を出てすぐに「朝顔の松公園」と名づけられた、綺麗な芝生の公園があります。 そこには一本の松の木が植えられ、その傍らに「朝顔堂」とその由来、「朝顔の句碑」があります。

【 爪音は 松に聞けとや 春の風 】厳谷小波

大意(瞽女(ごぜ)の『深雪』が爪弾く三味の調べはもう誰も知らない、この老松に聞いてみようか)

【浄瑠璃でおなじみの「朝顔日記」には、恋する人を慕って流浪する盲目の娘『深雪(朝顔)』が、大井川のほとりで川留の悲運に泣くが、その時、奇跡的に目が治るくだりがあります。その時はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。このことから地元では、大井川畔の巨松を「朝顔の松」と名づけました。昭和十年代に枯れてしまい、その樹幹は博物館南側の朝顔の松公園内朝顔堂に木碑として保存しています。】島田市観光案内より

朝顔の松公園内にもう一つ、「口語俳句」で有名な『田中波月』の句碑。

【 稗(ひえ)しごくと こぼれ太陽の ふところに 】

大意(実った稗を手ににぎりしめて強くしごくと、熟した実が太陽の光に輝きながらこぼれていく)

次は句碑ではありませんが、遺跡の中のとある辻の入り口で「関川庵・八百屋お七の恋人吉三郎の墓」と書かれた標柱を見つけました。
『八百屋お七』を知らない方は、そのものずばりのキーワードでググって頂くと一杯出てきますが、折角なので大筋だけ紹介。
「自宅が火事で焼け落ち避難した先の寺で、超美形の『寺小姓・吉三郎』に一目ぼれしたお七さん。 でも自宅が再建されてつかの間の恋は終わり・・火事になればまた会えるかも・・もう一度会いたい一心で、後先も事の善悪も考えず、あろう事か!自宅に放火してしまったのです!!
当時火付けは重罪中の重罪。死罪、それも火あぶりの刑です。たった一人の大事な跡取り娘。我が子可愛さゆえに親たちは手を尽くすのですが、叶わぬ恋なら死んだほうがまし! という事で、火あぶりの刑にされてしまいます。恋は盲目と言いますが・・・・一途な恋心は哀れではあるけれど、全財産もたった一人の可愛い娘も失って残された二親の気持ちを想うと・・言葉が見つかりません。
あまりにも衝撃的な事件ゆえ、浄瑠璃や演劇界などでは悲劇のヒロインとして一躍有名になったお七さん。
その後、恋人とされた吉三郎は寺にも居られなくなり、お七を弔う旅に出てここ島田の地で病死したと伝えられています。結局関係者全員を不幸にしたんですよ、お七さん!
標柱には【 火と燃ゆる 恋に心も 身も焼きて あわれお七が 灼熱の恋 】

最後は、これも句碑とは関係ないのですが「島田市博物館」に設置された『勝海舟』の銅像。 なぜ島田市で『勝海舟』なのか、これも「牧之原開墾・勝海舟」でググると詳細が出てきます。私などは思わず感動してしまいましたが・・

記事に出来るほどの画像が無いのでその経緯は紹介は出来ませんが、「牧之原開墾」で心に残った一文があります。
「一望千里の荒れ野、磽确(ぎょうかく)不毛、水路に乏しく、民捨てて省みざること数百年」(磽确(ぎょうかく)=石が多く、土地がやせていること。また、そのさま。荒れ地。やせ地)

そこに住まう者にさえ見捨てられた見渡す限りの荒れ地・・・生きる糧を得る為に刀に変えて鋤鍬を握った侍たち。標高40~200mの山肌に沿って幾重にも連なる緑の大地は、今「日本一の製茶地帯」として名を馳せています。

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 


島田宿大井川:川越遺跡 in 静岡県島田市河原

2019年01月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

有名な馬子唄の一節「 箱根八里は馬でも越すが ~ 越すに越されぬ大井川 」。江戸時代初期の慶長六年(1601)、幕府は宿場の制を定め、東海道に五十三次の宿場を置きました。 大井川を目の前にした島田宿は五十三次二十三番目の宿場。寛永十年(1633)に本陣がおかれたのが最初とされています。

江戸時代初期においては、大井川を歩いて渡る徒渉(としょう)は比較的自由であったと言います。しかし幕府の体制が整うにつれ、江戸の防衛重視の為に、自由な徒渉は禁止されてゆきました。

大井川を越える手段は、幕府が公認した馬や人足を利用した川越のみ。大井川の渡しは島田宿と対岸の金屋宿を結ぶ唯一の手段で、まさに交通の要となったのです。

金谷宿川越遺跡跡

架橋はおろか、渡し船も厳禁とされた大井川。その制度は大名・庶民を問わずに適用。 このため、大井川は東海道屈指の難所とされ「~越すに越されぬ大井川」と歌われたのです。当時の幕府にとって、大井川の架橋は決して難しくはなく、また渡し舟の手段も容易に手配できました。しかし大井川をこれほどまでの難所にしてでも、江戸の防衛は重要だったのです。

まずは川越えを管理するための「川会所」が大井川河畔 ・三軒家に建てられ、それによって川越制度を確立します。 元禄九年(1696)には川越賃銭を定め、両橋詰に1人づつ、2人の川庄屋が任命されました。

【川庄屋のもとに年行事・小頭・口取・待川越等の役のものをおいて、日々川の深浅による徒渉賃銭の取りきめや、公家や大名をはじめ各種公用人から庶民に至るまでの通行人渡河順序の割振り諸荷物等の徒渉配分などの円滑な運営がはかられた。】(大井川渡しの歴史より)  川の深浅による徒渉賃は川会所が決め、川越人足が勝手に渡し賃を要求する事は禁止されていました。

渡し賃は予め川会所で川札、または蓮台に載る場合は台札を購入し、料金を払うのが原則。 人足一人を雇うのに1枚の川札が必要で、それ以外に荷物を運ぶ場合は別の人足が必要となります。また蓮台と人は別払いで、一人乗り平蓮台の場合は担ぎ手4人で川札4枚の台札が必要となります。

金谷宿川越し場跡「大井川蓮台越えの図」に描かれている蓮台渡しは、おそらく上の「半高覧蓮台」だと思われます。 前後・左右それぞれに2人の担ぎ手が描かれていますから、川札は八枚が必要ということになります。

「大高覧蓮台」は大名や貴人を駕籠(かご)のまま乗せるもので、担ぎ手は2~30人を要します。 

庶民にとってはそれでも高額であった「平蓮台」が、板に2本の担い棒をつけただけである事を思えば、まさに天地の差。

時代とともに東海道の交通量が増加すると、川庄屋は4名に増やされ川人足の数も増えていきます。 川の両岸にそれぞれ350人と定められた川人足は、幕末には約650人に増えていきました。

おや・・ご亭主殿、その立派な体格(笑)を見込まれたのか、スカウトされたようです。でも、こればっかりはどんなに好待遇を持ちかけられても、この私が承諾しませんからね( ̄^ ̄) 

大井川の徒渉による川越は、明治時代に入って架橋が許され各所に橋が架けられるまで続きました。 そうした橋の中でも特に著名なのが明治12年(1879)に架橋された「蓬莱橋」です。

島田市河原一丁目の地には「島田宿大井川川越遺跡」として復元された町並みが新たな観光名所として人気を集めています。

川越人足は一から十までの組に分けられ、川越人足の詰所でもあった各番宿にて待機していました。現在は三番宿、十番宿が公開されています。

「仲間の宿」は陸取りなどの詰所であり、会合や親睦の場としても利用されていたと言われており、内部は外見からは想像できない広さです。

一見すると商家の見世の間のような拵え。

現在は、復元された「権三わらじ(人足が履いた川越用のわらじ)」が展示されており、こうした技術が今も継承されている事に何故かしらホッとすると言ったら変ですか?

「海野光弘版画記念館」島田市HPによれば「昭和52年にはスイス美術賞展優秀賞を受賞するなど、版画家として第一線で活躍をしながら39歳の若さで急逝した『海野光弘』の作品を数多く収蔵、展示する記念館」と紹介されています。

「八重枠稲荷神社」境内案内に「昔ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から村を守りました。八重枠の名はここからきています。宝暦十年(1760)に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立されたといいます。しかし、ここの神社の祭日は二月の初午の日である事からも建立当時の目的は、川で亡くなった人々の供養が主だったかと想像されます。」

「島田大堤」現地看板には「天正の瀬変え以降島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が慶長の大洪水で決壊し、建設間もない島田宿のすべてが押し流されました。その後大堤完成までの確かな記録は不明ですが~中略~正保元年までには完全な大堤が完成していた事と思われます。~中略~今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守って来た大変重要な大堤だったのです。」

ラストの画像は、街道の左右に設けられた「せぎ跡」。河原の石が積まれ、溝に板を挟んで堤防の役目をしました。この「せぎ跡」より西側は河原です。

2011年に訪ねた島田宿。駆け足で巡った宿場は昼間の明るさを少しずつ失い、もう私たち以外、人の姿も楽し気な笑い声も聞こえてきません。

大井川に沈んでゆく夕日が、早くお帰りなさいと急き立てます。

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 


大井(おおい)神社 in 静岡県島田市大井町

2019年01月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

島田市大井町に鎮座される「大井神社」。御祭神は『弥都波能売神 (みづはのめのかみ)・波邇夜須比売神(はにやすひめのかみ)・天照皇大神』。それぞれに「水・土・太陽」をつかさどられます。

由緒「創建不詳。三代実録巻11に貞観7年(865)『授駿河国正六位上大井神社従五位下』との記載あり。『駿河記』『駿河志料』に、ある時、現在の川根本町大沢村より流されて島田に祀られたとある。建治2年(1276)8月、島田に鎮座の記録が残る。慶長9年(1604)の大洪水で、島田の街と共に大井神社は現在の元島田の野田山へお遷しされ、その後の元和元年(1615)、御仮屋町に還坐。その後、大井神社上流に民家が広がり、氏子からの請願により、元禄2年(1689)現在の御社地に還座。これに伴い、元禄8年(1695)より神輿渡御が行われ、御仮屋元境内は「御旅所」と呼ばれるようになる。宝永5年(1708)正一位大井大明神と奉称、嘉永7年(1854)に勅宣正一位大井神社と改めた。明治5年郷社に、明治41年に県社に昇格、昭和41年7月1日、神社本庁より別表神社に加列、現在に至る。」大井神社HPより

境内入り口より神域を守護されるのは、昭和13年(1938)6月吉日建立の岡崎型狛犬さん一対。写す位置の所為なのですが、吽形さんの表情が思慮深く優しそうで、岡崎型としては珍しく好みかも(〃∇〃)

参道より拝殿

「大正八年 明治神宮造営御用材の一部下賜を得て、総桧造にて造営」

拝殿前左右より神域を守護されるのは、1998年8月1日建立のブロンズ製の神殿狛犬さん一対。堂々とした顔立ちは三女神の鎮まる地を護るに相応しいお姿。

透塀の内に鎮まられる、文久三年再建の御本殿。

「双竜の清水」

「大井神社の最も古い信仰は、大井川より発生した土地生命を護る水神信仰です。拝殿脇のこの手水は境内地下より汲み上げた清らかな水を使用しております。」

今年の豊年満作 一粒萬倍を祈る「田のかんさぁ(田の神様)」

田を起こし米を育てるお百姓様、収穫したお米は大切に米蔵に納められます。

しゃもじとお椀を持つ神様・・この優しい素朴な神の姿に手を合わせ、人々は豊作を祈ってきました。

神井戸の上に鎮座される「祓戸神社」『清め祓いの神』を御祭神とします。

神井戸より汲み上げられる御神水

「福寿の手水鉢:江戸時代享保年間、武州多摩川の崇敬者の奉納した手水鉢」

拝殿向かって左手に鎮座される「大井天満宮」。御祭神は『菅原道真公』

「春日神社」。御祭神は『春日神

「静霊(しずたま)神社」

『国の為に亡くなられた島田市出身の英霊千九百余柱を祀る。』

私たちは、皆様方の尊い命の上にこうして今この時を過ごさせて頂いています。その事を決して忘れないように・・心から感謝を込めて「有難うございます」

「崇敬子来之碑」 「日清・日露戦慄紀念の碑」

「大井恵比寿神社」

出雲大社より『大国主神(大黒様)』、西宮神社より『事代主神(恵比須様)』の御分霊をお祀りしています。

「大井神社・最古の奉納燈籠:寛文三年(約三百四十年前)」

「大井社 元禄二年社号標:元禄二年(約三二〇年前)この年に大井神社は元社地 現御仮屋御旅所より当地に還座島田宿の中心に氏神として鎮座し広く信仰を集め崇敬された」

「大井大明神 奉献燈籠壱対 元禄十六年(1703)約三百年前建立」

江戸時代建造の常夜燈籠、長年の経過による損傷の為一旦解体、島田の宮大工佐野覚氏によって、2004年に再建されました。

「石の太鼓橋・江戸時代正徳三年(三百年前)神輿の渡御の為に造営。両脇の平橋は安政三年(一五〇年前)川越連中が奉納した。」

拝殿から裏参道へと向かう屋根つきの回廊。大井神社の結婚式場「宮美殿」へと向かう、佳き日の通路として使われます。 

幸せに包まれた新郎新婦が見るのは、鮮やかな緑に映えて美しい朱の太鼓橋と「御神池」。豊かな水をたたえた「御神池」は、大井神社大祭:鹿島踊り奉納時の進路にもなっているそうです。

回廊の灯篭には「丸千木(まるちぎ)」の御神紋。丸千木は、島田に流れ付いた二体の御神体がx」の形で河原にひっかかっていた事からと云われています。

「安産祈願の帯塚」

社務所

社務所屋根 留め蓋飾り瓦の玄武

「大井神社:絵馬・島田の帯祭」

奉納「大奴:鹿島踊りブロンズ像」

参拝日:2011年11月14日&2016年12月12日

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御神名一口メモ

『弥都波能売神 (みづはのめのかみ)』、「日本書紀」では『罔象女神』と表記。神生みの終わりに生まれた火を鎮める水神。豊穣をもたらす農耕神。

『波邇夜須比売神(はにやすひめのかみ)』、「日本書紀」に「土神を埴安神と号す」とある。神生みの終わりに生まれた土の神。作物を育む農耕神。

 


神(みわ)神社 in 静岡県藤枝市岡部

2019年01月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

藤枝市岡部町三輪に鎮座される「神(みわ)神社」。御祭神は『大物主神(おおものぬしのかみ)』「美和天神」とも称され、「駿河国神名帳」には「三輪明神」と記載される古社。『大物主神』は、『大国主神』の「和魂(にぎみたま)」とされ、他にも『八千矛神・三諸神』等々・・多くの名を持ちます。
相殿に『天照大神・葛城一言主神(かつらぎひとことぬしのかみ)』

山沿いの12月は、日の落ちるのが予想以上に早すぎて、写真だけ見ると夜の参拝のようですが、これでもまだ4時半過ぎ。 きっと御朱印もいただける筈と、急いで車を飛ばしたのですが・・(^^;)
御朱印がいただけなかった事は残念でしたが、灯りの入った拝殿はとても神々しく、鎮守の杜を背景に境内全部の気が澄み渡り、独特の静謐感に満ちています。

由緒【皇極天皇三年(644年)四月中の牛の日、東国に疫病が蔓延 して人民が苦しみあえいだ時、先の崇神天皇の御代の吉例に倣って、大和国三輪山大物主神を【意富多多根古命二十六代の子孫三輪四位』を神主としてこの地に祀り、大難を救って戴いたのがこの神社創祀 の由来である。】

拝殿の後方、石垣の上に本殿が鎮座しているという事で、早速拝殿の右がわに。

ご本殿は文化八年十月の建立とあり、華美ではないですがすっきりと美しい姿を見せています。

本殿の右手には、白木の三ツ鳥居。鳥居の向こうは時間の所為も合って深く暗く・・、何となく立ち入ってはいけない場所に思えます。
由緒に寄れば【当神社は古来本殿がなく、三ツ鳥居の奥が古代の斎庭であった。今でも例祭など主な祭りには、お山に五対の御幣(おんべい)を立て、本殿と同じ神饌を上げて祀る古代祭祀の姿を残している。】(祭祀は岡部町民俗無形文化財の指定)

杉之坊舎参拝所

こちらの神社には守護の神獣はいないのかと思われては心外(笑)ですので、『大物主』ではピンとこなくても、『大国主』と言えば直ぐに思い浮かぶのが因幡の白兎。 一対の小さな神兎さんが、体の十倍以上はありそうな注連縄を首にかけられて健気に神域を守護されています(*^^*)

参拝日:2016年12月11日

 


大旅籠:柏屋歴史資料館 in 静岡県藤枝市岡部

2019年01月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

藤枝市岡部町岡部に今も残る、東海道岡部宿を代表する大旅籠のひとつ「大旅籠柏屋」。 江戸時代に建てられた建物は、それ自体が資料館ともいえるもので国登録文化財に指定されています。

建物内には、店の間、台所、1、2階の客室などがあり、部分的な改修を重ねながらも、180余年にわたり往時のたたずまいを伝えてきました。

期待に胸を膨らませて玄関を入ったところで、係りの方に「今日は休館日です」と言われ、二人とも茫然自失! たまたまこの日はステンドグラスの作品展示の為に、玄関を開けていたとか・・本当に言葉をなくすくらいのショックでした。
ところが私たちが遠方から来たとわかると、中を見るだけならと館内に入れて下さったのです。 そのときの驚きと喜びは何年たっても忘れがたく、思い出すと胸が熱くなります。

当時の旅籠の様子が再現された客室で、旅の疲れを癒す等身大の人形たち。女中さん相手に旅先でのあれこれを話す旅人、そんな話に時折相槌を打ち、酌をする女子衆。 賑やかな笑い声が聞こえてきそうな場面ですが、今の私たちは、とにかくひっそりと、静かに・・(決して強要された訳ではありません)

街道の様子を再現したジオラマは、一目で当時の様子が見て取れ、とても興味深い展示。 旅籠の様子から道を急ぐ旅人まで。男も女も厳重な旅の拵えで、日が落ちないうちに難所とされる宇津峠を越えようというのか、急ぎ足。

じっくりと見れば、どれもこれも興味深い歴史的な資料ばかりですが、何しろご好意だけで見学させていただいている身。なるべく時間をかけないように、静かに急いで・・それでも思わず足を止めて見入ってしまう資料が並んでいます。

おそらく館長さんのご好意でしょう。館内には電気がつけられ、見学に不自由はありません。

特別な客室だったと推測される重厚な部屋。

重ねた年輪の手触りまでもが伝わってきそうな、巨大な松の水墨画。

往時を思わせる高い天井には太い梁がめぐらされ、さすがはと納得する「大旅籠」の貫禄。

まるで精巧な幾何学模様を見ているような梁の様子、上から見下ろす事も出来ます。

土間に設けられた井戸。

手入れの行き届いた和風庭園が美しい離れも、外観だけですがこうして見ることができました。

土間を抜けて裏手には江戸期と明治の二つの土蔵があり、ギャラリーなどに利用されています。顔出し看板の二人は『弥次さん・喜多さん』。 実在する人物では有りませんが、東海道といえば「膝栗毛」。

中学生の頃だったと記憶しているのですが、『十返舎一九』「東海道中膝栗毛」。その軽妙な語り口が面白くて、図書館の貸し出しでは飽き足らず、お小遣いを貯めて買い求めたものです。

かの有名なお二人は玄関を入った土間にもいて、なんと一緒の記念写真まで撮っていただきました。 こうして画像を見返すとあの日の思いがけない親切が心に染み入り、胸が温かくなります。

今更ですがあのときのお心遣いと優しいお申し出、本当に、本当に感謝に耐えません。 こんな小さなブログの中ですが、改めて「ありがとうございました!! 」

訪問日:2011年11月14日

 


飽波(あくなみ)神社 in 静岡県藤枝市

2019年01月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

藤枝市藤枝に鎮座される式内社「飽波(あくなみ)神社」。別称「川関(かわせき)大明神」とも称します。

御祭神は『少彦名命(すくなひこのみこと)』。配祀、『瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)、蛭子命(ひるこのみこと)、天忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)』。『瀬織津姫命』は水神・祓神・瀧神・川神としての面を持つ女神で、龍神の后神とされます。

由緒に【当神社は古墳時代第十六代仁徳天皇六年十月(316年)、飽波郷(旧藤枝一円)の鎮護の神としてお祀りされた、志太平野で最も古い伝統のある神社です。 御祭神『少彦名命』は、『大国主命』と共に日本の国を開き産業を進め、医薬の術 を教え、人々にさまざまな智恵を、授けるなど幸福をもたらす神様です。 昔この山裾の小石のまわりから清らかな水がこんこんと湧き出て諸病の霊験があったと 伝えられ人々に命の水を恵み、又瀬戸川の水害から護って下さることから「川関大明神」とたたえられ「沸波神社」とも称せられました。】

由緒にある命の水は現存しませんが、伝承では泉の中央に丸い石があり、湧水の上では小石がおどっていたと云い、「湧波の池」とも「湧玉の池」とも称したと伝います。昭和49年、社務所建設と同時に境内に氏子の奉納による池が作られ、改めて「湧玉の池」と命名されました。

水難除けとしても名高い神社の御神紋は「波巴」、文字通り、波で描かれた三つ巴紋。 巴紋は八幡宮の社紋として有名ですが、このように波を使って描かれた紋はこの時が初見。

拝殿下、石段参道の左右より神域を守護されるのは、 強面系で名を馳せた(笑)昭和8年建立の丹後系狛犬さん一対。藤枝町時代の「料理業組合」の奉納。一見強面なんですが、じっと見てると実はすごい愛想良し(^▽^)/

境内の右手にある鳥居の奥。左側の「七ツ森神社」には、「熊野社・諏訪社・泉社・進雄(すさのお)社・藤森社・作神社・七ツ森社・秋葉社」

「七ツ森神社」の右側には『金山彦命』を御祭神とする「金山神社」が祀られています。

今日の参拝でとっても印象に残ったのは、社務所前に奉納されていた沢山の怪獣や恐竜たち。 素材は鉄鋼のようですが、これがとてもよく出来ていて、思わず三人とも童心に返って(笑) 特に、狛犬さんの下に並んでいた阿吽の龍、正直言って狛犬さんよりも迫力満点。

恐竜たちを前にファイティングポーズをとる友人Jさん(^_^;)。このノリの良さは流石、私の友人(笑)

最後は境内の一角に建立されていた「針塚」

参拝日:2016年12月12日

 


焼津(やいづ)神社~其の二 in 静岡県焼津市

2019年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に引き続いての「焼津(やいづ)神社」は、境内者、末社等々の紹介。拝殿から少し離れた「焼津御霊神社」。人の姿は無く、とても静かな空気の中で参拝させて頂きました。 祀られているのは「西南戦争から第二次大戦までの国難に殉じた焼津市出身の2,500余柱の英霊」。日の本の光よ、御霊にあまねく降り注がれますように・・

末社「七社合殿」には、左より「春日社・橘姫社・八幡社・天王社・
稲荷社・竃神社・浅間神社」

末社「稲荷神社」、御祭神は『宇伽之御魂(うかのみたま)』

境内一画に建立されていた石祠と碑

同じく境内に建立されていた「誠心照萬古」碑。 “誠の心から出た行いは、永遠に光り輝くものである”

参拝日:2016年12月11日

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焼津神社の飛地境内社「須賀神社」。御祭神は『須佐之男命、奇稲田姫命、大巳貴命』。地元の方からは『須佐之男命』に合わせて「おてんのうさん」と呼び親しまれているようです。

鳥居の中から枝を広げ神域を守る黒松は、昭和53年に焼津市の保存樹として指定。

社殿はささやかですが、清潔な境内の空気からは、地域の方に大切にされていることが伺えます。

拝殿前左右より神域を守護されるのは何ともユニークな顔立ちの狛犬さん一対。

阿形さんのお顔を見てると「頑張ってる!」よりも、この場所にいる事が楽しくて仕方ないような(笑)

頭上に角を持つ吽形さんは、阿形さんの分も頑張らなければと、笑いたいのを必死で我慢して歯を食いしばっていますよ(-_-;)

小さな飛び地の境外摂社ですが、ここにも末社である「天白稲荷大明神」が祀られています。 農耕民族である日本人にとって、穀霊神・農耕神である稲荷信仰の凄さ、改めて感じさせられます。

参拝日:2011年11月14日

 


焼津(やいづ)神社~其の一 in 静岡県焼津市

2019年01月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市焼津に鎮座される式内社「焼津(やいづ)神社」、式内社で、旧社格は県社。旧称を「入江大明神(いりえだいみょうじん)」と称します。

主祭神は、第12代景行天皇の皇子『日本武尊(やまとたけるのみこと)』。相殿神として、日本武尊の東征に従った従者『吉備武彦命(きびたけひこのみこと)・大伴武日連命(おおとものたけひのむらじのみこと)・七束脛命(ななつかはぎのみこと)』

社伝に、【景行天皇(第12代)40年7月に日本武尊は東征に際して当地で野火の難を逃れたとし、のち反正天皇(第18代)4年に、日本武尊の功徳を敬って神社が創建されたとする。】

流造の本殿は、今から約400年前の慶長8年(1603)に徳川家康によって建てられたもの。御神体は「火石」と「水石」であると伝えられ、伝承によれば、日本武尊が水石と火石を投げた所、1つがこの社に、もう1つは熱田神宮に落ちたと伝えられています。

参道には、ご祭神である『日本武尊』の像が建立されていますが、私的にはこのお姿と顔は・・・・・何と言うかちょっとばかし微妙。
自称『日本武尊』ファンクラブの「会長」兼、「広報部長」兼、一般会員の私(笑)。 その私が断言しますが、もう少し凛々しく、もっと気高い感じでも良かったのでは!!

銅像と言えば、境内には八咫烏を杖に止まらせた「神武天皇:像」。『大正天皇』即位の御大礼にあわせて、商店街に建てられ「神武通り」の由来となった銅像。戦時中には人々の協力によって供出を免れ、戦後に焼津神社に移されました。

「駿河国式社備考」に焼津神社の元社との説もある「市杵島姫命社」。 御祭神は『市杵島姫命』

境内社「焼津天満宮」。御祭神は『菅原道真公』。 この画像ではほとんど見えませんが、社殿の隣には「東風吹かば~」の歌碑も建立されています。

さらに、天神さんと言えば、何と言っても神牛さん。撫で牛とも称されており、参拝者の誰からも親しまれる存在。

さらに(笑)天満宮と言えば「筆塚」。流石は学問の神様、三筆の一人とされる『道真公』。 

絵馬には、白梅の枝を愛でながら短冊を手にする「文官束帯(ぶんかんそくたい)」姿の『道真公』。

境内には他にも末社や石碑などがありますが、続きは明日に。

参拝日:2016年12月11日

 


焼津千手(やいづせんじゅ)大観音 in 静岡県焼津市

2019年01月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市大覚寺に門を構える「大覚寺全珠院(だいかくじぜんじゅいん)・焼津千手((やいづせんじゅ))大観音」

御朱印の受付場所には、「大切なお帳面に直接お書きできるのは修行を行った住職か副住職のみ」と但し書きがあり、不在の際は「朱印紙」でのお渡しとなる旨の記載がありましたが、有難いことに美しい御朱印を直接頂けました(某有名寺社で、判子押しときました~ああ、押しといて」「代わりに書いといたでぇ~。構わん構わんと、御朱印を待っている本人の前で平気でこんな会話をされた経験がある身には、この但し書きは真摯なお気持ちが感じられて有難さが心に染みました。)

入り口から続く境内はとにかく明るく広い・・・これまでの寺院という観念が覆りそうなくらい広々として、まるで公園のような佇まい。

「開創と歴史」朱色に白文字という由来板も珍しく、何となく場違いだったかと思いつ・・・。
【神話のヤマトタケル東征の舞台ともなった焼津。嘉祥三(850)年、嵯峨天皇御領、入江荘を開き、伝弘法大師作薬師如来を本尊として真言宗大覚寺が開創されました。現在の「焼津市大覚寺」の地名としてこの地に残っています。たび重なる天災地変を受け大覚寺の法灯は永延二(998)年、荘園郷主大覚寺屋敷「本家 槇田家」の菩提寺として天台宗善修庵にひきつがれ、弘治三(1553)年曹洞宗全珠院に改められ、今日までの法灯を伝えています。】

という事で、決して昨今、巷に出没する怪しげな宗教施設でないことは確か。こんなことを思うなんて罰当たりとお叱りを受けそうですが、本当は誰もそんな事思いたくはない。でも・・悔しい事にそんな場所が増えてしまった事は事実なのです。
清潔な石畳の参道を進むと、今時と伝統的が融合したような鮮やかな朱の観音殿が見えてきます。

かっての本尊は「伝弘法大師作・薬師如来」でしたが、2003年に千手観音が本尊となりました。 由来書によれば【それは槇田家三十二代目夫人の未来千年の幸福を祈って千年続く仏像をつくりたいとの発願からはじまりました。 著名な大仏師、渡邊勢山氏が、樹齢三百年~四百年の木曽ヒノキを使って造仏。水中乾燥法などの古来の技法や、漆塗りで材の強度を増し、さらに手打ちの金箔で漆を保護しているため、千年の歳月に十分耐え得るものです。 複雑な構造をもつ千手観音像には大仏造立の例がほとんどなく、従来は、鎌倉時代の仏師・湛慶の作で知られる京都三十三間堂の丈六千手観音が最大のものでした。 したがって、この像高4.2メートル、仏頭1.8メートルの仕上がりは、じつに750年ぶりに出現した大仏様式で日本一大きな千手観音です。】

眩しいばかりのお姿は、見るものを圧倒させる力があり、私のような者でもしばし言葉を失います。見るものの心しだいで、それは慈悲にも励ましにも叱咤にも姿を変えて語りかけてくるような・・・悠久の年月を経てきた御像は人の祈りや願いを一身に受け止めて尊くも美しい。そしてまた、精魂込めて生み出された御像も、何百年と受け継がれるであろう人々の祈りを受けて尊く気高い存在へと昇華していくのです。

絵馬には太平洋の荒波をバックに美しく聳える富士山と、千手観音のお姿が描かれています。 

参拝日:2016年12月11日