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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

浜岡砂丘 in 静岡県御前崎市

2019年02月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

南遠大砂丘の一部で、御前崎遠州灘県立自然公園・第2種特別地域に指定されている「浜岡砂丘」。遠州の空っ風が創り出す、太平洋側最大級の砂丘。パンフレットによれば、鳥取、吹上と並び、日本三大砂丘のひとつに数えられているそうです。

という事は私たちってば、実際に三大砂丘の二つを見たという事に・・三大とか三景とか三川とか「三」のフレーズが付くと何故か「凄いのかも・・」と思ってしまう単純な私たち(笑)鹿児島県の吹上砂丘は流石に行く事は無いだろうけど、でもまぁ、二つ見られたら上等じゃない(⌒∇⌒)

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他に観光客の姿も無かったので、風紋に沿って歩いたり、二人の影を写して遊んだり・・ひたすら遠州灘から打ち寄せる波の音に耳を済ませたり。

観光客でごった返す観光地は苦手ですが、ここまでひっそりされると、いささか拍子抜け(笑)

なんて身勝手な言い分なんだとお互いを笑いつつ、海と砂が生み出す綺麗な景色を堪能。 砂丘の前に広がるのは、時間の概念さえも忘れてしまいそうな、まぶしいばかりの遠州灘です。

じっと見つめていると、あのまぶしい光の中から何かがやってきそうな・・

・・・って、もうず~~~~と昔にあったよね、そんなアニメ(笑) そして二人、思わず口をついて出るアニソン【♪ 水平線の終わりには~ああ~あ~、虹の橋があるのだろう~~♪ 】

水平線の向こうからやってくるのは「海のトリトン(古!)」ですが、ここでは「波小僧くん」。 浜岡砂丘の入り口には、遠州七不思議の一つ、「遠州灘の海鳴り・波小僧」の像があります。

その昔、漁師に捕えられた波小僧は自分を海に帰してくれたら必ず恩返しをすると誓って、無事に海に帰してもらいました。それ以降、天気が急変する前には大きな音を響かせて、危険を知らせてくれるようになりました。以来、地元では、天候の変わり目に突然鳴り出す遠州灘の海鳴りを「波小僧」と呼ぶそうです。(浜岡砂丘は逆光の為、近くの「すかの橋」の波小僧)

砂丘から見える二基の風力発電機

そう言えばここに来る途中、車の中から見た山の上に「御前崎風力発電所」が見えてたね。

のんびりゆったりの浜岡砂丘。昼食は砂丘入り口近くの東屋でとりましたが、そこで沢山のネコさんたちに出会いました。綺麗な毛並みをしていたので、きちんとお世話されているのだろうと思います。人懐こく見上げる様子、僅かばかりのお魚の切り身を美味しそうにに頬張ってくれて、私を見上げてくれたあの姿が今も忘れられなく・・・どうか達者で、穏やかに天寿を全うしてくれと願うばかりです。

訪問日:2011年11月15日

 


服織田(はとりだ)神社 in 静岡県牧之原市

2019年02月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

牧之原市静波に鎮座される「服織田(はとりだ)神社」

御祭神は『天八千千比賣命(あまのやちぢひめのみこと)、麻立比古命(あさたちひこのみこと)』
さらに、『蛭子命、天之忍穗耳命(あまのおしほみみのみこと)、市杵嶋姫命、木花咲夜比賣命、速玉男命、猿田彦命、石長比賣命(いわながひめのみこと)、大山祇命、少名比古命』を合祀。

ニの鳥居左右より神域を守護されるのは、いわゆる岡崎型の狛犬さん一対。 狛犬さんの画像が無い所を見ると、かなり新しいもの故にご亭主殿からパスされたと思われます。

由緒【服織田神社は延喜式神明帳に記載されており、 景行天皇の七年に勧請され上古は圭田を賜った。往古 は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八 年の検地帳に記載されている。安政元年の大地震直後 建立、明治六年三月郷社に列せられた。】

コンクリート造りの拝殿。

ところで、静岡県内の神社の多くの御神木には「御神木指定証」なるものが沿えられています。ここでいうところの「御神木」の定義なるものが今ひとつ理解できないのですが・・なんと!審査委員会の会議まであるらしい。

最後は境内で見つけた句碑、作者の名は見忘れたのか、無かったのか・・不明。

【 楠(くす)薫り はた織る姫の 偲ばるゝ 】

参拝日:2016年12月12日

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御神名一口メモ

『天八千千比賣命(あまのやちぢひめのみこと)』、 桑の木を天香山に植えて養蚕し、その糸で天照大神の衣を作った神。

 


大頭龍(だいとうりゅう)神社 in 静岡県菊川市

2019年02月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

菊川市加茂、小高い丘の上に鎮座される「大頭龍(だいとうりゅう)神社」。御祭神は『大物主大神・大山咋大神・出雲龍神』

文政7年(1824)に建立されたという高さ6.0mの青銅の鳥居(菊川市指定文化財)。 幅は笠木の部分で7.5mもあり、静岡県西部に現存する江戸時代の青銅鳥居としては最大級。 楔(くさび)が左右非対称という特徴を持ち、柱には建立費用を寄進した人たちの名前が刻まれています。

朱塗りの拝殿は宝暦13年(1763)、拝殿の後方に見える本殿は、文化11年(1814)の建築と云われ、同時期に弓矢の奉納が行われていた記録も残されています。

【往古より加茂村の氏神にして御山を祭り、寶祚延長天下泰平國家安穏の幣、氏子安全の幣、家内安全の幣を御山に建て今に至る。其数二萬餘本に及ぶ。口傳によれば桓武天皇延暦11年の創建と傳へらるる】由緒より

拝殿懸魚の「龍」は、御祭神の「出雲龍神」にあやかったものでしょうか? 宝暦13年と言えば250年も前ですが、鮮やかな緑と大きな目玉の所為か、とても新しく見えます。

拝殿内の一等目立つ場所に架けられていた奉納絵馬、描かれている立派な橋は何処? 何かの儀式、それとも祭りの風景? 静岡県内なら蓬莱橋が直ぐに思い浮かぶのですが・・。橋の周囲には沢山の舟の姿も見られます。

拝殿の前に置かれていた注連縄が巻かれた「木」。 もしかしたら御神木だったものが枯れてしまったので、根元部分だけ残したのか・・また一見すると金精様(良い子は検索注意)のようにも見えますが、とりあえずここは謎とします(笑)

拝殿の前で大きく両手を広げていた御亭主殿。何事かと聞けば「なんか物凄く気持ちがいい」。きっと御祭神が歓迎して下さったのかもしれないね(^-^)

拝殿前より神域を守護されるのは、昭和3年建立の岡崎型の狛犬さん、石工・青木の名があります。

狛犬阿形さんの横に建立されていた「聖徳太子」碑。

参拝日:2011年11月15日


龍眠(りゅうみん)寺 in 静岡県掛川市旧大須賀

2019年02月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

掛川市西大渕に門を構える曹洞宗高草山林叟院の末寺「平等山・龍眠(りゅうみん)寺」。ご本尊は『聖観世音菩薩』。 遠州三十三観音霊場の11番札所であり、横須賀藩主・西尾氏の菩提寺としても知られています。

【龍眠寺は山号を平等山と称し(又の名を安穏山)焼津市坂本の曹洞宗・林叟院の末寺である。草創は103代後土御門天皇在世の明応5年(1496)、樹木ヶ谷(現沢上町)の地に、開祖大樹宗光禅師の初開道場として建立。今から500有余年前、先師賢仲繁哲禅師を勧請開山とした。爾来寺は横須賀2代城主大須賀出羽守忠政母堂追福の為、一宇の建立を念じ現在地に寺領を賜り移築した。寛永10年(1634)不幸にして山火事により、堂宇、古文書、宝物など全て焼失したが、寛永18年(1641)に再建。】縁起より

季節がよければ、春には桜が、初夏には新緑の緑が、秋には美しい紅葉が見られる山門ですが・・ 12月も半ばのこの季節では、寒々とした木々の枝が冬空の寒風に時折しなって震えるだけ。

そんないかにも寒そうな山門の上ですが、留め蓋の獅子たちは元気一杯に玉にじゃれています。 阿形さんは「おいでおいで」と手招きするように。

吽形さんは誰にでも愛想を振りまく阿形さんに、ちょっとご機嫌斜めのご様子(笑)

参道をまっすぐに進むと、昭和56年(1981)に新築・再建された本堂が出迎えてくれます。

堂内には、かって門前先にあったという十王堂の、『閻魔王』や十人の王たちが祀られています。台座の所為かもしれませんが、まるでお節句のお人形様のように見えて、怖さは有りません。

こちらは『閻魔王』の本地仏のお地蔵様でしょうか? お地蔵様なのにお顔が怖く見えるのは、その所為? 

境内の向かって左手に建立されていた「地蔵堂」。かたわらに建てられていた鳥居がどこの為かは不明。 堂内には沢山の絵馬と共に水子地蔵が祀られ、また多くの地蔵菩薩像が祀られています。

御詠歌 【よのなかは  きよくくらせや  あんのんに  ほとけのおしえ  まもるしあわせ】 

下の歌碑は、上記の御詠歌とは関係なく本堂を背にして建てられていたもの。 歌碑の文章も、この歌を読まれた方も一切不明ですが、見た景色の一つとして。

参拝日:2016年12月15日

 


三熊野(みくまの)神社~其の二 in 静岡県掛川市旧大須賀

2019年02月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に続いての「三熊野神社」、今日は参道入り口から一の鳥居を見ながらのスタート。画像の左手・手前に見える小さな屋根は鞘堂と呼ばれるもので、中には龍燈と呼ばれる秋葉山常夜燈があります。

拝殿の前より神域を守護されるのは、建立年代不明の岡崎現代型狛犬さん一対。

狛犬さんの台座に刻まれているのは、三熊野神社の御神紋「右三つ丁子巴」。 余談ですが、「丁子」はフトモモ科の植物の名でグローブともいいます。開花前の花の蕾が釘に似ていることから、釘を意味する「丁字」から「丁子」という字となったとか。

ご亭主殿の大好きな造詣に、屋根の魔除け・装飾として作られた鬼や神獣、仙人や神々があります。 三熊野神社の本殿脇には、旧社殿のものと思われる「飾り瓦・鬼瓦」が展示されています。

経巻き瓦の造詣は「粟穂に鶉(うずら)」。この構図は特に立川流が好んだと言われる題材だそうです。

こちらの瓦には不思議な逸話があり、最初鶉だけを描いたところ、鶉は夜な夜な落ち着かず鳴くばかり。 そこで鶉が好きな粟の穂を描き足したところ、不思議なことに鶉は鳴き止んだといいます。 そんな逸話が残っているのなら、この瓦を作った鬼師もおそらく名のある人物でしょう。

次の飾り瓦に刻まれているのは、書物を手にして鶴に乗る仙人。筆をつい舐めてしまう仙人。その仙人を見上げる鶴の表情が何とも可愛い。

まるで可愛いペットをあやすかのような仕草で双龍を愛でるのは、仙人?それとも鍾馗様? 鯉に乗った仙人や馬に乗った仙人は飾り瓦で見たことがありますが、この組み合わせは初めて。

そして飾瓦と言えば留め蓋の神獣。見返る獅子の何ともユニークな事。御亭主殿も大満足(^-^)

小さな鳥居の先には、筆塚と『天満天神』を祀る「天神社」『奥野左衛門是吉卿』を祀る「奥野神社」が鎮座。

「平安建都1200年」碑は、京都・祇園祭の後祭り「花笠巡行」に、三熊野大祭の山車が招かれた時のものです。 280余年の伝統を誇る祭りの「祢里(ねり)」が、初めて横須賀の地から外へ出たことを記念して建立されました。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月15日

 


三熊野(みくまの)神社~其の一 in 静岡県掛川市旧大須賀

2019年02月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

掛川市西大渕に鎮座される「三熊野(みくまの)神社」

御前崎市の「高松神社」、掛川市の「小笠神社」とともに、「遠州の熊野三山」として崇敬を集めています。

御祭神は『家津美御子神(けつみみこのかみ)、伊邪那美神、事解男神(ことさかおのかみ)』。 『家津美御子神』は樹木を支配する神とされ、また『素戔嗚尊』の別名であるともいわれています。

由緒【文武天皇の皇后、紀州熊野大社ヘ「安産にて皇子誕生せば、東に三つのお社を建てまつり、日夜敬い申し上げる」と神前に誓われ、無事御安産(後の聖武天皇)あらせられ、そのお誓いにより大宝元年(701)熊野三社即ち熊野本宮大社を当横須賀の地に、熊野那智大社を 小笠山(現小笠神社)、熊野速玉大社即ち新宮を高松(現高松神社)の地に遷座された宮にて、御鎮座と共に朝廷より神領として笠原の庄を賜る。】

諏訪立川流『立川和四郎冨昌』の娘婿、『立川昌敬』が棟梁を務めた御本殿は県指定有形文化財。 残念ながら本殿は高い囲い塀の中、立川流の真骨頂ともいえる華麗な彫刻を見る事は叶いません。

2011年の参拝では時間的にアウトだった拝殿内の絵馬、5年後にやっと見る事が叶いました。 この絵は、第七代横須賀藩主の『西尾忠受(たださか)』が、自ら筆を取って描き奉納したもの。

弘化四丁未年二月吉日奉納の文字が読み取れる絵馬。他にも奉納された絵馬44点は県・市の有形文化財の指定を受けたもので、いずれも見応えのあるものばかり。そこだけで有に30分は費やしそう・・ 

また、本殿の彫刻は拝見できませんでしたが、拝殿にも時を忘れて見入る彫刻が沢山施されています。

拝殿唐破風下の懸魚に施された「八咫烏」。一番の特徴である3本の足が丁寧に彫られており、足はそれぞれが天・地・人をあらわします。

拝殿正面の蟇股には「波間を見下ろす八咫烏」。「八咫烏」は熊野三神にお仕えするもの。「八咫」とは大きく広いという意味を持ち、太陽の化身であるとも言われています。
熊野三山本宮の神紋として知られますが、サッカー日本代表のシンボルマークとしても有名ですね。

寺社彫刻と言えば、何と言っても外せないのが木鼻に施された獅子や漠・像の彫刻。 どこのも同じに見える・・と言った人がいましたが「とんでもない!」、実に個性豊かなのです。

まだまだ面白い素敵な見所が一杯の「大須賀・三熊野神社」、続きは明日のブログで(*^^*)

参拝日:2011年11月16日&2016年12月15日

 


大日本報徳社と掛川城 in 静岡県掛川市

2019年02月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

明治初期、『二宮尊徳』の唱えた報徳思想の普及をめざして設立された「大日本報徳社」。 その建物が、かって掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地しています。
【「報徳」とは、彼が生涯の生活と体験を通じて社会道徳の規範を考え、人間として社会生活を行うための行動の基本となるものをつくり、自ら実践し、それをそのまま雛形として後世に伝えられたものです。】公式HPより

明治42年に建設された花崗岩製の正門には、右に「道徳門」、左に「経済門」の刻。「天地の徳に報いるには、内にあっては天賦の良心を養成(道徳)し、外にあっては、天地の恵みである作物の育成を助ける(経済)ことである。」という『二宮尊徳』の教えに由来。

門から見える大講堂は、明治36年4月に竣工されたもので、国の重要文化財に指定。 建物は木造2階建て・入母屋作りで屋根は瓦葺き、窓の上部が半円形で、装飾が施された円柱があります。

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「仰徳学寮」は明治17年竣工の有栖川宮邸の一部で、後に霞が関離宮の一部として使われました。大正13年からは、帝室林野局仮庁舎として使われ、昭和13年に大日本報徳社に移築。

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掛川に来たのに掛川城に行かないなんて・・とかなりブーたれましたが、2011年のこの時は時間切れで、太鼓櫓を横目で眺めただけで終わり。

2016年、五年越しの希望が叶って訪問した「掛川城」の筈でしたが・・・このときも外観の見学のみ (^^;) 色々と理由はあったのですが、兎にも角にもこの時は二人旅では無いので・・(´;ω;`)ウッ…
・・数分間の下車の間に、城の遠望とその周囲を写真に収めるにとどまりました。

掛川城は室町時代中期に、駿河の守護大名『今川氏』が築城させたと伝えられています。 明治維新に廃城となりましたが、1194年に日本初の「本格木造天守閣」として復元。

大手門は天守閣に続いて復元されたもので、重厚な桜門造りの木造日本瓦葺き入母屋づくり。 白壁に板ひさしが配されており、棟上にはシャチ瓦が飾られ、勇壮な構えとなっています。

門の内に展示されていた石は1993年の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」の一つ。 大きくて重量のある門が傾いたりしないように、基礎工事には工夫が凝らされていたようです。

江戸時代末期に建てられた番所は、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所として使われていました。 現在の建物は、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再現されたものです。

車に戻る寸前に見かけた『一豊と千代』の顔出し。まぁ、せっかく見つけたものです!とりあえず写真に残しておかねば(笑)
天正18年(1590)、『徳川家康』が江戸に入ると、掛川には『山内一豊』が5万石で入封。 城主となった『一豊』は城の大改修を行い、このとき現在の形となる三層の天守が造られたそうです。

息を切らしながらデジカメに収めた掛川城遠望と、付随する周囲のあれこれ。写真を見返して「ああ、あそこはこんな風だったのか」と改めて懐かしんでいます。 東名高速道路「小笠PA」の記念スタンプは、復元された掛川城天守閣。

訪問日:2011年11月16日&2016年12月14日

 


事任(ことのまま)八幡宮 in 静岡県掛川市

2019年02月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

掛川市八坂に鎮座される「事任(ことのまま)八幡宮」。遠江国一宮で式内社とされています。

御祭神は、言霊の神とされる『己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)』。 社殿内に『息長帯姫命 、誉田別命、玉依比売命(三柱合わせて八幡大神と総称)』を配祀。

【創建年代は不詳ですが、大同2年(807)、坂上田村麻呂が勅命を奉じて、当社を再興したと伝わっています。それまでは本宮山にお祀りされていましたが、この年に本宮山より今の地(里宮)に遷座されたようです。もちろん現在も本宮山では、小さな祠でお祀りされています。醍醐天皇の御代に選上された「延喜式神名帳」には、遠江国佐野郡四座の1つとして「己等乃麻知神社」があげられています。】神社HPより

更に【平安時代後期に八幡信仰が広まると、康平5年(1062)、『源頼義』が「石清水八幡宮」から八幡神を勧請し、「日坂八幡宮」や「八幡神社」とも称されるようになった。】

古来「願い事のままに叶う」という有難い神社として、東海道を往来する多くの人々が参詣したといわれ、神社HPには【主祭神の『己等乃麻知比売命』は、真を知る神、言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる神様。 言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として敬われています。】

主祭神が遷座される前に祀られていたと言う「本宮山」には、今も神社の奥社が鎮座します。 太鼓橋を渡って直ぐ、上に登る細い道を進むと結界に守られた「本宮遥拝所」。「奥社」は、参道前の旧1号線を跨ぐように架けられた歩道橋を渡った先に鎮座されまが、そこに至るには長い石段と斜面が続く道を行かねばなりません。残念ですが、遥拝所からのお参りとさせていただきました。

本殿の西隣に鎮座される「五社神社」。御祭神は『天照大神、八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、大国主命、火乃迦具土神(ほのかぐつちのかみ)、東照大権現』の五柱。

朱の鳥居の向こうに鎮座されるのは摂社「稲荷神社」。御祭神は『宇迦乃御魂神(うかのみたまのかみ)』

さらに隣には『大物主神=大国主命』をご祭神とする「金刀比羅神社」が鎮座。

新たな鳥居の南口が整地されるまで、その一隅には鯨の形をした「くじら山」がありました。そこには、神様が投げた碁石によって山になってしまったという「鯨」の伝説が残されていると云います。

その昔、事任八幡宮の神様は大そう碁が好きで、ある時海の神様を呼んで碁を打ちました。 ところがそこで美しい姫神様を見た海の神様、さっそく求婚の使いを鯨に頼むことにしました。
けれど求婚を断られてしまった鯨は海にも帰れず、姫神様を飲み込んでさらおうとしたのです。 大きく口を開けて姫神様を飲み込もうとした有様を見た神様は、とっさに側にあった碁石を鯨に投げつけました。
そして鯨はそのまま山に・・ ここに祀られた石は、整地された場所から出たという「くじら山・みたま石」だそうです。はてさて・・神様も随分と身勝手で無慈悲な事を・・・

境内を覆う御神木の「クスノキ(掛川市指定天然記念物)」は、樹高31M、目通り周囲は6M。 注連縄で結界を施された巨木は、パワースポットとして多くの参拝者の人気を集めているそうです。

奉納絵馬には、事任八幡宮に伝わる「羅陵王(らんりょうおう)舞楽」

最後は、表参道に架かる太鼓橋の近くに建立されていた句碑ですが・・・読めません(^^;)  見た感じでは句は二つ刻まれているようですが、神社のHPにも何の記載もありません。こういうのってもの凄く消化不良なんですが、もしもご存知の方いらしたら、是非、ご教授を!!

余談ですが、事任八幡宮諏訪大社下社春宮戸隠山は、ほぼ南北一直線上にあるのです。 それが何か?と聞かれても何にも答えられないのですが・・・でも、もしかしたら古代祭祀の謎とか・・ちょっとワクワクしませんか(⌒∇⌒)

参拝日:2016年12月13日

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『己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)』。興台產靈  (こごとむすひ)の妃神で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母神。天の声を言の葉を通して世の人々に伝え、加護を賜う「ことよさし」の神としても知られる。


日坂宿そぞろ歩き in 静岡県掛川市

2019年02月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

掛川市日坂にある「日坂宿(にっさかしゅく)」。東海道五十三次二十五番目の宿場で、「箱根峠」「鈴鹿峠」と並び、東海道三大難所と呼ばれる「小夜の中山峠」の西麓に位置します。

『歌川広重』の東海道五十三次に描かれた、真っすぐに切り立った急斜面。それと並行して作られた街道を歩く旅人たちの様子からも、その険しさがうかがい知れる小夜の中山。東海道で一番小さな宿場と言われた「日坂宿」はそんな難所の麓に位置します 急斜面の真ん中に描かれているのは、遠州七不思議の一つ「小夜の中山の夜泣き石」

車泊でお世話になった「小笠PA」の記念スタンプにも、広重描く「小夜の中山の夜泣き石」がデザインされています。

日坂宿:片岡本陣扇屋跡に残されているのは、家紋を染め抜いた門と、当時を語る説明だけ。 嘉永5年の日坂宿大火で全焼した「扇屋」は、のちに再建しましたが、明治3年に閉店。その後、跡地は日坂小学校の敷地とされ、家屋は校舎として利用されましたが、そのいずれも今は現存していません。

門の奥に広がる跡地に建立された碑は、『明治天皇』東幸の際に『片岡金左衛門』宅にて小休された旨が刻まれています。

天保14年(1843)の記録によると、日坂宿には本陣1軒、旅籠屋33軒、168軒の家があり750人が居住していたとあります。
『大田南畝』の「改元紀行」には【日坂宿の家々はわらび餅を売り、足いたみの薬、足豆散・足癒散等を売るものも多い】と記されており、難所と言われた峠越えの厳しさが伝わってきます。

本陣は跡形もなく消え去りましたが、宿場の街道沿いには当時を物語る建物が僅かながらも残されています。

ここは日坂宿最後の問屋役を務めた『伊藤文七』の自宅で、「藤文」の屋号で呼ばれていました。維新後の明治4年(1871)には、日坂宿他27カ村の副戸長に任ぜられたそうで、宿場の実力者的存在だったようです。

ちなみにですが・・2011年に訪問した折には、右隣には別の建物が付属していました。

「萬屋」は間口四間半。幕末としては中規模の造りで、もっぱら庶民の泊まる旅籠として使われました。 一階が「みせ」と「帳場」で、二階には宿泊のための「座敷」が今も残されています。

宿場の西に建つ「川坂屋」は、問屋役を務めていた『斉藤次右衛門』が始めたと伝えられています。 身分の高い武士や公家などが宿泊した記録などから、格の高い脇本陣格であったことが伺えます。

「川坂屋」は、明治3年まで旅籠屋として存続し、以後も要人には宿を提供していたそうです。 内部は江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作され、格式の高さが今も残されており、休日には内部の無料公開もあるとの事・・。生憎と日程の折り合いがつかずで、外観のみ。

「川坂屋」の向かいにある「紫雲山 光善寺(宝聚山 相傳寺)」。境内入り口には火防鎮護の「秋葉常夜灯」が奉納されています。

「遠江:三十三観音霊場」『聖観世音菩薩』を霊場本尊としており、境内には沢山の幟が奉納されています。折角宿場の外れまで来たのですから、みんなで旅の無事と安全を願い手を合わせましょうか。

相傳寺横の「高札場跡」には、記録に基づいて復元された天保年間の高札八枚が掲げられています。親子高札は忠孝札とも呼ばれ、親子・兄弟・夫婦・親類縁者みなともに、仲良くするように。火付高札は、火事の際にみだりに騒がず、また火事場泥棒は厳罰に。毒薬やにせ薬の売買を禁止する毒薬高札。みだりに徒党を組むことを禁止する徒党高札・・切支丹高札、伝馬高札、駄賃増高札等々。信教の自由を声高に言い募って「切支丹高札」を批判する人も、たとえばそれのみを国教とする国で、他国の念仏や呪術を大っぴらにやれば・・多分胴体と首が離れ離れになります。

宿場の外れと呼ぶべきか宿場の入り口と呼ぶべきか。古宮橋が架かる逆川のこの位置が、当時の「下の木戸」の跡。下の木戸は宿場への出入り口にあたるところで、ある一定の時刻になれば通行出来ないように閉ざされてしまいます。場所によっては「見附」「棒鼻」などとも云われ、特に見附はそれがあった場所にちなんで地名となった所も多く見かけます。

鳥居の奥の「秋葉常夜灯」は、「事任八幡宮」参拝後に日坂宿に入る途中で見かけたもの。 何よりも火事を恐れた人々にとって、火防鎮護である秋葉権現への信仰は絶大なものだったのでしょう。

訪問日:2011年11月14日&2016年12月13日

 


蓬莱(ほうらい)橋~其の二 in 静岡県島田市南町

2019年02月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に続いて、蓬莱橋のご利益スポット(縁起の良いスポット)の紹介は、仲良く寄り添う「愛和同祖神」。同祖神は外から来る魔・災いを防いでくれる守り神。 ここでは「旅人の安全を守る神」「男女愛和縁結びの神」「安産子供の守り神」と紹介されています。

縁起が良く、しかも長寿の代表とされる鶴。これは天に羽ばたく鶴を刻んだ「昇天鶴の像」。 ちなみに近くに「萬年亀」なる亀の像もあった筈なのですが・・・(^^;)

「高砂」は、目出度い場所によく使われるもので、関西では結婚式場や結納などでも登場します。 「尉と姥像」は【お前掃く(白)まで わしも九十九(熊手)まで 共に白髪の生ゆるまで】 私たちもそうありたいと願っています。ずっと昔から謡われてきたお目出度い言葉遊びですが、こういう日本人の感性って大好き。

「尉の松(黒松)」・・・はて?「姥の松」はあったかしら??

「蓬莱の島台」から時折聞こえてくる澄み切った音は、長寿を願って鳴らす「長寿の鐘」。 「蓬莱に 不死の仙薬無けれども 長生き橋(長い木橋)にあやかりて 長寿祈願の鐘一つ打つ」 お互いに健康で何時までも旅が楽しめるように・・・

「長寿の鐘」のすぐ側にあるのは、籠の中に保存された「貝群化石」。250万年前のものだとか。 どのような経緯をへてここにあるのか詳細は不明ですが、まさに太古の大井川の象徴です。

「蓬莱七福神散策道」、恵比寿様に大黒天、ここまではそんなに大変ではなかったのですが・・

蓬莱橋の対岸から「法林寺」までは約30分の道程で、道はまだ続いています。Jさんはすっかり歩きつかれて行きたくないと言うし、行ったらまた橋を渡って帰らなきゃいけないし・・ という事で、三分ばかりの協議の結果「蓬莱七福神巡り」はこの二神で終わり(笑)

さぁ、眼下に伸びる蓬莱橋が私たちを手招きしています。名残は惜しいけどまたいつかを期待して。

ほらほら、待ちくたびれたご亭主殿が「ど真ん中」で手招きをしていますよ。

蓬莱橋の近くで見つけた詩碑と文学碑。理論物理学者で歌人でもあった作者が蓬莱橋のほとりで晩涼のひとときを楽しんだときの詩です。

【 五百五十間の 長い木橋が ゆらゆらと揺れる… 】『石原純』

【春のみ山路】は、鎌倉時代中期から後期にかけての公家で、歌人でもあった『飛鳥井雅有』の文学碑。【 こえはてて  ゆひという所すぎて   又あまのしほや  五六ばかりなる所は こかげあり   とへがせぎさわとぞ云うなり   あまのすむ里おば  こがねとぞ申  うみすらを四里ばかりゆきて 神原という宿にとどまりぬ はるかにきかざりし浪の音  ただ枕の下にきこゆ 】

更新世の時代(180万年前から1万年前)よりも更に遠い、太古の時代から存在すると云う「大井川」。「太古の大井川玉石」と刻まれた石が実際にどれほどの時代を経てきたのか、私にはわかりません。 それでも石肌に触れて、悠久の時の流れに思いを馳せる事が出来るなら、ちょっと素敵ですね。

お気に入りの場所と言うのは、どれだけ時間を過ごしても、何度見直しても名残はつきません。 もう一枚、もう一箇所だけと言いながら、何枚同じようなアングルで写真を写したことか(笑)

「また来ようよ」というご亭主殿の声を合図に、半ばしぶしぶ(笑)車に。ラスト画像は「大井川 記念碑のイメージ」

渡り来た橋過去であり(蓬莱吉祥天女で厄払い)無病息災長寿を願い これから渡る未来への橋(八九七・四米 世界一長い木橋) 蓬莱とは不死の仙人が住む幻の霊山 不老不死千秋万世

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日