goo blog サービス終了のお知らせ 

車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

八楠加茂(やぐすかも)神社 in 静岡県焼津市

2019年01月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市八楠(やぐす)に鎮座される「八楠加茂(やぐすかも)神社」。御祭神は『賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)』

【大化2年(646)2月、山城国上賀茂神社より勧請し創建。「総国風土記」に、箭葛柳田神社所祭雙栗神也とあり、また「駿河国諸郡神階帳」には、益頭郡従五位上八楠地祗と記載。往古は祭礼時に神輿を天白に行幸し神楽を奏し、馬場田で流鏑馬をおこなっていました。明治8年、村社に列し、明治40年、神饌幣帛料共養社に列しました。】由緒より

境内より神域を守護されるのは、静岡県内では珍しい籠神社型と呼ばれる狛犬さん一対。

首を大きくまわして、豪快な笑い声と共に参拝者を迎える阿形さんは、何とも楽し気でおおらか。

阿形さんが飛びっきりの笑顔なら、頭上に角を持つ吽形さんは、まるで透き通った空のような穏やかな佇まい。 人の営みの小さな悩みなど、ふわっと包み込んでくれそうな雰囲気はまた格別。「謹刻・松永憲三郎 昭和56年(1981)〇〇〇落成記念」の刻。

調度境内を手入れされていた方から、この狛犬に関して色々とお話を伺う事ができました。話の端々にあふれる神社への敬愛の想いが伝わって、聞かせて頂く私たちも自然と笑顔に。

このユニークな尾も、外の神社では見られないと目を細めてお話を続けて下さった方、今もお元気でおいででしょうか。

注連縄がめぐらされた手水舎の佇まいの清浄さが深く心に残った八楠加茂神社の参拝。その節は、本当に素敵な時間を有難うございました。

参拝日:2011年11月14日

 


花沢の里 in 静岡県焼津市

2019年01月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市北方の山間部、高草山の中腹に、山々に囲まれた隠れ里のような民家集落「花沢の里」があります。はじめてその記事を見つけてから丁度一年を経た2011年、ついにそのの入り口まで来ました。駐車場に車を入れたら、そこから先はひたすら徒歩で坂道を登ります。

奈良・平安期には、静岡と焼津を結ぶ主要峠道として万葉集にも詠まれた由緒ある花沢の地。 何処もそうですが、見知らぬ景色の中に足を踏み入れる時のあのワクワク感、堪りませんねぇ~。

HPなどによると、花沢の地では、明治から昭和にかけてお茶や蜜橘、養蚕業が盛行を極めていたとか。花沢川と併行する旧東海道の傾斜地にある花沢の里には、今も江戸期の家など数十戸の民家が残っています。

急勾配の片側に石垣を築き、その直上に瓦屋根の木造屋敷が並ぶ・・・その光景は何処を切り取っても、それが未熟な私の写真であっても絵になる。 敷地の平場を最大限に確保するため、石垣は道路際から築かれて屋敷地を造成しています。

石垣と附属屋が階段状に連なる景観は、おそらくこの地域独自のものでしょうが、どこか懐かしく、苔むした石垣に作られたシャレた看板までもが、不思議なくらい空気に溶け込んで見えます

かってこの小さな集落には、お茶や蜜柑の収穫にあわせて多くの季節労働者が滞在していました。 民家では彼らの宿泊施設として附属屋などが増改築され、それらは現在まできちんと保存されてきました。

時間が止まったような錯覚を覚えさせる坂道、山間の切れ目から日差しが差し込み不思議な模様を地面に描き出しています。 この先をもう少し上ると天台宗の法華寺という寺院があるらしいのですが・・・・・

ここまでと決めた道の左手に細い坂道が続き、入り口には「鞍掛峠・満観峰」と書かれた案内板。流石にこの坂道を登っていく根性はありませんが、私たちとしては上出来の花沢の里訪問。何よりここまでに至る折々に見せて頂いた素敵な景観に大満足。

坂の途中に見つけた「焼津邊・・・・」と万葉仮名で刻まれた、万葉歌碑。

【焼津邊(焼津べに)吾去鹿歯(わが行きしかば)駿河奈流(駿河なる)阿倍乃市道尓(阿倍の市道(いちじ)に)相之兒等羽裳(逢ひし兒らはも)】

詠み人は、飛鳥時代から奈良時代の僧侶で歌人『春日藏首老(かすがのくらのおびとおゆ)』

山際の細い通路に延びる軌道は、おそらく収穫したミカンを運ぶためのもの。庭先の何か所かでミカンを販売している所を見かけたのに・・・こんな時に限って小銭が無い!!両替をお願いできる人影すら無い (ノ_-。)

南北約500mほどの集落、私の足には些か厳しい坂道でしたが、思い切って歩いた価値はありました。 歩き終えてしまうと、このまま坂を下ってしまうのが勿体無いような・・例によって例の如くのいつもの感傷(^^;)
そうそう、集落の入り口に見かけた「オシャモッツァン」という、山肌を覆うような大きな岩。で、この岩は歯痛や子供の病気に大きな御利益があるとされ、古来より花沢の人々が信仰してきたとか・・
あの岩まで登って願をかけたのか、この下から見上げて手を合わせたのか・・・どっちなんでしょうね?

この訪問から約三年後の2014年、焼津市花沢地区は「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

訪問日:2011年11月14日

 


由比本陣公園・由比宿 in 静岡市清水区由比

2019年01月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

「由比」と聞いて真っ先に思いかんだのは、浪曲や講談などで知られる『由井正雪』。 私の父はそうした演芸が好きで、いつも側に置いてあるラジオから流れてくる演目に嬉しそうに聞き入っていました。
長じて、『由井正雪』を悪として描く内容の映画やドラマばかりが目立つようになり、心のどこかの「なんか違う・・」という思いが手に取らせた『山本周五郎』「正雪記」。むさぼるように読んだ記憶があります。

今回、思いがけなくも、その『由井正雪』の生家とされる染物屋「正雪紺屋」の前に立つことが出来て、何と言うか・・感無量。 江戸時代初期から四百年も続いているという紺屋(染物屋)ですが、その佇まいは至って普通。あまりにも普通過ぎて何度も行き過ぎそうになる程・・ごく普通に見かける佇まいなのです。

思い切って店内に入らせて頂いてまず目につくのは、土間に並ぶ「藍甕(あいがめ)」。長い年月に染み込んだ藍の残り香が見えるような、なんだかそこだけ時間が止まったような不思議な空間。結局、正雪は家業を継がず、江戸に出て軍学者として名声をあげ、浪人救済のために徳川幕府の転覆を企てるも果たせず自刃して果てるのです。一介の商人として生きるにはあまりにも聡明過ぎたのかもしれません。

ここは東海道53宿・16番目の宿場町「由比宿」・・だった地。街道沿いの町の中心部が宿場町といわれており、およそ700人の人が住んでいたといいます。参勤交代の大名の宿として設けられた本陣跡は、今は「由比本陣公園」として整備され、自由に立ち入る事が出来ます。

本陣跡地に建設された「東海道由比宿交流館」は、江戸文化に触れる!を目的とし整備された施設。無料で開放されており、由比の歴史や観光情報に触れる事ができます。

時代劇に良く出てくる日本橋を眺めながらの記念撮影は、旅の素敵な思い出(*^^*) ちなみに羽織っている半被に染め抜かれているのは、桜海老と富士山、例の由比町シンボルマーク。

公園内には「本陣井戸」なども残されており、地味ですがそれなりに見所はあります(笑)

また北西の角にある離れ座敷は、「由比本陣記念館・御幸(みゆき)亭」として復元されたもの。「茶室・結仁斎」がしつらえられており、明治天皇が3度にわたりご休息されました。

「明治の郵便局舎(平野氏宅)」折角の美しい建物なのに、黒板塀の向こうで何にも見えないなんて、誰や?この写真写したの!って・・私ですやん (>_< ) 駆け足での立ち寄りでしたが、今度はもう少し余裕を持ってじっくりと歩くのも有りだね。 由比宿で脇本陣を勤めた「饂飩屋」とか、全然気づかなかった「清水銀行由比支店本町特別出張所」とか・・・

昭和初期に建てられた建物を改装したという「和紙と錦織の館」には、興味深いお土産が一杯。

お土産と言えば、由比は桜海老がとにかく有名。「ゆい桜えび館」にももう少し時間をとって寄ってみたかったなと・・ 楽しい旅が終わった後について回る「し残した、あれもこれも」今回も、忘れずもれなくついて来ました(笑)

だからもう一度来ようと思える、それは計算外の面白さに出会えたという何よりの証拠。そういえば、おもしろ宿場館の入り口にいた「弥次喜多コンビ」。一体誰を呼んでいるんだろう?

訪問日:2011年11月12日

 


蒲原界隈見て歩き in 静岡市清水区蒲原

2019年01月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

東海道五十三次15番目の宿場「蒲原宿」。旧東海道沿いには僅かですが伝統的な町屋が点在します。
静岡市清水区蒲原3丁目にある「志田(しだ)邸」。屋号を「やま六」といい、蒲原宿内で米・塩・油等を扱い、江戸後期には醤油の醸造も手がけていました。 主屋は嘉永7年(1854)の安政地震によって大きく被災しましたが直ぐに修復、現在に至っています。

主屋内は店の間・中の間・居間・と続き、「通り土間1列型」の典型的な町屋形式。 しとみ戸・箱階段がある店の間は、今日まで電気を引いた事のない、安政建築そのままの貴重な内装が見られます。

店の間の一角を占める飾り棚には、何世代もの時代を経た幾体もの「天神雛」が飾られています。 上巳の節句(3月3日)は、古くには男女の差別なく、身を清め成長を願う日とされていました。 男の子には天神人形を贈る習慣があり、5月の初節句よりも早く、天神さんを飾り祝ったそうです。

面白いと思ったのは、内裏雛の男雛は衣装も何となく男性らしいのに対し、天神様は、冠に黒いお髭が無ければ女雛と間違えそうな色あいの衣装だと言う事。何時の時代の天神雛なのか見忘れてしまいましたが、それにしても興味深い貴重なものを見せて頂きました。

志田邸の斜め向かいに、ひときわ目を引く薄水色の、瀟洒な洋風建築の建物があります。

街道沿いに建つ「旧五十嵐邸」は、大正期以前に町家建築として建てられた住宅でしたが、大正3年に、当時の当主『五十嵐準氏』が歯科医院を開業するにあたり、町家を洋風に改築。 その後昭和15年ごろまでに、西側・東側部分をそれぞれ増築し、現在の形になりました。

玄関に施された軒蛇腹(のきじゃばら)や、軒下の歯型飾りなど、洋風の意匠は一見の価値あり。この美しい「旧五十嵐歯科医院」は、先の「志田家住宅主屋」と共に、登録有形文化財に指定されています。

これはたまたま町並みの中で見かけた「五十嵐歯科医院」。建物はもしかしてその後の五十嵐邸かな?。

かっては「蒲原御殿」と呼ばれた建物も今は無く、「御殿道」の名称のみが残された街道筋。 往時を物語るのはわずかな文献のみとなりましたが、それでもそれらは確かに存在していたのです。

訪問日:2011年11月12日

 


上山(うえのやま)神社 in 静岡市清水区蒲原

2019年01月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

鮮やかに色づいた蜜柑畑が広がる一画、静岡市清水区蒲原小金に鎮座される「上山(うえのやま)神社」

御祭神は『淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)』。オモダルとは「完成した」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。 二神は人体の完備を神格化したものであり、オモダルは男神、アヤカシコネは女神とされます。

由緒に【創建年月不詳なるも、天平勝宝二年(紀元1410)奈良東大寺の大佛を鋳造するため、全国司に黄金を献ずる旨を命令し、時の駿河の國司楢原造東人等部内葦原多胡浦浜に於て、黄金を獲て之を献じ(続日本記)黄金を獲た処を小金村と称し(大日本史)と古書にあるので、それ以前に鎮座せしと思料する。】

本殿、玉垣前の左右より神域を守護されるのは、大きな鼻が特徴的かつ個性的な尾流れの狛犬さん一対。 よい具合に苔のついた台座には「大正二年九月吉日建立 石工・加藤萬吉」の刻。

阿吽いずれも独創的で素晴らしい狛犬さん・・・なのですが、あまり真正面から直視されたくない(^^;) 暗い所で見たら絶対に!泣く自信がある。

取り合えず三十六計逃げるにしかず

してやったりと、小憎らしくも楽しそうに顔を見合わす阿吽の一対・・(笑)負けた感が半端ないのが悔しい(ーー゛);

久しぶりに狛犬さんで遊んでみました(^-^)

参拝日:2011年11月12日

 


若宮神社 in 静岡市清水区蒲原

2019年01月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡市清水区蒲原、御殿山南西麓に鎮座される「若宮神社」。御祭神は『品陀和気命(ほむだわけのみこと)=(応神天皇)』

鎮座地は元蒲原御殿があった場所とされ、井戸を掘った際に石積や松の丸太などが地下2m余りの所から発見されたと云われています。一の鳥居をくぐるとすぐに、二の靖国鳥居。その奥に拝殿。境内には由緒などを記したものは何も無く、創建や由来などは不明。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、異星人的容貌の不思議な雰囲気を持った尾立の狛犬さん一対。「大正二年(1913)十月」の刻。 全体的にすっきりした線の所為か、顔立ちの異様さに似合わずおとなしい印象。

出来の良い美味しそうな筍を連想させる尾・・(^^;)

拝殿の裏側から本殿へいたる石段・・見上げた私たちはこの場で拝礼をし、即効で回れ右(^^;) 決して万全ではない病もちの私には、よほどの事でもないとこういった冒険はおかせません(笑)

参拝日:2011年11月12日

 


三保の松原 in 静岡県静岡市清水区

2019年01月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡市清水区の三保半島に位置する、謡曲『羽衣』の舞台で知られる景勝地「三保の松原」。佐賀県唐津市「虹の松原」、福井県敦賀市「気比の松原」と共に、日本三大松原とされており、国の名勝に指定されています。

更にその美しさから「日本新三景」とも称えられているそうで、今回の旅では訪問を楽しみにしていた景勝地の一つ。ところで「日本新三景」は「三保の松原」に九州の「耶馬溪」、北海道の「大沼」だそうで、日本人って何でも三つにまとめるのが好きなんだなと笑ってしまったのだけど、では誰がそれを決めたんだろう?(笑)。
それはさて置き、早朝の海岸から望む駿河湾越しの富士山は、まさに神々しいばかりの美しさ。

子供の頃【白い浜辺の松原に~♪】で始まる童謡の、白い浜辺が何処なのかずっと疑問でした。 何故なら、歌詞はいつも二番の【天の羽衣ひらひらと 天女の舞の美しさ】で終わっていたから。
大人になって昔の童謡を聴く機会があり、三番が【空にほんのり富士の山】で終わるのを知りました。 富士山が見えて天女伝説の残る松原は、ここ清水区の三保半島に広がる「三保の松原」だけ。 だから実際に、朝霞の中に浮かぶ富士山を見た時は、思わず子供の頃のように羽衣を口ずさんでいました(笑)

天女が舞い降りたとされる「羽衣伝説」の舞台には、「羽衣の松」が大切に保存されています。 羽衣の松は「御穂(みほ)神社」の御祭神が降臨する際の依り代とされており、現在は三代目だとか。
初代「羽衣の松」は宝永4年(1707)の富士山大噴火の際に海に沈んだとか・・。神の依り代が富士の炎と共に海に沈む、不遜な言い方ですが「何と意味深な物語・・」

羽衣の松の傍ら、駿河湾をのぞむ浜辺に鎮座されるのは「御穂神社」の離宮とされる「羽車(はぐるま)神社」。御祭神は『三穂津彦命(大国主命)・三穂津姫命』の夫婦神。こちらでは石に願い事を書いて納める風習があるそうで、今でも願い事が書かれた石を見かけます。

絵馬には「富士山と松、羽衣を受け取る天女と漁師の白龍」が描かれ、「羽衣の松」の文字。 三保の天女伝説では、漁師は素直に羽衣を天女に返し、天女は舞を見せて天に帰って行きます。が、天女が舞い降りて羽衣をかけた松、これはもう全国のどの羽衣伝説でもぶれない設定のようです。

謡曲『羽衣』はこの伝説を元にして作られたもので、室町時代から現代に至るまで人気の演目。 能の中で三保の松原の美しさを讃えて謡われる【君が代は 天の羽衣まれに来て 撫づとも尽きぬ 巌ならなむ】この一節が大好き🌸。

松原の一画に、フランスのダンサー『エレーヌ・ジュグラリス』の功績を称えて建立された「エレーヌの碑」。 彼女は日本の能を研究する中で「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣」を発表しました。そしていつかその舞台となった三保の松原を訪れたいと願っていたそうですが叶わず、35歳の若さで病死。「せめて髪と衣装だけは三保の松原に」、エレーヌの遺言どおり、夫は彼女の衣装と遺髪を持って来日。 この秘話に共感した地域住民により、昭和27年にエレーヌの功績を称えた「エレーヌの碑」が完成。 「羽衣の碑」とも名付けられた碑の袂には、彼女の願いどおり、遺髪が納められているそうです。

「御穂神社」から「羽衣の松」まで、樹齢200年から300年の老松の並木が濃い緑の影を落として続く「神の道」

その「御穂(みほ)神社」には、羽衣の切れ端といわれるものが保存されているんだそうです。
ん?? 羽衣の切れ端って?? 、もしかして白龍が松から羽衣を取ったときに千切れたとか?! 天女の羽衣なのに、切れるとか有り得ないでしょう!!というお馬鹿な突っ込みはこの際、無しという事で(笑)

訪問日:2011年11月13日

2013年、三保の松原は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されました。

 


日本平・清水港 in 静岡県静岡市清水区

2019年01月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

駿河湾沿岸近くの有度山(うどやま)の山頂と、その一帯に位置する「日本平」。 駿河区と清水区の境界にある景勝地で、その名称は『日本武尊』の伝説に由来します。

日本平から望む富士山は遥かに遠く、それでもなお美しく、『日本武尊』も同じ景色を見たかもと思うだけで胸が熱く(笑)ついつい感動してしまう私。
はるか昔・・・小高い丘に登り周りの平原を見渡す『日本武尊』の姿を見た土地の人たちは、この地を「日本平」と名付けたと・・・古より語り継がれてきました。

【倭は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 倭しうるわし】 

古事記に登場するこの歌は、『日本武尊』が死を前に故郷である大和の国を懐かしんで詠んだと伝えられています。所詮神話の作り話、実在などしないと笑う種類の人たちもいますが、私は『日本武尊』が詠んだと言われる「倭(やまと)しうるわし」のこの言葉が、切なくなる程好きです。

訪問日:2011年11月13日

------------------------00----------------------

神話ではなく実在の人物として、清水区には私が愛してやまない侠客『清水次郎長』がいます。『大政・小政に森の石松』、次郎長一家の話は、映画や小説でもずいぶんと取り上げられました。 みんな飛びっきりの男前な気質で、子供心にも胸がときめいたのを覚えています(笑)
ご亭主殿が感慨深げに見ている建物は、明治十九年に清水次郎長が清水波止場に開業した「船宿・末廣」を復元したもの。

『清水 次郎長』・・本名『山本 長五郎』は、幕末・明治の侠客で東海道一の大親分とうたわれた人物。次郎長は晩年の住居を港の中心部(清水区港町)である波止場と定め、「船宿・末廣」を建てました。「勝運」「願 次郎長」と刻まれた碑は、侠客であった次郎長らしいよね (^^♪

「末廣」には、日露戦争で活躍した『広瀬武夫』『小笠原長生』、画家の『富岡鉄斉』。広辞苑編者の『新村出』等々・・私でも名前を存じ上げている著名人が訪れ、次郎長と歓談したと言われています。

しっかり者の女房『お蝶』に店の事は任せっきりで、木綿の着物に素足でどこへでも出かけた次郎長。 おしどり夫婦として仲良く寄り添い、大勢の子分たちの親代わりとして慕われ束ねてきた次郎長親分。

次郎長の晩年は、近所の子供たちに慕われ、ゆったりと時を過ごす「港のおじいさん」。穏やかで和やかな時間は、時に生死を分ける博徒の世界に生きてきた次郎長が最も欲して来た時間だったのかもしれません。
明治26年(1893)、風邪をこじらせた次郎長は、恋女房のお蝶に手を握られ73才でこの世を去ります。 大正5年(1916)にお蝶も死亡。「船宿・末廣」は次郎長の養女『山本けん』が引き継ぎました。

1999年、清水港のすぐ近くを流れる巴川の河口付近に建てられた「清水港船宿記念館・末廣」。もう少し早い時間に訪問できれば、「次郎長親分の等身大の人形」と記念写真も撮れたのに、ああ、勿体無かったな・・・。
目の前に広がる海の景色は、かって次郎長親分が眺めた頃とは違っているだろうけど、空を写す海の色はきっと変わっていない。激動の時代の中で、幕府軍・官軍の色分けをせず、人としての誠を貫き、清水港の発展に尽力した「清水の次郎長、まっこと男前!!」

訪問日:2011年11月12日

 


宇津谷隋道(明治第二トンネル) in 静岡県静岡市

2019年01月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡市駿河区宇津ノ谷と、藤枝市岡部町岡部坂下の境にある「宇津ノ谷峠(うつのやとうげ)」。ここに明治9年(1876)に、日本初の有料トンネルとして開通した「宇津谷隧道」があります。

ずっと気になりながら立ち寄れなかったこの明治の遺産、今回やっと訪問する事ができました。「道の駅:宇津ノ谷峠」に車を置いて、そこから徒歩で「宇津ノ谷集落」へと向かいます。

道の駅の外れにある「蔦の細道」は、平安時代初期から室町時代後期まで使用された古代の官道。古道好きには最高に楽しめる道のようですが、私には多分縁のない道(-_-;)。

写真は「宇津谷隧道」の休憩所にあった「蔦の細道」。何となくですが良い雰囲気でしょう。とは言え、心惹かれるも足に問題ありの私。できれば歩きたくない同行者。二人の思惑を知ってか知らずか、ご亭主殿は笑うだけ(笑)

丸子川を超えて宇津ノ谷の集落の中を進む東海道。集落の入り口にあった「宇津ノ谷峠案内図」。左が集落を突っ切る東海道、右側の広い道が旧・国道一号線。

街道の左側は川、真冬という季節の所為なのか水は少なく、それがまた妙に寒さを感じさせて、息を吹きかけながら手をこすりあわせる女二人。

「鞠子(丸子)宿 」と 「岡部宿」との間、宇津ノ谷峠を前にして間宿として栄えた静かな山あいの集落。なだらかとは言えない坂道沿いの家々を見ながら、塵一つない道を歩けば気分はまるでタイムスリップ。

集落の中で一際目を引く佇まいは、「お羽織屋」の屋号を持つ石川家。

ー東海道宇津谷 石川家  お羽織屋 豊臣秀吉公のお羽織の由来ー

【天正十八年(一五九〇)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷(うつのや)に休息した。その際、当家の祖先が馬の背を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康も、この羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。】 説明板より
説明の中にある「カイキ」は「甲斐絹」と書き、南蛮船によって渡来した非常に高価な絹織物の名称。 明治11年に馬で峠越えをされた『明治天皇』は、このお宅で小休止をされたそうです。

集落の外れ近くまでくると坂道はさらに急になり、手すりつきの石段にすがるように一歩・・一歩。 石垣を彩る花に目をやる余裕もなく、ひたすら足を運んでいるので、当然無口になってしまいます(笑)

やっと上りきって振り返る集落の間には、歩いてきた東海道が真下に。集落の向こうに見える緑深い山々・・・東海道はあの山の中を突っ切ってここに続いていたんだと改めて思う。

「宇津谷隋道」へ行く前にほんの少し右にそれて「国史跡・東海道宇津谷峠越え」入口まで。 この道は、秀吉の小田原攻めの際に開削されたもので、「出世街道」とも呼ばれる峠越えの山道。

実際にはほんの20mほど歩いただけですが、気分だけは歴史的な道に足を踏み入れた!!(笑)。下の写真は「蔦の細道」と同じ場所から転載したもの。 山道はどっちも大差ないと思えるのですが、旧東海道になって峠越えは格段に楽になったそうなので、してみれば、蔦の道は金輪際、私たちには縁の無い道のようです(^^;)。

さぁ、やっと「宇津谷隧道・静岡側坑口」・・・・一人なら、間違いなくこの場で回れ右をしたかも(笑) いや、その前に一人ならここまで到達出来ていない。

【明治9年(1876)6月、我が国初の有料トンネルがスタートした。工事費2万4,817円余(官の支給分8,300円)で、その経費は50年間の道銭徴収、大人2厘(後に6厘)、子供1厘(4厘)でまかなうというものだった。完成したトンネルは長さ221m、高さ4・5m)、幅5・4mであったという。
その後、明治29年(1896)火災により焼失するが、明治37年(1904)に修復・改修され再開通した。 工事では当初「くの字形」であったものを直線にして、内側を赤レンガで覆う改良も行われた。】

天井につるされた照明が赤レンガの壁に反射し、その光景はまるで不思議の国への入り口。 じっと見上げているとこのまま異空間に誘い込まれるような・・・そんな錯覚をあながち笑えない・・不思議な国に通じる不思議な時間の扉。

いつになくおしゃべりになってしまう女二人、多分、少しだけ臆病風に吹かれ始めた所為かもしれません。 出口が近づき人工ではない明かりが見えてきた時は、わけもなくほっとため息。

「トンネルを抜けるとそこは藤枝市だった」・・なんてしょうもない話をしながら、それぞれに記念撮影もして。

再び不思議な国への入り口へ、でも帰りは驚くほど短い距離・・人の心理って本当に不思議で面白い。

元来た道まで戻ってとりあえず一息。不意に何かに呼ばれたような気がして山裾を見れば、何時の時代かも定かでない板碑。手を合わせて旅の無事を祈り、さて、元来た道を下りますか(^-^)

1997年5月7日、「明治宇津ノ谷隧道」は国土の歴史的景観に寄与するとして、国登録有形文化財に指定されました。

訪問日:2016年12月11日

 


静岡市内の歴史的建造物(国登録有形文化財) in 静岡県静岡市

2019年01月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に続いて静岡市内に残された、国登録有形文化財の歴史的建造物の紹介は、市役所庁舎のすぐ近くに、昭和12年(1937)に完成した「静岡県庁舎本庁舎」。1934年の懸賞設計当選者『泰井武』の案に基づき、『中村與資平(よしへい)』が実施設計を担当。

コンクリート造りのビルに瓦屋根が載せられた「帝冠様式」とよばれる和洋折衷の建築物。上から見ると「日」の形になっているそうで、興味津々。

建物の内部は見学できていません。市役所と違って県庁舎はなぜか敷居が高く感じられて・・でもそれって、もしかして私だけ?(笑)

静岡市葵区呉服町の通りに面して建つ「静岡銀行本店」『中村与資平』の設計で「旧三十五銀行本店」として昭和6年(1931)に完成。実際の店舗なのでもちろん内部の見学は不可(^^;)。

上が2011年の画像、下は2016年の画像・・こうして見るとまるっきり別の建物みたい。

市内から少し外れた駿河区高松の海岸沿いに建つ、国登録有形文化財「旧マッケンジー邸」

昭和15年(1940)に『ダンカン&エミリー・マッケンジー』夫妻の住まいとして竣工された建物で、設計者は『ウィリアム・M・ヴォーリズ』。そうあの『ヴォーリズ』!  まさか静岡市内でヴォーリズ建築が見られるとは!

赤い西洋瓦葺きの屋根に、スタッコ仕上げの荒い白壁・アーチ型の窓・ロートアイアンの装飾グリル・・・等々。 スパニッシュスタイルの住宅様式は、まさに絵に描いたような「ヴォーリズ建築」。

それにしても、靴底の上から痒いところを書くようなこの苛立たしさ。もう少し近くに行きたい!! とはいえ、敷地の入り口に架けられた「休館日」の札は、調査不足の私が悪いんだと言うように事さら大きく見える(-"-)
角度を変えただけの写真、これでも私の嘆きを見過ごせないご亭主殿が頑張ってくれた一枚(笑)

道路を挟んだ向かいに広がる駿河湾、二階の窓からは「富士山」が眺望できたそうです。 かなり羨ましい環境の「旧マッケンジー住宅」。何時か・・があるのなら、その時は是非(ただし晴天の時に)!

建物ではありませんが、マンホール撮影のために訪ねた先で発見した珍しいモノ。 市内七間町と呼ばれる一帯には、かって大小の映画館があり「映画館街」として賑わったとか。その賑わいは今も健在で「七ぶらシネマ通り」には、往時の撮影機等が展示されており、ちょっとした人気スポットになっています。

訪問日:2011年11月13日&2016年12月11日